2003年10月27日(月)
秋色深し

窓の前に見える田んぼはすべて稲刈りを終えた。私たちの劇団も千秋楽を無事迎えられた。大学の南の桜並木はソメイヨシノの紅葉が始まり、同時に冬桜が咲いている。

秋はいよいよ深まってきた。今週末からゼミの卒論執筆合宿だ。来週開けの知的収穫や如何?未だしや、の帰還となるか、見事発見の帰還と鳴るか……。

私は放っておいた雑事をこなさなければ……

冬の水琴窟。ようやくはねる。

それにしても、すっきり単一の決着のつく芝居をよしとするか、否か。たしかに決着をつけて客を送り出すのは楽しい、客は素直によかった、面白かった、楽しかった、と言ってくれるから。未完のまま送り出すのは結構辛いものがある。客は無言のまま、そそくさと劇場を去って行く。顔を背けるようにして去るものもある。多くは知り合いだ。言うべき言葉が見つからないだろう。しかし、と別な私が言う。はじめからそういう作品を目指していたのではないのか。観た人をとまどわせ、なやませ、劇場を出たあともまだ引きずるような芝居を目指していたのではないのか。その辺が難しい選択だ。

かと思うと、あの手法は10年まえの流行りだ、と一刀両断の批評をするひともある。そうか芝居を流行として観る人もあるんだ。ちょっと残念でもある。そういう風に、外面的な技術だけをみるのは演劇関係者に多い。表現の文法は劇団で激しく異なる。そして、芝居では(芝居でも、か?)表現が内容を規定する。だから必然的に技法への評価は食い違って当然なのだが、どっこい技法だけが内容のすべてではない。とはいえ、そういう理屈で感じたことが動くわけではない。ま、内容へまで釣り込めなかった私たちの技量不足ということか……

確かに、冬の水琴窟は難解な作品だ。観客にとってはもちろんのこと、演じる側にとっても。難解な作品を難解と感じさせることなく釣り込むのが芸というものだろう。客は釣り込まれて、穴に落ち、気づいてみたら、もう抜け出せなくなっていた。そういうのが理想の舞台だろいう。実にArs longa, vita brevisだ。


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