<僕が全然ダメ人間だった高校時代に、ピカソの「ゲルニカ」が日本に来たんですよ。それを見て、麻痺してた部分が戻ってような感覚を味わったんです。> ―引用:「ザ・ロングインタビュー4 人はなぜ笑うのか?―太田光」の一節
P君とは、僕の友人だ。 P君は笑わない人、と思うのはおかしい。 彼は実際には笑っている。 しかし、普段の笑っていないときの表情があまりにも笑いそうにないものである為、そんな印象を受けやすいのである。 そして彼は、僕らの共通の友人、仮にT君の赤ん坊を見た時に、僕が今まで見た中で一番の笑顔を振る舞っていた。 確かに僕もその赤ん坊を見たときに、この上ない尊さと愛情を胸の中に沸かせていたが、P君がその時に見せた表情には何か引っかかるものがあった。 普通、とって置きの笑顔というのは自分が幸せだなと感じたときにするものなはずだ。 それとも、そう思い込んでいるのは僕だけで、彼のそういった行為はまともなことなのかもしれない。 しかし、僕はこう思う。 彼が友達の赤ん坊にとって置きのそれを見せるということが、よく分からない。 まじかに見た事が今までに無かったのだろうか? やはり何かに引っかかったのである、彼の笑顔が。 やはり赤ちゃんという存在は、何度見てもその神秘的な存在に魅了されいつの間にかに表情がほころばせてしまうというのか? よく解らないが、笑うという事はが緊張の状態から解放された時に生じるものだと仮定した場合、彼はよっぽど日常の生活にゆとりがないのだろう。僕も人のことは言えないが、そんな風に感じてしまったのである。 僕にとっては、赤ん坊よりも、赤ん坊に見とれて表情がほころんでいる彼の方が、よっぽど笑えた。 確かに、笑顔になる事と笑う事は違うのかもしれない。 言い方を変えると、人は緊張状態の後に顔を緩ませるが、どんなことによって緩ませるかというのには何種類かのものがある。 例えば人は面白い状況に遭遇したときに笑ったり、また今までに感じたことのない神秘的なものを感じたときに笑ったりする。
笑うということは、ピンと張っていたものを緩ませる効果があり、本来、人間が本能的に欲するもののはずである。 しかし今の世の中、日常の中で笑うことが少なくなっている、と思う。 それは何故か?簡単に言えば、現代人は新しいものを生み出す事を忘れているからである。 何かを新たに生み出す事は、けして楽な事ではない。 楽なはずがない。 P君はたまに思い出したかのようにこう言っている。 「音楽とか作りたいし、絵も描きたい。」 彼は昔、学校の先生に絵が上手だねと言われたことがあるらしい。 本人も自分は絵の才能があると言っている。 彼は、自分の脳の奥の方の麻痺したように眠っている部分を蘇らそうと賢明である。今はそのチャンスを伺っているのであろう。
理屈ではない。 彼のあの時の、赤ちゃんを見下ろして笑っている姿は、僕の目には正直無気味に映ったのだった。 まるで彼は、赤ちゃんを見る事によって自分がどこかへ連れ去られる心配が消えたかのように笑っていた。 今思い起こせばそのように感じる。
―終わり―
ついしん、改めて上の文章を読んでみると、少し抽象的な事を言ってるな、という気はするが、しかし、頭の中にあった整理したい思いを自分なりに処理できた事を、彼という友達がいる事と同じくらいに誇りに思う。
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