にゃんことごはん
ごはん



 残暑お見舞い申し上げます ~信州の山間の町より

元、文学少女だった私にとって、信州というのは島崎藤村や室生犀星という名とともに、いくばくかの憧れを抱く土地でした。

でした、と過去形なのは、私自身が信州に転居したから、です。
はい、引っ越しました。

一人暮らしを経て家庭をもった東京から、両親が相次いで他界したため引っ越してきた、生まれ故郷の横浜(とはいえ、育った家と言うには微妙な実家でしたが)に引っ越したとき、あまりの大変さに「もう二度と引っ越しはしない」と固く誓ったはずだったのですが。
ま、人生そんなものです。

引っ越しの何が大変だったかと言えば、とにかく、両親が残した諸々の処分でした。東京から横浜に引っ越した時から、少しずつ片づけてはいたのですが、やはり自分のものではないものを切り捨てられず、なあなあにしていた諸々を、この度、ばっさりと切り捨てました。胸が痛い。
あと、妹の物もたくさんあって、これも判断に悩みました。

横浜の家は両親にとって夢の家だったわけで、それをなんとか継いできたわけですが、私自身が老齢になって「もう、いいかな」と思うに至りました。
二十数年前、両親の没後に、なんとか継ごうと思ったのは、やはり私が長女だったからなのでしょう。でも、もういいよね、と。

老いては子に従えとも言いますし、リュウが骨を埋めると決めた信州に、私も居を移そう、と。

にゃんちゃんやチャチャコがいたら難しかったでしょう。彼らを見送って、練ちゃんだけになったから、引っ越し先を探す気になったのも事実です。

とにかく、大騒動の引っ越しを終え(引っ越しの騒動中、練ちゃんはお世話になった動物病院に預かってもらっていました)、改めて練ちゃんを迎えに行き、東京行きの特急と新幹線を乗り継ぐという、荒業。
東京駅でインターバルを設けたのが幸いしたのか、関係なかったのか、北陸新幹線の座席で、練ちゃんは大人しくしていました。

3人掛けの通路側指定の私に、窓側指定をのおじさまが「(真ん中の席に)誰かが乗ってきたら、膝にのせればいいでしょう? ここに猫ちゃんを置いたらどうですか」と声をかけて下さり、ご自分も猫を飼っていらっしゃるとういうことで、とても好意的で助かりました。
亡くなった白猫が練ちゃんに似ていると、笑いながら日本酒を美味しそうに召し上がっていらっしゃったのが、印象的。

私が降りる駅より前に、降車されましたが、ほんとうにありがとうございました。
好き嫌いの問題なので猫嫌いの方もいらっしゃいますし、アレルギー持ちの方もいらっしゃいます。身を縮めるようにして乗った新幹線で、思いがけず猫好きの方と遭遇して、ほんとうに嬉しかったです。

ターミナル駅からは、ちょっと距離があったのですが、とにかく早く帰宅したくてタクシーを使いました。

練ちゃんは、「ふう、やれやれ」とキャリーから出たとたん「ここ、どこ?」という感じに固まりましたが、とにかく私のベッドが置いてある部屋(ここに猫炬燵や、練ちゃんお気に入りのボロボロの籐のキャリーを設置)に入り、しばらく ベッドの下から出てきませんでした。
が、トレーにご飯を用意してみると、がつがつと食べ水を飲み、炬燵に潜り込んで落ち着いたみたいでした。
そこからは、なんだか、慣れたのかなんなのか、家じゅうを歩き回って、適当にくつろいでいます。
なんか、「うん、ここは僕のウチ」とでも思ってくれたみたいです。

引っ越しに際して(大量の遺品の処分の心配とは別に)一番心配だったのが、練ちゃんのことでした。
引っ越し前の荷造りの段階で神経質になったので、予定より早めに動物病院に預かってもらっていたのですが、異動してからは、こちらが驚くほど新居?に馴染んでくれました。
もしかしたら、他の猫の匂いがないから新しい家が気に入ったのかもしれません。いつも先住猫に遠慮していた練ちゃんでしたから。

とにかく今は、私のベッドの上か電源を入れていない猫炬燵か、ボロボロのキャリーで、信州の乾いた空気を堪能している練ちゃんです。

引っ越してきて初めて気づいたのですが、湿気が少ないんですよね、信州。
それでも私が住まう辺りは河が近いので、地元の方たちにとっては湿気が多いらしいですが、海風で育った私にとっては、乾いてます。
その分、気温が高くても、そう暑くは感じないという。
居室にしている北東の部屋などは30℃越えでも楽勝で、空調を送風にして風を送っていれば過ごせます。練ちゃんのいる南西の部屋は、午後になるまで陽が刺さないので、さらに快適です。

実は引っ越し前夜に、突然、喘息の発作を起こして(人生初の発作でした)、夜間救急に駆け込みました。引っ越し作業に伴うハウスダストのせいかと思ったのですが、ハウスダストの短期的な影響で喘息を発症することは少ないそうで(多少せき込むとか、その程度だそうです)、過労とストレスと言われたのですが、転居してからは落ち着いています。
一度、部屋の引き渡しのため引っ越し後に横浜に行ったあと、発作が起きそうになって吸入器を使いました。が、その後は大丈夫みたいです。

首都圏と異なり車社会なので、免許をもたない私には不便なことも多いです。が、一応、生活の基盤となる食品スーパーとコンビニとドラッグストアと100円ショップが、徒歩10〜15分圏内にあるのが助かっています。しかも坂もない平地ですからね。
毎日、テクテク歩いています。

