記憶の栞
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解って欲しいという欲求は非常に難しい。 自我ばかりが先立って相手に届かない。 人間なら誰にでもある欲求だと思う。 私はその欲求が非常に強い人間だと思う。 だからここは私の欲求の具現化したものなのだ。
物心ついた頃から生きる意味を考えていた。 何だか強迫観念に近いものがあったかもしれない。 生きているうちに何らかの形を残さないと 生きている意味が無いと考えていた。 だから、変にボランティア精神に富んだ恩着せがましい娘だったはずだ。 人を助ければ居場所を与えてもらえるだろう。 そう考えて、医者になりたいとちらりと思ってみたりしたが あまりの算数嫌いに断念し 次に国語が得意だったので、作家になって人を救えるような物語を書きたいと思った。 物を書くようになって、スランプに陥り、 作家を諦めかけた頃に心理カウンセラーになってみたい、なんて考え 少しだけ臨床心理をかじったりしてみた。 私の起こしてきた行動の数々は 「誰か救いたい」という信念に集約されている。我ながら単純だ。
だが「誰か救いたい」という欲求の裏には「救われたい」という本音がある。 「救われたい」が本音であって「救う」行為は目的到達のための手段にすぎない。 つまり、注目され、理解されたい。 共に理解し合える仲間が欲しいっていうただそれだけの寂しがりやなのだ。 その自己分析ができるまで、二十年もかかってしまった。 タイムマシーンがあったら、遡って無茶をしている過去の私に教えてやりたい。 自覚したところで、やっぱり同じ行動をとっていたかもしれないが。
今は、「救いたい」なんて大それたことは考えなくなってしまった。 ただ理解し合えればいいと思っている。 が、本音が見えた途端、理解されたい欲求は肥大した気がする。 好意を寄せる人間に対し、理解しろと義務を強くような傲慢さ。 理解しろという時の私の言葉は意味不明だ。 謎が謎をよぶような問いかけをする。 「解って欲しい」と言いながら、「貴方は私を理解できない」と拒否したりする。 それで、誰が一体理解何てできるんだろうか。 解って欲しいなら、解るように言葉にすべきだ。 言葉にしなくては、誰も解るわけがない。
理解したい。理解し合いたい。理解して欲しい。 傲慢さを捨てなきゃ多分どれも難しいことだ。 頭じゃ解っているんだけれど、なかなか実行するのは難しい。
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