お気に入りのコラムがあって毎日見ては書きとめて小学生のような事をやっている。 そのコラムニストがある詩をほんの少し紹介していて気になったので書店で立ち読みした。 だいたいまじめに立ち読みしたのなんていつぐらいぶりだろうか。 もう十年はちらっとタイトルやあらすじを見てはまとめて買っていたし、 ぱらぱら見てその時の気分に一滴を投じなければ処分していた事もざらだった。 購入する詩集を吟味して昔家に居るのが嫌で教会に時々通っていた事を思い出した。 親友だと思っていた友人が熱心なキリスト教徒だったのだ。 名前も転校先の住所もいまだ暗記している。 私にとって彼女は親友だったが、彼女にとって私はそうではなかった。 まぁよくある話だ。 彼女を思い出した。 聖書もまだ実家の今いる部屋に残してあった。 この詩集の著者はキリスト教徒であり、書いてある事が今の私の胸を強く打った。 いくつかの詩集を各々半分くらいずつ立ち読みして、2冊を購入した。 毎日まるで決まりごとのようにイライラしたら取り出して読むのだ。 宗教をどうのこうの語るつもりはない。 ただ、手段として時に助けを借りるそういう感じのもの。 私にとって。 だって毎日祈ったところで今すぐ必要なご飯が手にはいるわけじゃなかったから。 だからあまりアテにはしなくなったのだ。 また、お金を出してものを買うような感覚で祈るというのもなんだか違うと思うし。だから私にはケイケンな信者なんてものは向かない。
昔から、現場主義なのだ。 だから傷も多くなる(w
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