おおみち礼治のてくてく日記
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2016年01月03日(日) 片手間で、作業時間は10分、誰でも、とかさ

 そういううたい文句に引かれるのはわかってないからと痛感する今日この頃。だいたい、そんなことがあるわけがない。さんざん煽っておいて儲かるのは元締めだけ。良い悪いは別にして煽る技術はすごいと思うけどもね。それこそ片手間でできることじゃない。

 なんだかもう、産まれたときから違っているのではないかとさえ思ってしまう。そういう安易なものに引かれること自体、自分が安易であり、安易に物事を見ている証拠だ。安易に見ていれば薄っぺらい理解しか得られないし、安易なことしかできない。当然、結果はついてこない。そして不平不満を溜め込んでいく。わかっている人は最初から安易なことはしないで、綿密に計算し、あるいは頭を使い手を使い、あらゆる努力をしてそこにいる。わかっていない人はそこ――なんでも片手間で成すことはなく、それ相応の努力と忍耐をもって築き上げられるものと理解すべきで、精神論を嫌う人もいるけど、何をやってもうまくいかないのは、わかっている人には当たり前の言うまでもないことがわかっていないからのような気がする。
 言葉を聞いて、そうかもしれないと思うだけではまた同じこと――安易なことを必ずしはじめるから、何らかのテクニックだけ覚えても続かない(=うまくいかない)。いや、そのテクニックでさえ漠然としか覚えていなかったりしないだろうか。

 そしてたぶん、もっと重要なのは情熱があるかどうかではないか。したいことが明確になっていないと、「こうすれば儲かる」などのテクニックだけを求めて結局なにもしなかったりする。
 だれかの成功譚を聞いては、それに続けとやってみてもやっぱりうまくいかないのは、情熱がないから。お金が欲しいというのも情熱のひとつだが、自分の殻を破り積極的に打って出ようという気になるには、かなりの決意というかエネルギーがいる。自然にできるというか、やっていける人もいるが、それはわかっているから。そもそもできる人だから。楽にできてしまうとは言っていません。
 心のどこかで、たしかにやばいけど、このままでもなんとかなるんじゃね? などとわずかにでも――本当にちょっと頭をよぎっただけでさえブレーキべた踏み状態となり、情熱がいまひとつわいてこず、無理にやり出しても義務と化してぜんぜん楽しくない。そりゃ続きません。

 その成功譚は正確にはその人だけのものだ。真似するのは構わないんだけどやりながら自分なりのやり方を見つけないと、そのようにできない自分を責め立ててしまう。これ、というものを見つけてすでに結果が出ている人や挑戦中の人はともかく、そうでなければいちどやりたいことだと思っていることもいったん手放して、ゼロから自分を見つめ直した方がいいかも知れない。その思いは外から取り込んだ、「これがいい」「こうでなくてはならない」という思い込み(もっといえば洗脳)に過ぎない可能性がある。

 あるいは、真似をしようとしている人物と自分の人間のできがそもそも違うということもある。極端だが、スーパーマンに憧れて、それに続けと言ったって無理がある。そりゃあ人間の器は大きな方がいいに決まっているが、それこそそれは産まれたときから決まっているように思われる。自分を知らないと、分相応がどの程度なのかわからないし、自分が何をしたいのかもわからない。欲ばかり肥大させて実態がついて行かなければ苦しみの原因になってしまう。

 ちっちゃい器だっていいじゃないか。自分を知ることからだ。その枠に大人しく収まっているのもいいが、ちょっとだけ負荷を掛けるのがいいかも知れない。最初はどんなに小さくても、少しは大きくしていける(自由度が広がる)だろう。分不相応に大きなものを求めても、どこかでつまずくのは目に見えている。己の器を知り、それを受け入れ、だからといって諦めず、坦々と生きていく。それこそ真っ当な生き方だと思う。


おおみち礼治 |MAIL

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