衛澤のどーでもよさげ。
2005年06月13日(月) 快感と昂揚と安堵と。

久し振りに小説を書きはじめた。半年ぶりくらいだろうか。

いや、「小説」という体裁のものを書いていなかった訳ではない。衛澤とは別名義ではあるが、毎月毎月、四〇〇字詰原稿用紙にして三〇〜四〇枚程度の短編読切小説を書いて少なくとも一本は納めて、原稿料を貰っている。だがしかし、昨夜から今朝にかけて書きはじめたものを書いているときと、別名義作を書いているときとでは心身の状態がまったく異なる。

昨夜書きはじめた小説は、一部の人には既に存在を御存知頂いている人物たちをモチーフとした物語で、勿論衛澤名義作である。冒頭の一行が万年筆の先から生まれ出した途端にぼくの脳と利き腕と万年筆とは直結して、ぼくの身体の奥深いところから次々と溢れ出してくる言葉を原稿用紙の上に休みなく綴り続けた。時計の上での時間にして六時間、ぼくは休みなく書き続けた。ずっと書机に向かって万年筆を動かし続けていた。筆を止める暇もないほどに次から次へと言葉が身体の深奥から湧いて出てくるのだ。

そのときの気分の昂揚は、これまで経験がなかったかと錯覚するくらいに長い間感じていなかったものだ。どのような言葉を用いれば形容し得るのか見当がつかないほどの昂揚感。これほど気分が高まったことなど、今年に入ってからは一度もなかった。そしてその昂揚はこの上ない快感となってぼくを衝き動かした。夜が深くなって、翌日のスケジュールに差し支えるから早く床に就かなくてはならないと時計を盗み見ながら思ってはいたが、なかなか進み続ける万年筆を止めることができなかった。

これが「小説を書く」ということなのだと、ぼくは改めて実感した。書いている間の昂りは安堵でもあった。暫くの間使われずに収い込まれていた言葉たちが意識しなくとも激しい奔流となって筆先へと現れ出る快感は、ぼくのもの書きとしての魂を荒ぶらせ、同時に気持ちを安らかにさせた。こんなにまで昂奮し、かつ心地よい時間を過ごしたのは、昨年の連載最終話を書いたとき以来ではなかっただろうか。
小説を書くということは、こんなにも愉しく、こんなにも快いことだったのだ。

だとすると、ぼくが毎月忸怩たる気持ちになりながら書いて原稿料を貰っている「それ」は、小説ではないのだろうか。きっとそうに違いない。
別名義作を書いていても集中力に欠け、仕上がっても碌にうれしさも感じないのは、小説を書いているつもりで小説でないものを書き続けていたからなのだろう。別名義でも「小説」を書くようにすればよいのだろうが、ぼくの芯の部分が、それはできないと悟っている。
ぼくは衛澤蒼なのであって、別名義を名乗っているときのぼくはぼくでなく、地面の上の影法師でしかないのだということに、ぼく自身が気付いてしまっているのだ。

しかしそれでも、ぼくは別名義作を書き続けなければならない。衛澤の望みを叶えるために、欺瞞を続けなければならないのだ。衛澤名義で原稿料が出る仕事が充分に入ってくれば、自分でありながら自分でない者の名など捨てることができるのだが、世の中とはなかなかそう巧くはいかない。
「つらい」と口に出すことでつらさがなくなるのならば、幾らでも口に出すのだが。


【今日の大丈夫ですよ】
「そんなに深刻にならなくても補助に先生がいるから大丈夫ですよ」……ぼくの働きはそもそも期待の範疇にはない訳ですな。だったら何でぼくをこの役に指名したのですか。


エンピツユニオン


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