| 遠くアムステルダムは夜更けを過ぎて |
Ajaxというチームを自分はどうしてこんなに好きなんだろうか? 多分それは自分のサッカー観に一番影響を与えた ヨハン・クライフの存在が大きいのだと思う。 多分クライフがいなければ今の自分のオランダ好きも無かったし、 攻撃的サッカーへの関心と言うのもそんなに無かったと思う。 まだ僕がバレージが好きな頃、もちろん自分の中では イタリア代表が一番で、もしクライフに出会わなければ そのままカテナチオを信奉していたかもしれない。 それだけクライフの存在は強烈だった。 ヨハン・クライフ。1947年4月25日生まれ。 幼少の頃に父と死別し、母親はアヤックスのスタジアムで 清掃員をやり生計を立てていた。 路地裏でサッカーをやり始め、アヤックスユースに入団。 その後17歳でアヤックスとプロ契約をし、 アヤックスにチャンピオンズカップ三連覇を始めとして 数々の栄冠をもたらす。1974年のワールドカップでは 「トータルフットボール」と呼ばれる先進的なシステムで 旋風を巻き起こすも決勝で皇帝・ベッケンバウアー率いる西ドイツに 敗れるがその年、自身三度目の欧州年間最優秀選手賞を受賞する。 この年の夏にバルセロナに移籍し、低迷していたチームを 宿敵レアル・マドリードに大差をつけ優勝。 バルセロナ市民から救世主と呼ばれる。 その後、アメリカに渡り数シーズンを過ごした後、 スペインの小チームに所属する。このときが彼のキャリアの 一番惨めな時であったかもしれない。 しかし1981年からは古巣アヤックスに戻り、 若い世代に魂を植え付けていく。 往年のスピードは無いもののテクニックに衰えは無く、 チームに再び活気を取り戻すことに成功させたのも束の間、 ライバルフェイエノールトに移籍してしまう。 そこでも、彼自身の実力を如何なく発揮し、リーグ、カップの二冠を チームにもたらす。(ちなみにこの時は背番号10が多く小野入団時に 「クライフの付けた背番号14を受け継いだ」なんていうのは嘘である) そこで彼の現役のキャリアは終焉を迎えるが、そこで終わる彼ではなかった。 再び古巣アヤックスに戻りTDとしてチームを総括し、カップウィナーズカップ 等を獲得する。ちなみに彼の役職がTD(テクニカルディレクター)なのは オランダにおける監督のライセンスを持っていないためである。 その後バルセロナの監督に就任し、リーグ戦4連覇を始め チームとしては初のチャンピオンズカップ優勝をもたらし、 クライフ監督の率いるクーマン、ミカエル・ラウドルップらのチームは 当時のバルセロナ五輪のアメリカ代表バスケットチームにちなんで 「ドリームチーム」と呼ばれた。しかし、健康上の問題を抱え 心臓の手術を二度行い、タバコとは縁を切っている。 また、チームが不振に陥ったために95年に突然解雇されたものの、 バルセロナ市民からは英雄として扱われている。 また、彼のサッカーの理論は「美しく勝利せよ」で 「1−0で勝つくらいなら4−3で負けたほうがましだ」 という言葉を残している。その攻撃サッカーへの精神は評価が高く 現在でも監督要請の話が絶えないが、本人はピッチに戻るつもりは無く、 若手の育成に従事し、サッカー界全体のレベルアップを図るべく さまざまな事業を行っている。
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2002年03月05日(火)
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