| 2002年07月31日(水) |
コミュニケーション。 |
私は思考するコトが好きだ。
思考の波に沈んでいくのが好きだ。
思考するコトは、思っているよりも単純な作業じゃない。
思っているより脳みそのリソースを食う。
なぜなら思考はイメージの世界だから。
思考は常にビジュアルで行われる。
同じように記憶もイメージだ。
過去というのは人の頭の中にビジュアルで焼き付けられる。
過去から記憶の映像を引き出し
それをさらに自分の思考によって自分の分かりやすいように
整理する目的で形を変えていく。
それはPCで行うレタッチ作業のように
莫大に脳ミソの容量を食う。
けれど人間はあくまで思考をビジュアルで行う。
・・・何故か?
人間がひとりで存在する時に、
そもそもが別の個体とのコミュニケーションの意味を持つ「言葉」なんて
存在の価値を持たないからだ。
そう。
言葉なんてあくまで人間が別の個体とコミュニケーションする為のモノだ。
しかしそのコミュニケーションをする為の手段である「言葉」は
いくら辞書で厳しく定義しようが発信する側と
受信する側のイメージにはズレを生じる。
・・・何故か?
「言葉」は人の頭の中では「イメージ」によって定義されている。
その「イメージ」は凡そその人が通ってきた「経験」によって
その人の頭に過去のビジュアルとして焼き付けられる。
経験してきたコトに基づいていわゆる思考回路が出来上がるのだ。
そして人間ひとりひとりの頭に焼き付いている思考回路、
つまり「経験に基づくビジュアル」の相違によって
同じ単語で引き出されるイメージがそれぞれ違いがある。
だからズレは人間が「過去」を持つ限り解消できない。
人間の過去は人それぞれ違う。
価値観も違う。
いくら同じような過去を通って来ても違う。
そっくり同じ親の元に育ってきていないから。
そっくり同じ家の構造の元に育ってきていないから。
同じ家で同じ親の元に育っても違う。
・・・何故か?
同じ場面に居合わせてひとつのモノを見ていたとしても
それぞれが違う角度でモノを見て
違う角度で違う下地の上に育った頭の中に、
違う思考回路によって整理されたイメージを焼き付けているからだ。
それは例え一卵性双生児だって一緒だ。
同じモノを見る為に、双方がほぼ同じ位置に並んでいても
片方が相手の右に立ち、片方が相手の左に立っていれば
モノを見る角度には僅かなズレがある。
それが例えモノに対して1度程度のズレであってもズレはズレ。
ふたりの人間がひとつのモノに対して全く同じ位置に立って
同じ距離・同じ高さからモノを見られればそのズレは解消するだろうが
それはお互いが「実体」として存在する限り無理だろう。
例え変わりばんこに同じ位置からひとつのモノを見たとしても
世界には時間軸が存在する。
だから結局お互いが実在する限り同じ位置から同じモノを見るのは
出来そうであって、限りなく出来ない。
そしてお互いの存在が「自分とは違うモノ」として認識されていれば
もちろんお互いの視界にはお互いが入るから
焼き付く映像は微妙に違う。
そうやってお互いの存在がお互いに影響しあって
人間は似て非なる過去経験を、記憶を脳の中に収納していく。
よって人は別個体でそれぞれ別の脳ミソを所有している限り
そっくり同じ過去経験は持ち得ないのだ。
しかし人間同士がコミュニケーションをする手段は
言語以外に無い。
だからどれだけ心を尽くして、時間を潰して語っても
お互いの想いがお互いの中に存在しているイメージが
直接相手に伝達するコトはない。
イメージは語れない。
語ればそこには「言語」がついて回る。
だからいつもいつも人間のコミュニケーションには認識のズレが生じる。
・・・だったらイメージを映像で伝えるコトが出来たら
その者同士は100%の理解がしあえるのか?
答えはNOだ。
例えビジュアルだけを伝えるコトが出来たとしても
そのビジュアルに対して想起させられる感情は
人の過去が人それぞれで違うように、違う。
言葉とあまり変わらない。
よってダメ。
・・・だったらイメージを映像として伝えた上で
言葉を尽くして語ったら100%の理解に近づくことができるのでは?
「近づく」コトはできよう。
しかし厳密に言えばやっぱり答えはNOだ。
イメージに対してその人が記憶から引き出す感情は
あくまで肌や肉体の「感覚」
「感覚」を伝えるコトが出来るのは自分の肉体の中の神経細胞だけだ。
ついでに言うと、ビジュアルにさらに言葉を載せれば
またその言葉について相手が自分の脳ミソから引き出す「定義」は
その人固有の過去経験に伴うイメージに依存しているのだから
やはり自分の「伝えたい」と意図したイメージとは違い、
発信者の真意からは多少なりともズレが生じる。
・・・だったら「感覚」を伝える手段があれば
100%の理解に近づけるのか?
近づくコトはできよう。
しかしやはり厳密に言うと答えはNOだ。
イメージを伝え、そこに言葉を載せ、「感覚」すらも相手に伝達できたとしても
やはり「感覚」が引き起こすイメージは
違うモノを違う角度で見ていた過去経験が他人にある限り違う。
だから「感覚」に引き起こされたイメージも違えば
それに引き起こした言葉によって脳ミソが出してくるビジュアルも違うのだ。
結局ズレる。
やればやる程遠さを感じる自分と人との意識。
追求して行くうちにそれは「虚しさ」という感情だけを積もらせるだろう。
そして最後に吐く言葉は、自分の期待にたいする絶望と
期待値以下にしかならないコトが分かった人間のコミュニケーション能力への
失望の言葉。
「無駄。」・・・ただコレだけ。
人は所詮孤独なモノ。
ひとりずつ生まれてひとりずつ死んでいく。
生まれてから死ぬまで漠然とした孤独を感じながら過ごしていく。
それが人間。
自分をそっくりののまま「理解」してくれる別個体なんて
何処にも居やしない。
そして人間はそれぞれ違うからこそ、
「違う」を実感した時にコミュニケーションを求める。
孤独感を埋める為に。
自分を理解させて衝突を避ける為に。
相手を知って相手の孤独感を和らげる為に。
違うからそこの人間。
違うからこその個性。
違うからそこの他者への飽くなき興味。
みんな同じだったら、
誰もお互いに対して興味なんて持ちやしないだろう。
「違う」という孤独感が無かったら
誰もお互いに対して理解なんて意志は持たないだろう。
それはそれで満たされているのかも知れないが、
人間、最初から満たされているコトに対して満足感なんて持ちやしない。
結局ないものねだり。
だから私は孤独だ。
私はこの孤独感と共にひとりで生きて
ひとりで死んでいくのだろう。
私はそのコトにとても満足している。
何の地位も何の知識も何の美しさも持たなくても
くだらない付加価値を得るコトで人生終始してなくても
「自分」という存在は、悠然とそこに佇んでいるから。
そして私は人との(適度な)コミュニケーションが好きだ。
誰かの言うコトとても興味をそそられる。
誰かの泣き声に、
誰かの笑い声に、
誰かの怒り声に、
誰かの薀蓄に、
誰かの屁理屈に、
耳を傾け、そのコトについて思考の狭間に漂うのが好きだ。
・・・違うから面白いもん(笑
他人に対する興味なんて、
それくらい単細胞でもええじゃないか。
以上、
そう言いつつ思考イメージ複雑にし過ぎて
日々リソース不足を起こしているアホの本日のメモ書き。
・・・んん、やっぱ回りくどい(爆
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