イブの流した涙
▼▼▼今回の一言▼▼▼
財布の中身(レシートとかカードの類ではない)がみるみる減っていく

○そのうちに、2003年12月27日(土)「注文をとらない料理店」を完成させる予定

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↑というページができました
感想専門の日記です

▼▼▼森博嗣▼▼▼
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完結編だそうです
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というより僕が好きなだけ

宝生出演の舞台観ました!(7/26)
詳しいことは月曜の日記にて
・・・と思ったけど
やっぱり水曜の日記分に書きます
と言ってて、未だに書いていない
そのうち書きます
それにしても、もうすぐ一週間経つのか
・・・もうすぐ三週間か
・・・もうすぐ四週間か
・・・一ヶ月越えたな
・・・それどころか二ヶ月経ったな
・・・もうすぐで三ヶ月だよ
・・・経ったな、三ヶ月
そして四ヶ月が過ぎ・・・
半年が過ぎ・・・
七ヶ月が過ぎ・・・
そして八ヶ月(一年の2/3)が過ぎ・・・
驚いたことに十ヶ月が過ぎ・・・
もうとっくに一年経ち・・・
一年と二ヶ月が経ち・・・
二年と二ヶ月が経ち…

2002年10月10日(木) 絶叫デビルのすまし顔

どーもこんにちわ。
最近、何にしろやる気のない僕です。

ところで、はたまた最近の事ですが、僕の友達が同じこのウェブ日記にアニメネタを中心に書いているんですが、それが気になって気になってショウガネーんです。
何故でしょう?
いや、なにゆえ?って言ってる時点で答えは出ているようなもんですけどね。
そして彼の日記を読んだ挙げ句、「僕は後追い日記を書いているのか?」って言いたくなるくらい、それに影響された内容のものを書いてしまうのです。

「ダウンタウンと山洋」
いきなりですが、彼らにはある共通点がある。
それは、<凄そうに見えないけれど、本当は凄い。>という点である。
なんのこっちゃ?と言われそうだがそこんところを解説しよう、大いに気取りながら解説しよう。

まずはダウンタウン。
彼らの漫才と言うのは、漫才ブームの頃の漫才と比べれば比較的ゆっくりなスピードのものである。
それが故に、視聴者は思うのである。
そして芸人を目指すものは思うのである。
「俺でも出来るんちゃうーん?」
いやはやそいつは馬鹿である。
あの比較的スローボールなキャッチボールには、他人にはマネのできない奥の深さがあるのだ。
よって、ダウンタウンの漫才を観てマネようったって、それは視聴者や観客という名のバッターにかっ飛ばされてしまうのである。
芸人は誰しも観ている側の人達を笑わせ、彼らからスリーアウトを取りたいと思うものだ。
しかし、もっと簡単な例を挙げればピカソの絵なんてマネできないのである、普通は。
それは何故か?
彼の初期作品を見れば、それはおのずと分かるだろう。
<デッサンがしっかりとした、一見「これ、ピカソの絵!?」という絵>=<基本>がなっているからこそ、彼の絵はそれ以降うまく崩されたのである。
ダウンタウンも同じように、先輩のやっていた漫才を崩したことが大きな原動力となり、天下を取る事ができたのである。

いかなる素晴らしい芸術に共通して言えるのは、隙が無い、っていうことだ。
隙が無く、新しいものを作るというのは、色んな要素が混ざってようやく完成されるものである。
ダウンタウンの漫才は、スローボールであるが故に見くびっていると、いつのまにかキャッチャーミットにボールは収まっているのである。
彼らの漫才は、隙の無い騙しボールみたいなものだろう。

そしてお次はそんなダウンタウンとは何の関連性もなさそうな山洋こと「山田洋次」について。
彼の映画は一言でいうと「繋がりを大切にした映画」だろう。
今までの映画には少なくともストーリーはある。
そして山洋の映画のストーリーには、ストーリーを大事にしようという信念を感じさせてくれる。

何故か若い頃にありがちな感情として、スタンダードへの反抗というものがある。
とかく若者はスタンダードに反抗しながら大人になっていく。
僕は反抗自体は必要不可欠なものだと思っている。
少年は世間に心のどこかで反抗しながら、同じ考えを持った人同士で集まったりなんかして大人になる準備をする。
反抗は自己防衛。
しかし世間の全てに反抗するわけにはいかない、自分の為にも。
どこかで、誰かには認められたいのだ。
ということで、少年達は、それぞれに合った(合っていると思う)場所へと向かっていき、そこの世界を自分に受け入れる。
そんな<反抗>と<受け入れる心>を持ち合わせた少年達の心、がキーポイントになるのだ。
つまり、山田洋次監督の映画は<受け入れる心>を持った映画。
<受け入れる心>を持った映画の代表みたいな彼の作品だからこそ、「寅さん」シリーズを筆頭に知名度は高いのではないか?

彼の映画を観ない人でも、彼の映画の中にある<もの>を持っている人達が多い。
彼の映画を観る人は、<それ>を確認する事によって自分の気持ちを確認したいのではないか?
そして彼の映画を否定する人達でさえも、<それ>というのは持ち合わせているだろう。
ただ、何かの理由でその映画に限っての事でいえば受け入れられないのだろう。
ちなみに<それ>とは誰もが持ちあわせているだろう<受け入れる心>。
ただ、人によって<それ>をどこで感じるか?の問題はあっても誰もがもっていそうなその感覚を持った山田洋次作品は、受け入れる人にとっては素晴らしいものにちがいない。

さて、僕が冒頭に言った彼らの共通点を分かってくれたでしょうか?
つまりそれは、両方が何にしろ、後世ににも残り得る<芸術>であるということだ。
なぜか?
それは両者ともの作り出すものが、(観る側にとっては)無駄が無く、そして美しい出来栄えのものだからだ。
しかし、現代の中にあるとその両方ともが邪魔なものに霞まされ、正当な普遍的な評価がなされない面もある。
普遍的というもの自体が絶対なものでないにしろ、歴史の流れの中に形をとどめるものとして、両者はすでに存在するのだ。
ピカソであれなんであれ、凄いのか?と疑わしいものでも、後に評価されるものとして、ダウンタウンと山洋は同じ領域にあるように思う。

―ひっくり返してOh、ファンタジーランド―



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