ドラマ!ドラマ!ドラマ!
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今回のクールに高校教師が死に直面するというものが、いい具合にというか二つある。最初はブッキングだー!と思ったけれど、趣がどうも違うから。いつだってそうだけど、これも私の感じること。他の誰がどう感じるかは、別々であって当然だし、私はこうだ!って思っていても他の意見を聞いて、あぁ、そういう見方もあるな、とも思うし。違うなー、と思っても、どうして違うのかな?と興味はわいても、「私はこう思うんだから」って押し付けるつもりもない、っていうか、ほんと自信がないし。自分以外の人が同じドラマを見ている事の楽しさや嬉しさは、共感する、というだけでなく、色々な考え方を聞くいい機会にもなるということだ。そして色々なことを考えるいい機会になる。ドラマを通してフィードバックできるものがあることもあるんだよ、「ドラマばかり見てるから馬鹿になるんだ!」と、過去に私に言ったある人よ、何も考えないで、誰かと話し合う機会もえないで、コミニュケーションスキルレスになるよりは、たかがドラマかもしれないけれど、されどドラマ、私は、この方が幸せだよ。
『高校教師』の湖賀は死を受け入れられなくて、デジタル時計の数字が減っていくのが怖くて、現実を受け止めている風を装いながら、そうではない。そんな彼は、全く自分と同じ状況に突然置かれたらどうなるか、そして、誰か1人にしかそれを打ち明けていない状況の中、1人、死に向かっていく恐怖、憤り、そんなものをどうもてあまし、苦しんでいくのか。自分にしかわからない、そんな感情を誰かと分かち合えること、そうしたらそれがどんなに救いになるか。自分の慰めになるか、偶然から拾った実験めいたことで、その場を手に入れてしまった。本当にそれが欲しいなら、同じ腫瘍を患っている患者の会とかを紹介してもらうという手もあるんだろうが、医者がそれを薦めることはなかった。何故なら、医者自身が、彼の依存を求めているから。そして1人の、素直な女子高生が悲劇のウソにまきこまれた。もともと同じ病気を宣告されたとして、感じることや悔いること、置かれている現状によって個人差があって、まったく同じなんて有り得ないのに。彼は共感を求めたいのでなく、共生したいのでなく、彼は、自分の鏡をつくったのではないか。自分で、鏡に向かって「かわいそうに」そういう相手をつくっただけ。そうすることで、鏡の恐怖を観察し、なだめることで、自分を観察し、なぐさめていた。
お釈迦様がコーサラ国の郊外の祇園精舎に滞在していた時、サンガーラヴァというバラモンと話しているとバラモンが急に思い出したように「お釈迦様、私は澄みきった気持ちになる時があって、その時はこれまで学んだことや憶えたことを不思議なくらいスラスラと話すことができます。また、頭が重く混迷している時があって、その時はこれまではっきりと憶えていたことさえも思い出せないことがります。これは一体どうしたことなのでしょう?」と尋ねました。それに対してお釈迦様は「バラモンよ。この容器に水があるとしよう。その水が赤・黄・青などの色で濁っている時、その水に自分の顔を写しても、ありのままみることはできない。」続き貪欲で濁っている時、沸騰している時、怒り苦しみで濁っている時、苔などで覆われている時、波立っている時、同様に人の心が躁鬱であり愚癡(ぐち)に覆われている時、「何事もありのままに写らないのです。」と答えたのです。微笑みながら説き聞かせ、最後に「澄みきった水に自らの姿を写し、それをありのままに見るならば、自らの歩む道の疑惑を知ることになり、何が自利利他であるかを如実に知見するのです」と説き示したそうな。それを受け、某教授は「私たちは自分の顔を写し出すものがなければ、自分の顔を知らないまま、命終ります。それは空しいことです。それと同様に、私の心を写し出すものがなければ、本当の姿を知ることはできません。知ってるつもりでも、常に我執、と我所執の煩悩にまみれた心で曇っていては、いつでも自分を闇雲に正当化してしまいます。」さらに宗教的ですが「今の私の有様を知るには、ありのままの私を写し出すものが必要です。仏陀の智慧はありのままの私を写し出すものであり、その慈悲はどんな姿の私でも慈しんでいるのです。そこには、煩悩だらけの私を知らされるつらさとともに、自分を知らされる慶びが生まれます。」
