| 2002年11月22日(金) |
口実の恋人との手繋ぎ |
�―ゞ気繁� 人は何か自分の中に基準を設けないと、神経に負担がかかるような仕組みに進化した生き物である。 人は善を持ってして対極を悪と成す。 その逆もまた然り。
人は生きていくために宗教というものを形づくった。 そこには集団の意志の強さと脆さが織り成す世界が広がった。 人は自分という個の存在の中に渦巻く思考に疲れ、集団の中にそれを解き放った。 個が、それでいいと思えばそれが正解でしかない、その人にとって。
人は他人のパーソナリティに土足で上がり込む事ができない。 それは、個が生き、思考する限りにおいて絶対であるといえる。 例えばAがBに嫌がらせを受けたとする。 その場合、彼がBに抵抗しようが我慢しようが、その行動と思考は絶対にAそのもののものである。 Aの中にBの存在はない。 Aの意志や行動にBのそれはない。 Bの嫌がらせにおけるAへのそれは、Bの自己表現でしかない。 BのそれはAのものではない。 一見BはAに自分の考えを植え付けようとしている。 いわば思考の押し売りである。 Aが万が一、Bの嫌がらせの中にBのメッセージを感じ取り、彼の思考を共有することをしたとしても、それはBのものがAのものになるのでない。 パーソナリティは常に己の中に生まれるのである。 この自然の法則が、絶対の法則が人をいわば惑わせる。
自分の中に渦巻くパーソナリティを意識し、それを集団という形の中に解き放ちたい、そして楽になりたいと思う人は、形としての宗教に身を投じるのであろう。 その人達に顕著なのは、元々パーソナリティが自分の中にしか無いと思い込む人に多いと思う。 そして意図的な集団の中に己のパーソナリティを見るようになるのである。 自分の中にしか自分を感じない人は、自分という存在が窮屈に思え、意図的な集団の中に宗教の幻想を見るのであろう。
かく言う僕は、自分の中に宗教という幻想を見ているタイプの人間だ。 故に孤独だが、一般に思われるようなイメージの孤独とは違う。 孤独な人間ほど自らのパーソナリティを外界に見る人間はいない。 それは自然な事である。 つまり一見形として孤独な人間は、孤独でないのである。 ただし精神的に孤独なのがいいとも悪いともいえない。 それは個人の判断においての基準に基づいて決定されることである。
��悩みの連続性 ひとは悩むという。 悩みとは一種のガソリンである。 結局、ガソリンの存在に意味はないと思う。 つまり存在理由はないということ。 それを考え出してしまうと、人は神経にくる仕組みになっているらしい。 それに理由はない。 それを考え出すと、人は神経にくる。 それに理由はない。 それを考え出すと・・・
―END―
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