花咲くオトメのための嬉遊曲という同人ゲームをプレイしてみた。 女子硬式野球部を題材にした、いわゆるノベルゲーム。
この中に主人公と恋愛について哲学的な話をするヒロインが出てくる。 それを見て、久しぶりに大澤真幸の本が読みたくなった。 よーするに自己他者問題と恋愛を絡めているわけだが。
でも、大塚英志でなくて大澤真幸を読みたくなったのは、おそらくこのゲームのシナリオが健全だからだと思った。 別に大塚英志が不健全なわけではないが。 つまり、このシナリオは大塚英志を経由しなくとも大澤真幸に到達できる。 そーゆー健全さを持っているんだろうと思う。
つまり、彼らにはつまづきがない。 会話ごっこで壁を作りながらも、最終的には自分なりのやり方で"真直ぐ”に恋愛に向かう。 その真直ぐさが、僕の感じた健全さだと思う。
あぁ、こんなシナリオは書けないな、と思った。 何かにつけて遠回りしないと何も出来ない僕には、こんなに真直ぐな恋愛は書けない。 シナリオライターとしてすごい致命的だよな、とは思わないけれど。 でも、何だか「過去に不登校に悩んだとき、カウンセラーに助けられたから私もカウンセラーになる」という人に似てるな、とは思った。
自分の面倒も見れないのに、他人の面倒が見れるはずがない。 それと同じで、他人が感動するような生き方が出来ないのに、他人が感動するようなものを書けるはずがない。 まぁ、僕の場合は人生にモットーの一つに「あえて」があるので、ダメだとわかっていも"あえて"そうするんだけど。
そうやって自分のダメさ加減を確認しながらじゃないと生きれない、そんな使い古されたダメ人間の典型をやってることはわかってるけど。 それがありふれた典型だとわかっていても脱出できないダメさ加減で、ちょっとだけダメグレードが高いと主張してみるテスト期間中。
さて、大学時代から書き続けてる「MsYs」だけど、あれは翠と彼方が恋愛の不可能性を体験するわけんだけど、絶対に花咲くオトメのための嬉遊曲とは正反対のお話になるんだろうな、と思う。 だって、僕は人を殺すことが最も物語りにリアリティーを与えると思っているシナリオライターなので。 真剣に書けば書くほど、翠の死は確定するし、彼方は孤独を引き受けていく。 それも不健全な形で孤独を引き受けるような気がする。 僕自身が、自分と登場人物を切り離せない旧世代的なライターなので、結局は僕の自立への態度をそのまま彼方が引き受けることになる。 だから、きっと彼方は健全な自立は出来ないような気がする。
今回の日記はずいぶんと不親切な日記になった。 自分しかわからないことばっかり。 でも、日記だからいいのだ。
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