久しぶりにまともなことを書いてみる

ここ数日「暴力」というものについて色々と考えることがあって
難しい理論は言えないが何となく理屈っぽくなってきた気がする。
これで院生の仲間入りってトコですか?まぁ、それはさておき、
近年は道理が通らないことが多すぎる。
いわば正論が暴力に屈することが多すぎるのだ。
例えばバス亭で列に並んでいる。バスが到着して乗ろうとする。
列に並んでいない輩が先に乗ろうとする。それを咎めた人が
並んでいない輩に刃物で刺されて死ぬ。
万引き客を店員が追いかけて捕まえようとしたら刺される、死ぬ。
電車で他人の迷惑になるような大きな声で話している若者に
もう少し静かにして欲しい旨をやんわりと伝える。刺される。死ぬ。
何だかやたらと刺されて死んでばかりだが、最近は訳がわからないので
実際にこのようなことが起こっているのも事実である。
そのためいくらひどい凶状が起こっていても見て見ぬフリをする輩が
増えているのも事実である。見て見ぬフリに関しては長くなるので追求しないが
問題はこの刺されるという暴力が勝ってしまうという点である。
どれだけ正しい行いであったとしても刺し殺すという暴力によって
カタがついてしまうのである。もちろん暴力に対しては当然ペナルティが
課せられるとは言え、そのペナルティが最近は軽すぎたり、または
ペナルティを恐れない輩が出ているのも事実であり、暴力で相手を
押さえつけることによって正しい行いを封殺しているのである。
これは我々の日常だけに起きている事ではない。
国際関係間においても多々見ることが出来る。
例えば「戦争」という言葉があるが、最近は「戦争」らしい「戦争」はない。
イラク戦争などは圧倒的な物量と戦力によってイラクをなぶり殺しにした。
これは果たして「戦争」といえるのだろうか?
私にとってそれは「暴力」にしか見えない。
均等に近い戦力差によって初めて「戦争」という状態が成立するのであって
圧倒的な戦力差で相手を呑み込んでしまうのは「暴力」としか言えない。
ナチスドイツによるポーランド侵攻や中国共産党によるチベット侵攻、
イラクのクウェート侵攻といったものはその最たる例であろう。
昔から「力」がモノをいう世界ではあったが、それが人類の歴史の
答えであるとすれば何と空しいことか。「力」だけが全てではない
そんな世界は理想かもしれないが理解と知恵に溢れる
世の中になりはしないものか。そう考える毎日である。
2005年01月20日(木)

Dag Soliloquize / tsuyo