| 2005年05月30日(月) |
メディアとしてのゲーム。 |
東浩紀が波状言論なる同人サークルを主催している。 http://www.hajou.org/
これはとても良い方向性だな、と個人的には思う。 ただ、彼の場合は頼めば新海誠が表紙を書いてくれるような立場にあるので、全て自分で用意しなければならない僕とは立場が大いに異なるので注意が必要だが。
それはともかく、東浩紀のような活動は実は珍しくない。 日本全国、大学のサークルなどを探せば同じような活動をしている場所は容易に見つけられると思う。 もちろん、レベルの差はあるので、ほとんどが無効なうちに消え去ってしまうのだが。
僕は波状言論を見ていて、ふと思った。 どうしてメディア論的なアプローチがないのだろうか? 最近、やおい小説を心理学的な手法で研究した本が出版された。
やおい小説論 永久保陽子著 という本だ。
これは1996年に出版されたやおい小説、381冊を対象に小説の時代、ジャンル、人称、さらにカップリングの「受け」、「攻め」それぞれの年齢、職業、年齢差、体格差、性役割、物語の帰結などについて詳細にデータ収集をしているという。 新聞の書評では心理学的アプローチとは異なる手法と評していたが、統計分析は心理学の基礎なので、これは極めて心理学的なアプローチである。 おそらく、書評を書いた人間が論文作成の手順を知らないだけであろうが。 (ちなみに評者は藤本由香里・評論家となっていた)
ここで手法としての統計は非常に注目すべき点である。 東浩紀のような人を見るといつも思うのだが、どうして誰もメディア論的なアプローチを試みないのだろうか、と。 つまり、勘や経験ではなく、統計的な手法による科学的なデータに基づいた評論、というものの存在が見受けられないことが疑問なのだ。 メディアの特性や性質を把握した上での個々の作品へのアプローチ。
僕はいつもその視点をなくさないように気を付けている。 だから、「らぶデス」を買ったし、「スクールデイズ」を評価する。 それにノベルゲームを「ゲーム」として楽しむ。
多くの人が勘違いをしているかもしれないが、科学はデータを相手にしているわけではない。 彼らは実験や観察によって得られたデータを参考にして、その先にある真実を追っている。 つまり、数字を追い続けることで数字の向こう側にあるものを見ようとしているのだ。 それは哲学的な探求と同様のものである。 文芸批評的な手法でゲームやオタク文化に迫る人がいるならば、同様に科学的な手法で迫る人がいても不思議ではない。
何が言いたいのか簡潔に述べると、個々の作品(=ソフト)については様々な論考が見受けられるが、ゲームというメディアそのもの(=ハード)をベースに展開される論考はあまり見受けられない、ということだ。 ゲームはハードがあって始めてソフトが成り立つ。 ソフトが基礎を置いているハードを無視して作品を論じることは危険だと思うのだが。
|