妹宅滞在中の、冬季五輪に沸くある日、生まれて初めて救急車を呼んだ。
前日までの吹雪とは打って変わって、その日は朝からよく晴れていた。 さて買い出しに行くかとアパートの玄関を開けたところ、雪の上に寝転がっている人と目が合った。 妹のアパートは、玄関を開けると、植込みの向こうに隣のアパートの裏手が見える作りになっている。 朝に妹と甥っ子を車で送って戻って来た時に、そこに修理業者が来て何やらやっているのは知っていたので、寝転がって何か作業しているのかなと最初は思った。 が、何やらおかしい。 作業しているのではなく、起き上がろうと踠いているのだ。 それがわかったので、慌てて植込みの向こうに回り込んで駆け寄った。 「大丈夫ですか? 救急車呼んだ方が良いですか?」 と声をかけても、相手は何も言わない。ど、どうしよう。 でも放置していて大丈夫な感じではないので、救急車呼びますよいいですね、と言ってからその場で119番通報した。 オペレーターに場所を聞かれたが、住所がわからない。 スマホの中にあるけれど、住所録を起動させたら通話が切れるんだろうか。 その場で実験する勇気も無かったので、「電信柱には○○町○丁目○と書いてあります」ぐらいしか言えなかった。 アパート名はわかりますか?と訊かれたけれど、隣の物件名は知らないし、どこに書いてあるのかもわからないし、咄嗟の事で、隣接する妹のアパート名も思い出せない。 思い出そうとしても、出て来るのは過去に自分が住んでいたアパート名ばかり……転勤族はこれだから困る。 患者の情報を訊かれ、年齢は大体の見た目でいいですと言われたが、私基本的に他人に興味無いからそう言うの苦手なんだけど……。 本人に問いかけても、名前も年齢も教えてくれない。 目は開いていて、起き上がろうとしているが、体が言う事を聞かないらしい。 「還暦過ぎだと思います。体の右側が動かないみたいだから、卒中ですかね。目は開いていて動きはするんですが、問いかけに答えません」 私があたふた答えている間、オペレーターはずっと落ち着いていた。こちらが苛々するぐらいに。流石プロである。 「今そちらに救急車が向かっていますが、到着までそこにいて貰う事は可能でしょうか」 と言われて、一瞬迷った。 今日はこれからスキークロスの決勝がある。 それまでに買い物を済ませて家に戻って来なければならない。 しかしここでそれを馬鹿正直に言っちゃうのは如何なものか。 「わかりました、見付けにくい所なので、救急車を誘導出来るように道端に立っています」 我ながら、模範解答である。頑張ったぞ私! ほんの数分で救急車は来てくれたが、その間、病人を助け起こすでもコートをかけるでもなく、そのまま雪の上に放置していた。 だって失禁していたし、汚れた作業着に触りたくなかったのが正直な気持ち。 救急隊の人には、傍に眼鏡と帽子が落ちているから、それも一緒に持って行ってあげて下さいとお願いしておいた。 自分で拾っておいてやらないあたり、我ながら、相当な人でなしである。
スキークロス決勝が終わって、窓から外を見ると、倒れていたおじさんの作業道具がそのままになっていた。 1人で作業していたところを見ると、大手ではなく、個人経営で仕事をしているのだろう。 私には関係無い事だが、だからと言って放置するのもどうかと思い、外に出て隣のアパートの表側に回ってみた。 そしたらあった。アパート名と管理会社の看板が。こっちに書いてあったのか……。 電話番号が記載されていたのでかけてみると、人が出た。若い男の声だった。 経緯を説明して、そういう訳だから道具を引き取った方が良いのではないかと言うと、 「弊社は仲介をしているだけで、物件の管理は大家さんがやっているので」 と言う。うん、だから何?と思ったのでそのまま口に出してしまった。 「うん、だから何? だったら大家さんにそう伝えてよ。修理してた人が倒れたから修理は完了していない、道具はそのままだから回収しなって」 アンタそんな事もわかんないの?ゆとりなの? とは思ったけど言わないでおいた。 そう言えば、名前も聞かれなかったしお礼も言われなかった。別にいいけど。
119オペレーターには、匿名の通行人ですと名乗っておいたので、家族から礼を言われる事も表彰される事も無い。 そういうのは面倒なだけだと思っているし、礼が欲しいのではなく、市民の義務としてやった事だから別にいいのだ。 でもおじさんのその後は気にかかったので、密偵を通じて情報を得たところ、おじさん独り暮らしで家族がいないらしい。 半身麻痺じゃ仕事も出来ないだろうし、今後どうするんだろう。 救急車を呼んで良かったんだろうか……と自分の行いに自信が持てなくなった出来事であった。
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