長い引用でしたね。退屈でしたか?これがぴったりあっているとか、このことで彼の行動を正当化しようとしているのではない。鏡に姿がうつるということで思い出したので。・・・彼のモノローグにも、それが正当化される言い訳にすらならないことはわかっていた、とある。どんなに卑怯なことかも。もし彼が、歪んだ医師でなく、小日向さんのような医師にめぐりあえたら・・・。例えば、恋人。どうして、残していく辛さはあっても愛する彼女と最期の時を過すことを選べなかったのか・・・。それは果たしてどっちが残酷なんだろうか。わからないけれど。本当に最愛の人だからそうできたのか、最愛の人ではなかったからそうできたのか。だけど、もし自分に苦痛を与えないために、彼は自分の元を去り、孤独と病とたたかいながら、死んでしまったと知ったら。彼女の痛手は、ある意味大きくないか?もちろん、この物語は、雛と出会うことで、転がっていって、湖賀は幸せに死に向かうことができるようになるのかもしれないが。これも小日向さんのような医師だったら、どうだっただろう。彼女と別れることを無理矢理強引に薦めただろうか。残されていくものにも、心の準備がいるのだ。残されていくものにも、残されてから聞きたかったことが聞けなくて苦しむこともあるのだから。
京本にたいして、成宮君の存在も鏡である。 突出して天才的に無感情に犯罪的な事を平気で犯す考えをもつ人物を描くのも野島作品だ。最終的に原因めいたものが見え隠れするにしても。その点、病気が発覚し、あの医師にあやつられるように依存するまでは普通の、ただどちらかというと人間関係は希薄であった数学好きの優しい青年が、こうも残酷になってしまう、というほうが、物語としては斬新かもしれない。そして不幸中の幸いで、運命といおうか、出会って実験対象に選ばれたのは、誰でも良かったのであるが、そのとき、そこにいたのは雛なのである。湖賀にとって本当に味方であるる人物、それは恐らく雛であろうが、そう早く気づくことが不幸や悲劇をうまないことだと思う。他の登場人物もそうである。味方のいる人生。それが近くとも遠くとも、味方でいてくれる人のいる自分。
前作の主人公の名前は繭。繭はからにとじこもっている。雛は守られるべき小さな生き物だが、自分で多少動けるし、成長する。この名前に込められた思いは、野島さん、なんですか?今までは死に向かって行ってしまう人物を書いた野島脚本。今回は、望まない死がこちらに向かってくる人物。どうなっていくんでしょうね。
『僕の生きる道』中村先生はできすぎている?いや、そうでもない。彼は、毎回、「こう生きるときめたから」そう言う。でもそれは、エンディングや次週には変わっていたりする。これは、脚本がゆらいでいるのでなく、中村先生の立場の人間が揺らがないはずが無いのでリアリティを感じて良いと思う。主治医の小日向さんがすごくいい。「味方があらわれる。それを君はのがしてはいけないよ」。死に直面した人間でなくても、味方はいるほうがいい。それもエセでなく、心からの。ラスト、「みどり先生がすなぎもを注文することだけはわかっている」さだまさしの歌かと思った。中村先生には、彼を見つめてくれている味方がいるのだ。これは大きな違いになるだろう。もちろん、本人の資質もあるけれど。
彼は1人で、この現実を受け止めて、残りの人生を悔いなく生きようと決めた。それまで彼は今よりも、もっと先、老後まで計算して配分して今を生きていたから。迷惑をかけそうになるまで誰にも告白しないことは、彼なりの流儀であるが、突然、意欲的になった彼のことを理解できる人間はいない。彼が時間を惜しむように東奔西走する姿、生徒に思いを伝えたい真意、それは、伝わらない。それは、ある意味もったいないことだ。哀れみや同情でなく、真実というものは突き刺さる。だから、彼が、味方を得て、早く自分がしょいきれないほどのものを持ってしまった。時間なんて永遠にあるものと思っていてはいけない。人の命を軽んじてはいけない。受験ばかりでなく、もっと大切なことがあることをできるだけ早く気づいて欲しい。そんなことが病気をカミングアウトすることで、もし、たくさん生徒に伝わるなら、ある意味武器にして、教師としてやれるだけのことをやる人生を送って欲しい。そんな風に考えたりもする。彼には味方がいるのだから。信頼していいのだから。心強いこと。「僕の余命はあと1年です」そう告白することのデメリットよりも、メリットを描いてくれたら、もっと生きてくるんじゃないかなぁと思ったりするのです。
最後に『HR』から香取先生。こんなにいい加減で、でたらめな先生はいるだろうか?(ある意味いい加減ででたらめな人はたくさんいるけど)でも、憎めないのね。人間て完璧だからいいってもんじゃないし、人間的に愛してしまう人というのは、こういう人かもしれない。いいかっこしようと必死なんだけど、ずっこけて、ばればれの見え見えで、ひどいこともウソもつくし、全然いけないんだけど、そういう悪いとこも見つつ、一応正義感もあったりする、いいとこもあるから、きっとみんなは、HRも帰らないでいるんだよね。味方になってあげたくなりそうな人なのかもしれないね。
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