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今年になって股関節がとても悪くなり、開脚が出来なくなってしまっていましたが、諦めずに出来る柔軟体操を続けて来ました。一時は股関節の手術をする事も視野に入れていましたが、頑張って毎日、柔軟体操をしているうちに、少しずつ少しずつ改善されて来ました。今日は180度足を開いてお腹を床に着くまで、あと一息と言うところまで行きました。本当に諦めなくて良かったなと思います。菅野秀行と言えばバック宙が出来る。菅野秀行と言えばマラソンが速い、菅野秀行と言えば身体が柔らかい、菅野秀行と言えば左の上段回し蹴りが上手い、自分と言えば、と言う事が出来なくなって行く事はやはり寂しいし悲しいです。もちろん最後は死んでしまうわけだし、全て出来なくなってしまうんだろうけど、頑張って抗いながら老いて行きたいと思います。そして楽しみながら老いて行きたいと思います。最近、ダイエットをやめたと昨日の日記で書きました。ダイエットを止めたと言うのは、有酸素運動をするのを止めたと言う事です。ウエイトトレーニングをして筋肉を増やし、有酸素運動は空手の稽古だけにし、炭水化物を抜くのは夜だけにしたいと思います。体質を変えて食べて有酸素運動をしなくても太らない身体を手に入れたいと思います。そして週末は家族とお酒を飲んで楽しい時間を過ごしたいと思います。
アキレス腱断裂から4ヶ月と13日の今日、遂に突き蹴り全てありの組手が出来るようになりました。本当に嬉しかったし、本当に嬉しかったです。自分が想像していたより早くここまで来たような感じもしますが、そうではないと気が付きました。自分が本気で望んだから、こうなった訳で、望まなかったら、この未来はなかった訳です。自分が本気で望んで、真剣に一生懸命にやれば、どんな事だって実現させる事が出来るはずです。あらためてそれを強く思いました。人生は1度です。本当に好きな事を見つけて、それをやるべきです。そこからたくさんの感動を作る事が出来ます。私は今も毎日、感動しています。そして生徒達と一緒に稽古をして、一緒に汗を流して毎日、青春しています。長男と次男も空手に対してやっと本気になってくれたようです。1人で腕立て伏せをしても力が弱いため、下まで下ろす事が出来ないので、私が帰宅するのを待っていて、私に足を持ってもらって腕立て伏せを毎日やるようになりました。そんな事だったらいくらでも協力してあげます。私は子供達に勉強は教えてあげる事は出来ないけど、極真空手から学んだ事は教えてあげる事は出来ます。本気になって真剣になって夢や目標に向かって一生懸命に頑張れば、それがどんな結果であれ感動する事が出来ます。その頑張って歩んだ道をふり返った時にその自分の歩んで来た道はキラキラと輝いて見えるはずです。そしてたくさんの思い出やたくさんの仲間が出来ているはずです。それが自分の1番の財産となり、自分の生きた証となります。それを子供達に教えたいです。
ここのところ寒くなって来ました。今日をふくめあと7日で11月になるのですから、寒くなるのも当たり前です。もう来年の事が視野に入って来ました。来年の2月1日に私は50歳になります。ここから3ヶ月をどう生きるかで、今まで生きた50年という時間の振り返り方も変わると思います。そして来年は東京に上京して30年でもあるので、いろんな意味で節目の年なので、しっかりとした形で節目を迎えたいと思っています。私は最近止めた事があります。それはダイエットです。体重や血圧は毎日計りますし、全然気にしない訳ではありませんが、考え方を変えました。体型と体質を変えて行こうと思います。食べる時も「この食べた物が自分のエネルギーになり、自分の身体になるんだ。」と思って食べるようにしています。体重の上がり下がりに右往左往するのはもう止めて、強い身体を作って行こうと思います。
ウエイトトレーニングの記録がどんどん上がっています。若い頃はとにかく重い重量を上げようと躍起になってトレーニングしていました。でもフォームも悪く上手に筋肉に刺激を与えていないため、やったトレーニングに見合った効果が出ていなかったと思います。それと几帳面に栄養を摂る事が出来ていなかったと思います。45歳の誕生日に一念発起してウエイトトレーニングを始めましたが、途中途中、身体を故障し出来ないとトレーニングがありましたが、出来る事を頑張って来ました。その結果、ここ最近、トレーニングの記録がどんどん上がって来ましたし、トレーニングのフォームや効かせ方が上手くなり、しっかり筋肉に刺激を与えられるようになりました。毎回トレーニング後は筋肉がパンパンに張っている感覚があり、目に見えて身体にも変化が出ています。若い頃はあんなに苦しくて嫌いだったウエイトトレーニングを今は楽しくトレーニングに取り組む事が出来ています。
