◇今日は、短期(1日のみ)のバイトの面接に、友達と行ってきた。
内容は、選挙の時に「○○さん、何票です。」というのを電話で伝えるような仕事。 勤務時間は20時から28時くらいまでらしい。 面接に来ている人たちは、会社員っぽい人が多かったのでビックリした。 なんか小テストっぽいのをやらされてね… 滋賀県っていう漢字を思い出せなかった。(悲) まあいいや… どうでもいいから1万5千ちょーだいっ!
◇ゴッホについてのドキュメンタリーを見た。
<フィンセント・ファン・ゴッホ> 1853年、北オランダの牧師の家に生まれる。 中学を途中で退学。 その後、画商や牧師を目指すが、激しい性格が災いして挫折。 画家を目指したのは、27歳の時だった。
そんな彼は、晩年、耳を切ったことで有名である。 今日のドキュメンタリーを見る前から、その事だけは知っていた。 そして、左の耳が包帯で巻かれている自画像も、中学の美術の時間に見た事がある。
どうやら、孤独な人だったらしいことがよく分かった。 ちょっとしたことから、人とのコミュニケーション不全の状態がケイゾクし、 そして酒とタバコの日々が続いていたらしい。
彼は、アルルというところで絵を描いていた。 彼の住む家は、黄色い家だった。 ある時、友達の画家ゴーギャンが、その家に一緒に住む事になった。 そして、その生活はゴッホが耳を切る直前までの約2ヶ月後まで続いた。 前から、絵には想像力が必要だと言うゴーギャンに対し、ゴッホはモデルなしでは描けないと言って喧嘩をしていたらしい。 そして彼、ゴッホが計画していた画家の仲間達との共同体をつくる計画は、その時から崩れ去っていったという。
ゴーギャンは、彼を変人扱いするようになった。 街の人たちも、その事件をきっかけに彼を白い目で見るようになった。 ゴーギャンはアルルの街を出てからも、彼の悪いうわさを誇張したものとして言いふらし、人々の間に広がったそれは、さらにエスカレートしていった。
ゴッホには実の弟がいた。 彼は弟に対して、600通もの手紙を生涯の間に出していた。 彼は弟に、いろんな悩みを打ち明けていたらしい。 自分の心を打ち明けられるのは弟だけ… 彼はどんな想いで手紙を綴っていたのだろうか? 手紙の内容は、いつも冷静な文面で綴られていたという。
本当の彼は、冷静に晩年を過ごしていたのでは?という見解で番組は紹介していた。 曲がりくねったタッチの絵も、よく見れば、冷静な心を持って描かなければそんな絵にはならなかっただろうとも言っていた。 確かにそうだと思った。 一見奇抜で書きなぐったような絵に見えるが、じっと見ていると、繊細で、けして気が狂っていては描けそうにもない絵にも見えた。 もし彼が冷静であったとしたならば、彼は何を想って絵を描きつづけていたのだろうか? 人に、自分というものを理解してもらいたかったのだろうか? 彼は孤独のうちに、弟夫婦の家庭を羨ましく想いながら死んでいったのだろう。
いい解釈をしているドキュメンタリー番組を見れて良かったと思った。 そのリアルさは、儚くも美しい。 確かに近づきがたい存在であったとは思うが、彼をただの気印である存在として捉えていた僕を含めた人たちが、少しでも真実に近いものを感じ取れたのなら、この番組は成功したといえるだろう。 少なくとも、僕は真実に近いものをつかんだような気がする。
−THE END−
ついしんのランチ ・はちみつりんご酢ダイエット ・持参のオニギリ3つ ・コーヒー2杯(1杯目は名古屋駅のプラットホームで)
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