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2019年06月19日(水)
仕事を辞めた

もういいや、と思って仕事を辞めて1カ月が経つ。

1年前に戻った自社の編集部はまあひどい部署で、進行管理とかそういうものがまったく機能していないところだった。

そこで適当にやり過ごして数年過ごすつもりでいたけれど、まあ編集長が人としてダメなタイプだったので、人生を浪費するのも惜しいと強く思った。

無茶なアサインが降ってきた翌日に辞めますと伝えて、絶句されたけどそのくらい自分の責任で捌かなきゃダメだろ、甘えんなと思いつつ本心は伝えなかった。人は信じていない人の前で本音を出さないものだ。

資産は退職金を入れて1億円弱ある。もう働かなくても生きていける。
ただ何かしてないと飽きるだろうから、適当に仕事を探して生きていく。



2016年10月31日(月)
従兄弟が亡くなり猫も看取った

父に続き、8月に一従兄弟が亡くなった。
一回り離れた従兄弟は、一時期、実家に下宿しており年の離れた兄のような存在だった。

もう3年ほど前から余命宣告を受けていたらしい。
まだ50代、早すぎる別れだった。
飄々とした従兄弟の、とぼけたような話し方が好きだった。

従兄弟の葬儀に出て翌週、19歳の猫を自宅で看取った。
お盆休みの初日、きっと待っていてくれたんだろう。

兄弟猫と、妹分の猫が先に眠るお寺さんに連れて行き、荼毘に付した。
家族3人でお骨上げをして、先に眠る2匹の隣に安置してもらった。

大切な存在を少しずつ見送って、今年はきっとそういう年なんだろうと思った。

たまに父や猫たちの夢を見る。悲しくもあり、懐かしくもあり、それも一つの幸せの記憶だろうと振り返る。

そしていつか自分の番が来るだろうと想像し、それまでの時間を今いる人たちのために使おうと強く思う。

僕がそこに居なくなる前に、精いっぱいの思い出と、そこに居なくても守れるような備えを残して行きたい。



2016年04月19日(火)
父を看取って3カ月が過ぎた

あれからもう3カ月が経つ。時の流れが早いのは残酷でもあり優しさでもある。


1月末に父を看取った。


兄弟家族、孫すべてに会い、昏睡の中でも若干の意思を疎通させながら、最期は眠ったまま自宅で息を引き取った。


四十九日をすませ、遺産や登記の処理をほぼ終えて、父のいない実家も日常になった。


病院に通った日々や、実家で介護の手伝いに顔を出した日常も、もう遠い過去のような気がする。


ときおり、嬉しそうに話す父のしぐさを思い出す。
刻み込まれた記憶が、だんだん薄くなっていく。



2015年10月08日(木)
肺がん cT4N2M1b

父の検査結果はステージ4の肺がんだった。
cT4N2M1b、状況は悪いほうから数えて2番めくらい。

そして10/6に入院して抗癌剤治療に入った今日、余命6カ月宣告を受けた。
肺のがんが3倍くらいに大きくなり5センチほどに、背骨も転移が進んでいる。
不幸中の幸いは、脳や他の臓器への転移が認められないことくらいだ。

本人には告げられていないが、医師から父に「家族に話したいことがあるので呼んで欲しい」と、家族呼び出しの要望が伝えられたそうなので、薄々気づいているだろう。

週末にまた会いに行く。
父が父であるように、その尊厳を最期まで維持できるように、できることをすべてやろうと思う。

10/6の入院には付き添ったが、足のむくみがひどく、歩くのが困難になっていた。

父の手を引いて歩いたときに、少し冷たい手を取り、昔は引いてもらった手をこうして引いていきながら、時間の流れを残酷に思った。

父は不安や不満をあまり口に出さない。それが強さなのか、子供の前での意地なのかはよくわからない。けれど、昔から父はそういう人だったし、これからもそういう人として生きていくのだと思う。

父が望むことを兄弟たちとすくい取って、満足する時間をできるだけ長く作っていきたい。



2015年09月17日(木)
父が入院した

最近調子が悪かった父が入院した。
検査入院なので3日ほどで退院するが、状況があまり予断を許してくれない。

先日、ぎっくり腰をやって以来、ずっと背中や腰が痛いと言っていた。
熱も出たり、食欲がなくなったりも続いていたらしい。

昨日、検査入院の手続きに付き添って行ったところ、医師から先日撮影したCTを見せてもらい説明を受けた。

肺に複数の影があり、骨にも疑わしい部分がある。
痛みは骨が溶けたような状態(溶骨)の影響かもしれない。
若い頃にたばこを吸っていた影響や、アスベストに数日触れたことも良くなかったようだ。

