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昭和50年代(正確には昭和49年9月18日)関口栄氏が東京地裁に世界真光文明教団並びに岡田甲子を訴えた時点から火蓋を切った、光玉死後の執念の後継者争い。
この間、証人として尋問された幹部の経歴に、陸軍士官学校卒業生(34期)が多い事実。さらに他教団ワールドメイトとの関連を書いたが、次に挙げるのは、 所属組織の面で疑問のある幹部である。
証人・山本昌彦
山本昌彦氏は関口サイドからフィクサー呼ばわりされた元陸軍省兵備課高級課員・友森清晴のサイド。ところが、れっきとした右翼団体の資料に、しかも裁判当時50年代の資料に名前が出ている。
興民会。
たまたま同姓同名の人というのでも無ければ同会の主張から、理事をつとめて当然というか。山本は裁判に出頭する一方右翼団体興民会の理事として活躍していた。
どういう団体か。 メンバーを見てみよう。
崇教真光幹部が所属していた
右翼団体名 興民会 所在地 墨田区文花1−30 文化団地18−304 役員 会長 永富以徳 顧問 榊 純義 三潴信吾 理事 山本昌彦 古谷多津男 熊沢義彰 井上春吉 進藤恒一郎 山下好太郎 葦津英雄 吉川永三郎 村田明比古 大垣末蔵 昭和維新をうたい、「民族戦線」という機関紙を出していた。 裁判当時、証人に出た幹部 山本昌彦が活躍していた 右翼団体 興民会
会長 永富以徳は、大日本生産党(玄洋社・黒龍会系)の書記長・永富次徳の親族だろう。
また顧問 三潴信吾氏は当時、高崎経済大學教授である。「愛国・憂国の士に訴える」と題し、万世一系の天皇の統治を唱え、「先ず祭祀大権を奉還せよ」と説かれている。いわゆる皇道の復活、純正右翼であるが、こういう御仁が、自分のところの理事の宗教・崇教真光という団体の本性を知ったら、卒倒するだろう。
http://www.ozemail.com.au/^skyaxe/lameuse.htm
アップで写された麻原の写真とともに出ている新聞紙面には、「崇教真光はオウムセクトと関連づけられ、サギ事件でも取り調べ中」と書いてある。
*真光文明教団ではない。はっきり崇教真光と書いてある。
--- ラ・ムーズ、Oct 22 1998、ラ・ムーズはベルギーの新聞。メジャーなABCニュースにも同様の、オウムとのリンクに触れられている。知らぬは日本人ばかりなり。
だいたい世界のマスコミが使う、オウム英文検索サイトに、 http://www.rickross.com/groups/asahara.html 多数のアーティクルのNo94に、真光との関連が出ているのだから仕方ないだろう。 オウムは皇太子御成婚の日に、上佑の命令で亀戸道場にて炭ソ菌をまいたと報道された。(異臭騒ぎ・失敗)だが、これは成功していたら本当に大変なことなのだ。こういう男をどうして、刑期を終えたからと釈放していいのか。 また山本昌彦と同じ役職の右翼団体興民会理事 葦津英雄は60年安保当時、影山正治と並ぶ存在として有名な葦津珍彦の血縁者だろう。
当時、興民会の事務所の近くに日本正統会というもうひとつ右翼団体が有り、山本氏に関してよくご存知ではないかと推察する。
しかし、高崎経済大學教授・三潴氏も、同じ皇道といっても、真光のエセ皇道の中味、(もっとも上級信者しか知らないそうだが)知っていたら一緒にやっていられなかっただろう。共産党でも、これは呆れるだろう。
関口氏と岡田甲子の法廷闘争資料に重要人物として出てくるのが富田秘書課長である。
富田秘書課長
昭和49年8月4日、月始際の第一次式典に続いて東京晴海の東京流通センターで挙行された第二次式典終了後、本部局部課長および全国の指導部長を集めて甲子が教団の教え主であり、代表役員である趣旨の依命通達を伝達するはずだった人物。
KSDで失脚した村上正邦が全盛だった頃村上正邦の労働大臣室まで行って接触していた(富田局長はじめ東京都内の幹部。と教団自ら広告行為)
その、富田局長。村上正邦は生長の家から離れて真光についた。沈没した。験がない。あたり前だ。
富田氏については海外元真光、しかも高位の信者のほうが日本人信者より、ずっと詳しい情報を握っている。 http://www.ozemail.com.au/^skyaxe/earlyears.htm Mahikari's Crumbling Foundations.
