| カタカナの溢れるこの世界 |
最近辞書と仲良くする機会が多い。 国語辞典、漢和辞典、英和辞典、略語辞典etc… つとに思うことは日本語という言葉の使い方が 我ながら随分乱れてしまっている気がするからだ。 この日記を読んでいたらわかると思うのだが、 文章の流れを重視した分、表現的にかなりおかしい部分が 冷静になって読んでみると幾つも出てくる。 職業病かどうかわからないが、どうしても文章のおかしな 表現を見ると「ここはこうした方が読みやすいのにな」 なんて思ってしまう。作家さんの書かれた文章では そういうことは滅多に無いのだが、やはり雑誌などの 言葉のスペシャリストではない人々が書いた文章は どうしても添削してしまうのが癖になってしまっている。 誤植とかは特に気にならないのだが、やはり読んでいて スムーズに読めない文章というのはお金を出して 読んでいる人に対して失礼だと思う。もちろんそれが 芸術性だの文学性だのを主体にするシュールレアリズムの 文章等なら仕方ないのだが情報誌ともなると話は別だ。 人に情報を伝えるというのはそれだけ情報を噛み砕いて わかりやすく、読みやすく工夫せねばならないのに それができていないのだから、例えバイトでも失格だと思う。 わかりにくい文章というのではもう一つあるのはカタカナの 羅列している文章というのがある。これはもう外来語だらけで 日本語は接続詞とかてにおは位しか使っていないのでは? と思えるような文章だ。確かにカタカナが羅列してあると 見栄え的にカッコいいように見える。しかし、だ、 それがわかりやすいかどうかは話が別である。 カタカナとりわけ外来語は意味を何となくでしか捉えられない という言葉が多いのである。例えば 「強烈なアイロニーと共にディープなリスペクトが込められている」 という文章がある。この文章の意味がわかりますか? これを普通の表現に戻すと 「強烈な皮肉と共に深い尊敬の念が込められている」 という風になります。日本語にすると理解しやすいのである。 文章がカッコ良くなるし手頃に使えるからといって カタカナを乱用してはいけないという気がつくづくする。 日本語は独特の深みと美しさを持った言語なのだから、 ファーストフード的なカタカナを乱用するより 日本語の表現というものをもっと重宝した方が 良い文章というものが書ける気がするのは自分だけだろうか。
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2002年10月05日(土)
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