私の足が治ったので、子供達と休みの日は銭湯に行けるようになりました。雑色には銭湯がたくさんあります。今日は子供達と1時間半ほどトレーニングをしてゲームセンターに行って銭湯でお風呂に入りました。子供達には私より強くなって欲しいとも思いますが、私も子供達には負けたくないので、子供達には私より少し弱いぐらいに強くなってくれたら良いなと思います。
長男がどうやったら試合で勝てるか?を聞いて来ました。私は学校の勉強は子供達に教えてあげる事は出来ませんが、空手の試合は130戦以上して来た経験がありますし、超一流の人達から指導を受け、超一流の人達と一緒に稽古して来ましたので、そんな事なら誰よりも教えてあげる事が出来ます。長男は3歳から空手を始めましたが、私に教えてなどと言って来た事はありません。やっとこの日が来たかと言う感じです。少しずつですが、いろんな事を教えてあげています。でも人に教えてもらうよりも自分で試合を見て感じたり考えたり思ったりする事が大切です。だから強くなりたいのなら全日本大会を観に行けと言いました。情熱には油が必要です。情熱の火が燃えているうちに油を注いであげて欲しいと思います。
家に生き物が増えて来ました。はじめはお祭りで長男と次男が金魚すくいで金魚を取って来た事から始まりました。残念ながら金魚は死んでしまいましたが、そこから次男がお友達からウーパールーパーをもらって来て、長男が金魚がいなくなった水槽にネオンテトラを買って来て、今日は次男がグッピーを近所のおじさんに買ってもらったと言って帰って来ました。長男はウーパールーパーの水槽の水を変えて上げたり、ネオンテトラの水槽の水を変えてあげたり、エサをあげたりして、結構よく面倒を見ています。
私は来年で50歳になります。考えてみれば私の父は50歳の時に会社を辞めました。50歳までには一生、生きて行けるだけのお金を稼いでしまったのですから、それは凄い事だと思います。私と父は似ているところが1つもないと言うぐらい似ている部分がありません。唯一、父から受け継いだ事は喧嘩が強かったと言う事だと思います。その1つ受け継いだ事をさらに伸ばして、それを仕事に出来て今こうして家族を養えているのですから、感謝しています。でもその部分は息子達には受け継がれませんでした。とてもホッとしています。この仕事は自分が好きで始めた事なので、私一代で終わらせたいと思っています。子供達には自分で好きな事を見つけてその道を進んで行って欲しいと思います。
49歳がこんなに楽しいなんて思いもしなかったです。トレーニングも稽古も楽しいし、家族と一緒にいる時も楽しいし、毎日を本当に樂しく過ごさせて頂いています。50歳も楽しい毎日を送れるよう健康に気を付けて日々精進したいと思います。
論語で「吾十有五にして学に志す。 三十にして立つ。 四十にして惑はず。 五十にして天命を知る。 六十にして耳順ふ。七十にして心の欲する所に従へども、矩を踰えず。」と言っています。私も15歳で空手を始めたので、十五にして空手に志しました。三十にして立つは、29歳で道場を開設しました。立つとは学んでいる事を納めて独立すると言う事ですので、私は三十前にして立つ事が出来ました。四十にして惑はずは、私は20歳で東京に来る時に空手の世界で生きて行くと決めたので、二十にして惑はずです。五十にして天命を知るは、29歳で道場を開設した時には、これが自分をこの世で活かす道だと確信したので、二十九にして天命を知るになります。けっこう生き急いでるなと思います。六十にして耳順ふは、六十までに人の言う事をどんな事でも素直に聴いて理解できるようになるのか?まだ自信がありません。でも60歳になるまでには、そんな人間になれるよう日々努力精進して行きたいと思います。あと3ヶ月ちょいで50歳になるので、のんびり生きている暇はありません。
kanno
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