富田秘書課長 http://www.ozemail.com.au/^skyaxe/earlyears.htm
Mahikari's Crumbling Foundations.「真光 その滅び行く組織」
クランブルという語感を生かすと、粉々に粉砕というかんじも盛り込まれているタイトル。これは、お買い得というか、一見の価値おおいにあり。光玉教祖の極秘写真が出ているのが目玉。5ページとコンパクト。読みやすい。
富田秘書課長
どうして富田氏が海外の記事にスポットライトをあびて登場するかというと、Chief of the Secretariat Mr.Kazumi Tomita 宛に、元海外信者が手紙を出して問い合わせたから。
別のH.P.では富田氏の返事まで、サイン入りだったから、返事そのままをアップしている。
富田氏への問い合わせの内容。
「なぜ、恵珠岡田は、彼女の第一秘書・富田を通じて次のこと、即ち、光玉岡田が SKK(世界救世教)の導士であった事実を否認したのか?」と。 1949−51年代の、SKK時代の光玉がSKKのお歴々と並んで撮った写真をアップして、こう書いてあるのだから。結果は火を見るより明らかなのだが。
「どうして恵珠は事実と違うと、富田を通じて言ってよこすのだ?」と突きつける訳だ。「うそつくんじゃない」と。写真を出してくる訳だ。
富田秘書課長
「どうして恵珠は事実と違うと、富田を通じて言ってよこすのだ?この、うそつき」という趣旨の、セクレタリー・富田にまつわる記事なのだが、しかし、否認しないわけには、いかないだろう。 この記事の先を読めばわかる通り、光玉はSKK時代、セックスの暴行で、SKKをたたき出された。とあるから。下半身にしまりがなかったのだろう。こういうスケベ騒ぎは、別に真光だけではなく、新興宗教の教祖につきものである。
問題は、いくら病を治してもらえるからといって、教祖のスケベな部分を承知で、ついていく気が、金を出す気が、あるか否か。過去の汚点も溶かし込まれたイヤシ光線でも、治るんだったら何だってOKよ。
それが、諾か否か。受け入れられるかどうか。信者のプライドの問題である。
「こんなのに治してもらわんでも良い」と言えるかどうか。猥褻セックス騒ぎという、恥ずかし事なので、特に女信者の場合は、影響力もあり、教祖の過去を加味した決断が大切だ。
しかし、光玉がSKKで女とどうのこうのなど、常識すぎて。問題は、もっと別に有る。
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裁判資料に登場する人名を追ってきた結果
1 この裁判は、元陸軍幹部連中 VS 民間人資産家による教団資産ぶん取り合戦の様相。しかも、元軍人の方が、謀略にたけていた。
2 御神体は、市販品の時計。
3 もと同級生の集まり。ということを念頭に入れて教団を評価すべし。青春時代から、寄宿舎制の学校で寝食を共にした同級生幹部にとって、心底、光玉を自分達とは違う「神」と信じられるか?人間の心理として、特に彼等はエリートの誇りがあると思うので光玉への心酔は、なかったと思う。
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「暴かれた真光」 3.崩壊しつつある真光の基礎6頁に 「1957年(昭和32年)までは、S界救S教に所属して密接な関係を保っていたが。この頃、彼は妻と離婚している。S界救S教の熱心な信者であり、岡田氏に付き従ってS界救S教を去ったある一つのファミリーに所属し、後に岡田氏の養女となった、井上甲子という若い女性は、後に真光の指導者である岡田恵珠女史として知られるようになった。」 とあるが、この頃、岡田光玉自身の手による経歴陳述(家族歴)が残っているので、それを次に見てみよう。 岡田光玉自身による、家族歴の記述。
防衛庁の防衛研究所内、戦史資料閲覧室にある。公的機関なので、市民の閲覧可能。開かれた資料室なのだ。
昭和三十六年十月第三十四期生会々員名簿
P12 氏名 岡田竜道(良一)と先ずあり、 2−2Gi と初隊号が記され、近衛士官であったことがわかる。 さらに興味深いのは勤務先。 L・H陽光子友の会々長 多田建設KK顧問 と記載。 問題の家族であるが、 妻亡、二女(長嫁 次女幸子) これは、このくい違いは、何を意味するのか。 断っておくが、この名簿は、手にとればわかるように、戦友の無事や消息を確認するための大切な名簿、友情の感じられる名簿なのである。粗末な紙に、几帳面に書かれた同級生の生死と現況の確認。今の業者に頼む名簿の感覚とは違う。そこで、こういう記述は何を意味するのか。
なお、意外な発見もあって、三好達治の名が同期として載っている。あの詩人の三好達治だと思うが、職業は、やはり、著述業と自己申告されていた。
靖国問題の迫っているこの時期に、観念的には語れない、士官学校の片鱗を書き込んでいくのは何なのだろう。
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