ガンかどうかは、これから検査して調べることになる(というか、そのための検査入院みたいなものだ)。

しかし、既に検査・治療はガンを「見据えた」ものだった。

検査入院の付き添い日(昨日)は、単に入院手続きだけだろうと思っていたら、肺レントゲン、肺〜腰までの造影CT、心電図、腹部エコー、心臓エコー、血液検査と検査の連続となった。たまたま検査設備がすいていて、一気にやっただけかもしれない。

腰の痛みがひどく、かかりつけで処方された痛み止めは、むくみや血圧上昇など体に合わなかったため、今回はオキノームとオキシコンチンを処方してくれた。

オピオイド系の鎮痛剤は、末期がんの疼痛管理にも使うものだ。
オキノームでもなかなか痛みが治まらないようで、オキシコンチンが効いてくれればいいなと思う。最近は痛みで夜もあまり眠れないと言っていた。


昨日は父、そして母に付き添う形で一日を過ごした。当初は弟のお嫁さん、つまり母から見ると義理の娘に送ってもらい、そのまま帰ると考えていたけれど、僕が代わりに付き添って正解だった。

一人で検査の付き添いをしていたら、たぶんあれこれ頭を巡って不安が増幅しただろう。二人でたわいもない話をしながら父の検査を待てたのは、互いにとって良かったように思う。


あまり考えすぎないよう、そして兄弟や母にもそう伝えてみたものの、今日になって急に自分の中に不安や悲しみがわいてきて動揺している。混乱している。

まだ検査結果も出ておらず、仮にがんだったとしても治療法はあるわけで、すぐに死が迫ってくるものではないと分かってはいる。それでも頭の中ではぐるぐると親の死という、黒い手紙を渡されたような感情を消せない。


一方で、実家の近くに自分を含め、兄弟3人がすぐ駆けつけられる距離にいるのは心強い。病院も実家からほど近く、自転車でも行ける距離だ。弟のパパ友がその病院の呼吸器外科の部長か課長を務めている、というのも何かの縁だろう。

ひとりだと、不安を受けきれないのは、母も兄弟も同じだろう。そして父本人も、表には出さない人だが、いろいろなことを考えているだろう。

そうした不安を知識や医療で少しずつ削り取り、立ち向かっていきたいと願う。



2013年07月16日(火)
夏の風邪

なんだかんだと忙しくて、東京の端から千葉の端へと移動したりしていた7月の上旬。
取材を終えて後輩と別れ、帰りの通勤電車に乗って家へと向かっていた。

途中、どうもおかしいなと気づいたのは中野辺りだ。
寒い。冷房を差っ引いてもどう考えても、寒い。
冷房が急に強くなった訳ではないので、これは自分の体温が上がったんだろうと思った。

世間的には猛暑で誰もが暑さを感じる中で、一人凍えるサラリーマン。
それはともかく、最寄り駅に着いてみると歩くこともままならない状況だった。

自宅に帰り、事情を話してシャワーを浴びて布団に潜り込む。
気温31℃を超えてなお寒いのは、なかなかエコだなあとか思いつつ、
体温がやっぱり39℃超えると辛いなあとか思っていた。

結果、三日三晩寝込んだ。
翌日に診療所で診てもらった結果は扁桃腺演炎。
熱が下がらず、薬を飲んでもかなりしんどかった。

一方、家族がいてくれて、本当に助かった。
一人では、面倒で診療所にも行かなかっただろうし、
食糧の調達もままならなかったと思う。
動けないというのは、生死に直結するのだと、40を過ぎた身には刻むように思い知らされる。

自分一人で生きていけるのは、恐らくは40代まで。
体力が落ちて行くに従い、どう足掻いても、一人で生きていける範囲は狭まる。
トレーニングを積んで、体力を付けていってる昨今でも、
動けなくなるまでの道のりはあっという間だった。

毎週、週末にランニングを始めて半年。
筋トレも追加しながら体型維持に努めて、
多少は効果が出てきた矢先だけに考えるところは大きい,
努力で越えられないものがあると受け入れるしかないのだろうが。



2013年01月17日(木)
大雪

祝日の月曜日には珍しく東京にも大雪が降って、
子供の頃は楽しくて仕方なかったと思いながら
家の前で遊ぶ子供たちを見ていた。

律儀に器用に電線の上に降り積もる雪が、
重みに耐えられなくなって時おり落ちてきて、
車のボンネットで音を立てて砕けていくのを見ながら、
どれだけ積もるのだろうと思っていた。

夕方になり雨に変わった頃から雪かきを始めて、翌日に備える。
子供たちが歩けるように、近所のご老人が歩けるように。