衛澤のどーでもよさげ。
2004年10月10日(日) 見てくれではなく。

「見ためではなく中身」という「きれいごと」を嫌う人は割りと多く存在するようです。でも私はきれいごとは必要なのだと思うのですよ。きれいごとを言わなくなったら理想を求めることをしなくなってしまって、そうするとそのうち「理想」そのものがなくなってしまうのではないかと危惧します。
理想がなくなったら理想に近付くこともそのための努力をすることもなくなってしまいますからね。
ということで、「きれいごとは必要」と大決定。

それはともかく、「やっぱり見ためは大事」という意見をまったく否定する訳ではありませんが、すべてが「見ためではない」というきれいごとを唱える派です、私は。
そしてそのきれいごとが真実の一部を担う事実を体現していたことを体験しました。と、ここまで判りづらい文を書ける自分に感心。

ちょっと所用で出掛けなければならなくなりまして、その所用は無事に済んだのですが、帰りがけに出来心で(!)土産物屋に立ち寄ったのです。
その土産物屋では土産物に似つかわしくないものも販売されていました。かたちの揃わない野菜だとか熟していま直ぐにでも食べなければ身が崩れてしまいそうな果物だとか。

その中に、小粒のじゃがいもがありました。1kgくらいがナイロン袋に入って100円でした。
丁度じゃがいもが食べたいと思っていたし100円で沢山買えるので味がそれほどでもなくても構わないから、と購入して帰りました。このじゃがいもは塩ゆでにしてバターをつけて食べる予定にしていました。所謂「じゃがバタ」ですね。

かたちも悪いし大きさもまちまちで、「商品」にはならないようなものが安値で投げ売りされていたのだと思います。でも、このじゃがいもはとてもおいしかったのです。バターなどつけなくても塩ゆでの塩味だけで充分に御馳走と呼べるくらいに。

おそらくは、同じくらいにおいしくて、かつかたちのよいもの、見栄えのするものは、スーパーなどでもっと高値で売られているのでしょうね。けれども、じゃがいもは「食べもの」として売られているのだから最も重要な要素は「味」ではないでしょうか。
それなのに「味」以外の部分で評価されてしまって真価を見て貰えない「不揃いの」じゃがいもは不遇だな、と思いました。

私はおいしいものがとても安価に沢山入手できたのでうれしかったし有難かったのですけどね。


エンピツユニオン


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