日記でもなく、手紙でもなく
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<幸せ>ということばを使うときに、どうしても照れくささみたいなものが先にたってしまったりする。 堂々と、もっと使ってもよさそうなものなのに。
幸せの青い鳥というお話があったりして、実は幸せというのは自分の心の中にあるものだ、そんな風に思わせられてきたところもあるから、なおさらである。 確かに、心の問題。それに尽きる。
けれども..... このままでは話が続かないので、ちょっと別のことを考えてみる。
心のもち方の問題とすれば、幸せか・幸せではないか、そのどちらかを選ばざるを得なくなったりする。ただ、やはりこの選択は結構辛かったりもするのではないか。 ところが、アンケートなどでは<あなたの幸福度>みたいに、「程度」の問題として捉えられる。程度で考えると、ちょっぴり幸せな感じ、あるいはそのような状態になることというのは、しょっちゅうということではないにせよ、時々はある。そんなとき、ラッキーとハッピーは、そっくりな表情をしてみせる。
心の状態ではなくて、一つの能力と考えてみると、その程度はもっと生き生きとしてきたりする。 それは、様々な環境や様々な状態に置かれている時に、喜びや楽しさを見つけられる能力、みたいに定義してしまうと、心の問題そのものよりも、心の対応力の問題になってくる。
これだったら、もっと堂々と「幸せ」と言えるのではないか。
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