私たち夫婦が毎年のように小倉に行くようになったのには、単に角打ちとか焼肉とかフグ刺しが理由ではない。いや、本当にきっかけが別にある。理由があるんですって。本当だってば。角打ちだけで行動してませんてえええ。←自分で自分を信じていないらしい。
最初の最初は2018年前半あたりに発せられた旦那の何気ない一言だった。 「俺の親父は博多の人間やないっちゃんね」
そう、男にありがちな「父親のルーツ知りたがり病」初期段階だ。たいていの男はある時期になるとこれを発症するので面白い。
私がこれを深掘りしてあげようと思い立ったのがその年の秋。息子も東京にいって暇になったので「とりあえず戸籍謄本でたぐっていけば?」と助言して取り寄せることになった。 遡りまくった結果、ルーツが広島県北広島町だったのは本人も驚いていたが、ここを訪れるのはまたおおごとになるため(←主に車を運転する私だけが)、まずは彼の父が誕生した地を訪れることにした。それが現在の小倉北区堺町1あたりだった。
そして翌2019年1月、明治時代の住所表記を頼りに図書館や資料館で古地図を探したり、北九州市役所へ出向いて問い合わせたりと、調べに調べておおよその場所はわかった。もちろん今そのあたりは銀行の大きなビルや飲食店が建ち並び、明治の面影などかけらもない。ないんだが、夫は「そうかー、ここで親父は生まれて子供の頃ば過ごしたとかー」と感慨深そうではあった。
が、あくまでも「ではあった」だ。 ここは小倉のど真ん中。どう考えても今も昔も風光明媚な場所ではない。 よくある「これが父も子供の頃に見たであろう山」的シンボリックな動かざるものがない。 父親が歩いたのはこのアスファルトではないし、父親が見ていたのはこの大きなビルでもない。
・・・なんてことを考えた私は、ここから子供の足でもいける範囲に何か明治時代から存在していた神社や祠はないものかと探してみた。すると150メートルほど歩いた先に慶長年間から存在するという観音堂を見つける。
「ねえ、お父さんもきっとこの観音様に手をあわせたことがあるやろうし、ここで生まれた子のことは、きっとこの観音様も見守ってくれとったっちゃないかなあ」
ようやく夫が少しばかりほっとしたような顔をする。 二人でお賽銭とろうそくと線香をあげて手を合わせる。 「お父さんの生まれ育った場所にこられてよかったねえ」と言うと、ようやくガチで嬉しそうな顔をした。
さあ、この顔をされたら次は酒と肴だ。 私たちは喜々として旦過市場に繰り出した。←結果どっちにしても繰り出したが。
...この出来事以降、我々は度々小倉を訪れては、まずこの観音堂にお参りし、それから角打ちだの炉端焼きだの居酒屋だの焼肉だのフグだの寿司だのと堪能してまわり、〆に旦過市場でフグ刺しを買い込んでは市場内の宅急便から息子に送りつけたり、自宅用の魚やぬか炊きだのを買って帰るのが定番となった、というわけなのです。
去年の年末まではそれが普通でした。
火災に限らずとも様々な要因で町は変わる。 明治と令和で全く違うように、人や自然や町はこれからも変化していく。 変化しないものなどこの世には存在しないのに、人の心は変化に惑う。
故にその中にひとつでも「人の手で守られ続けるもの」があると、とてもありがたく思う。 そう、夫にとってあの小さな観音堂がそれだったように。
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