おおみち礼治のてくてく日記
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2016年03月10日(木) 心霊やらUFOやら。不可思議なものから

 そんなもんあるわけないだろと嗤う人もいるが、それってじゃあ実証したのかと。自分の思い込みを開陳しているだけであって事実をいっているのではない。肯定派、否定派ともに実証できないのだから、信じるかどうかにかかっている。
 また、信じない人に信じさせようたって無理がある。そういう概念――あるわけないと否定から入る人に、このような不思議な現象があったといったところで、見せたところで、それは幻覚だろうとその思い込みで判断されるだけだ。逆もまた然りで、ある不思議な現象について、これは(例えば)プラズマであるといったところで通じない。明らかに霊的な現象などではなく、単なる見間違いでも、そんなことはないとさらにその思い込みを深める方に行く人もいる。

 科学的に証明されていないからないとは言えないし、あるともいえない。現時点では眉唾でも科学的に証明されたとなれば、否定派の人もコロッと変わって肯定するに違いない。それまで科学ではなかったものが科学になったからだ。しかし、科学がすべてを実証しているわけでもなければ、それまでの常識が覆されることもあるわけで、科学だから絶対というわけでもない。

 空気感というものもある。あるわけないのが常識の世界で、あるとしか考えられないような事実があっても簡単に受け入れられない。それまで信じていた――あるわけないと思っていたのがあったとなったら、いままで信じていたことはなんだったのということになり、事実は簡単にスルーされる。通念に寄っていた方が無難だし。

 ともかく、一般的な物事についてもそうだけど、よくわからないことに口を挟んで嘲るようなことはしない方がいい。表面に現れたひとつのことをとらえて罵っても、内情をよく知ったら何も言えなくなったりするものだ。主張していたことが間違っていたと明らかになったとき居場所がなくなってしまう。そのときはそう思ったなどと言い訳も見苦しい。逆に、あっていたからといってふんぞり返るのもまたおかしい。自分が専門的に関わっていること以外――いや、それですらよくわからないのに、畑違いのことに口を出せるのかと。無知の無知を知れば謙虚にもなる。

 どちらにせよおかしいというか不自然なのは、「オレが正しいのだ」というスタンスである。むろん、間違っていると思えばいいのではない。ある物事をこれが正しいとした瞬間、そうでないものは間違っていることになり、間違っていると分類された人から反発が起きる。ではどうすればいいのかといえば、自分の良心に沿うことである。日本ではそんなに大きく違うことはないかも知れないが、世界に目を向ければ良心もまたそれぞれ違うのであり、その違うものに対して「違うんですね」で済ませればいいところを、「オレが正しい」というある種の決めつけを行うと批判や嘲笑、罵倒が始まり争いが起こる。

 どうでもいいのではない。これと自分が信じるものは大事だが、それぞれ違うのだから、尊重とまでいわなくともあなたはそうなんですねで終わらすべき。しかし、バラバラではまとまらない。基本とすべきは命だ。私には命がありあなたにもある。同じですねと共々に行くという基本理念だけは堅守し、そこからしてこうすべきという共通した方向性が見いだせるのではないか。
 といってもこれは理想論であって、自分の利益が最も大事でそのために他人がどうなろうが知ったことではないという人もいるからそうはいかないんだけど。更にいうなら、そういう人を改心させようとしても難しい。その人自身が、いわば悟らなくてはならぬことがある。わかろうとしない人の前に言葉は無力だ。だからといって無理強いしてもわかったことにはならない。自ずと経験し、そこから学んでいくしかない。左右上下前後、いろいろな人がいるのがこの世であり、オレの方が上だと思っても、この世に同じ人間として生まれてきている以上、ドングリの背比べじゃないけど層としては同じなのだ。そこのところをよくわかって、世の中を眺め、坦々と自分の信ずる道を歩んでいったらいいと思う。

 いや、UFOから思わぬ話になりました。


おおみち礼治 |MAIL

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