引っ越してきてから、リュウがちょくちょくやってきます。この夏、バイクの免許をとった彼は、私の引っ越し先に20分ほどでこれるみたいです。
別に何をするわけでもなく(動画を見ていたりしていますが)、やってきてはくつろいでいる彼も、猫みたいなものです。
(引っ越し当初は荷物の片づけを手伝ってくれたことは、一応、彼の名誉のために付け加えておきます)

猫的一家にとって、信州の暮らしは、なかなか快適。
(間違っても、長野と言ってはいけないのか、みんな、信州と言います、部外者は郷に従い、信州と言っています)

海はないけれど、海がない故の憧憬が強いのか、魚は美味しいものがいっぱい。下手したら、横浜よりいいネタ入ってない?とか思います(多分、北陸あたりから来るのでしょう)。
あと、謎の酒粕の山。酒粕で2コーナーぐらいあります。
地元野菜のコーナーは重宝しています。超安いし、美味しい。
八町きゅうりというのを、今日、購入したのですが、美味しい。
糖度も高くて、食べた後、スイカを食べた後のようなげっぷがでました(下品な話ですみません)。
いろいろ忙しくて冷凍庫に封印していたぬか床を解凍して、ぬか漬けを作ることにしました。

冬は寒いんだろうなあと思いつつ過ごす夏は、今年が最後でしょう。
夏を楽しもうと、思います。


2019年08月12日(月)



 空を見る 皐月も終わり衣替え 移ろう季節追いかけるよに

急に気温が上がって、汗ばむ日が続いた五月の後半。

練ちゃんは、時々潜り込んでいた猫炬燵や、潜り込んでいたり最近はふかふかと身を埋めていた座椅子の掛蒲団からも脱却して、私の仕事部屋の椅子を居場所と定めました、つまり、春も去ったのです。

室温や湿度、風の流れを総合して、一番、居心地のいい場所を探すのは、猫の得意技。うっかり、出先で手間取って帰宅が遅くなると、娘を持った父親のように玄関からトイレにまでついてきて、うにゃうにゃと文句を言う練ちゃんも、やはり猫なんですね、と実感する季節の変わり目。

練ちゃんの体調は相変わらずです。歳ですし。
食欲もあり、多少の爆弾は抱えていますが、おおむねご機嫌に過ごしているので、よし、としますか。

来年、オリンピックを控えている一環として、ベジタリアンやビーガンについての番組企画が目に付くのは、私が食いしん坊だから、でしょうか。

宗教上や健康上の理由に基づく彼らの主張は、当然のことだと思います。
思想上(環境保護?)の理由に基づく主張も、理解できます。
薬剤や化粧品のための動物実験、人間の食のために不自然な食事を強制的に与えられる食肉動物、それをすべてフラットにすることが、果たしてできるのか、というジレンマは私にもあります。
ただ、過激な集団になると「肉食は人間以外の種の搾取だ」と主張し、精肉関係者を襲ったりする事件が海外では頻発していると聞いて、それについては「う〜ん」と思わざえるを得ません。

理由は2つあります。

その1:
確かに、今の食肉生産の現場と流通・市場とその消費に問題がないとは思いません。
食肉用の牛1頭を養うための穀物量と、人間が必要とする穀物の量を比較した場合、餓死者の何人が救われるか、などという比較があったりします。
また、フォアグラを作るのは、虐待ではないのか? あるいはサシの多い和牛をつくるのは、虐待ではないのか? 難しい問題です。
食べてなければいい、というのは、そうなのですが、そこに絡んで発展してきた食文化というものもあります。それを否定していいのだろうか、という疑問があります。
まあ、文化なんて余禄の一部、ましてや食文化なんて、とも言えるかもしれません。
でも、人間はもともと、木の実などを採取し、時に動物を狩り、獲物を得たときは、干し肉にするなどして、命をつないできた歴史があるわけです。そこも、否定するのだろうか? という、非常に素朴な疑問です。

その2:
こちらのほうが、メインなのですが。
肉食を拒否する彼らは結局、代用肉(大豆由来)や代用乳(豆乳)を使うわけです。
植物油をたっぷり使って調理された代用肉に、たっぷりのトマトソースをかけた料理を見て、なんか違うよな、という印象がぬぐえません。結局、普通の豚肉を使ったソーセージをラードで調理してトマトソースをかけたものの代用を求めているだけ、としか。
肉を食べていなければいいのだ、というのが彼らの主張ですが、じゃあ、植物ならいくらでも搾取してもいいのでしょうか?
代用肉のために大豆の需要が上がったら、日本の豆腐や揚げや湯葉はどこにいくの? 高級品になってしまうの? それとも、世界中に大豆畑が広がるの?
その大地を肥沃な地として維持していくのは、だれ? 何?

他の種を搾取するな、というなら、植物だって一つの種です。
動物のように鳴かないし、動かないし、自己主張しないし、だから、搾取することに痛痒を覚えないというのなら、片腹痛いです。

植物だって、種をつないでいくために葉を茂らせ花を咲かせ、根や茎に栄養をためたり実をつけたりしているのに、人間はそれらを搾取しているのです。
コメもムギも豆も、すべてそうやって、手に入れているのです。
だから、お米の一粒を大事にする、それが、命をいただくことだから。
その意識なく、肉じゃないから肉の代わりにいくらでも消費する、というのは、「違うよな」としか思えない私は、偏屈なんでしょうかね。

2019年05月30日(木)
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