Espressoを飲みながら

2004年07月13日(火) カフェ・コレット

 すっかり行き着けのカフェの一つとなってしまった、なんばパークスのAl Avisで、すっかりお気に入りになってしまった、カフェ・コレットを飲んでいた。

カフェ・コレットとはエスプレッソに少量の蒸留酒を加えたもの。ここのカフェでは、エスプレッソの入ったカップと、蒸留酒の入った小さなグラスが銀色のプレートの上に置かれた状態ででてくる。蒸留酒だから、言うまでもなくアルコール度数は高い。エスプレッソもやはり苦味の強い珈琲である。ただし、カフェインの含有量はドリップでいれた珈琲よりも少ないのだが。とにかく、刺激の強いもの同士の掛け合わせがカフェ・コレットなのだ。

 冬のイタリアをバイクでツーリングされていた方の話によると、寒い夜にバルに入り、このカフェ・コレットをくいっと飲んで冷えた体を温め、飲み終わったらすぐに店を出て、再びバイクにまたがり走り去るのが格別なんだそうだ。「それって飲酒運転では?」とも思ったが、たかがカフェ・コレット一杯分のアルコールだなんて、そんな細かいことを気にしながら生きるのは法律に適ってはいてもイタリア的では有り得ないのかもしれない。本当のところは知らないけれども。

 そんな話を思い出しながらも、今日私がカフェ・コレットを飲んだのは単にその味が好きだからである。極端な苦味、極端なアルコール度数、私は極端なものが好きなのかもしれない。あるいは、酔わせながら覚醒させるような相反する二面性を備えたところが。



2004年06月24日(木) 午後のドルチェ

 蒸し暑い午後、冷凍庫からアイスクリームを取り出し、小皿に移して抽出したばかりの熱いエスプレッソをぶっかける。イタリアではアフォガード(afogado)と呼ばれる。日本でもイタリア系やシアトル系のカフェで食べられるところがある。エスプレッソの香りと苦味、アイスクリームの甘さが好対照で手軽な割りに深い味わいのあるドルチェだ。

 今回はエスプレッソの豆は例によって例の如くLAVAZZAのQUALITA OROを使ったが、アフォガードにするならもう一段階苦味の強くてもいいかもしれない。LAVAZZAで言えばESPRESSO、珈琲豆屋さんで買うならイタリアン・ローストあたりかな。

 舌の上で甘味と苦味が溶け合ってなんともいえないいい感じ。



2004年06月11日(金) 雨の朝

 ざああざああと激しく打ち付けるように降る雨。人が昨日から予定を入れているというのにそんなことは微塵も気にしないのだ。はるか南の海から台風がやってきつつあるという。もうすぐ、もっともっと雨が降ってもっともっと風が強くなるのだろう。

 大阪に行くはずだった今日の予定をいったいどうしようかと私は思いあぐねる。一生懸命考えても、考えたとおりに行動することはまれなのであまり意味はない。降りしきる雨は淡々としかし激しく。

 



2004年05月27日(木) これもまた過ぎ去る

 OSHO TAROTというタロットカードがあって、その中の1枚に、スーフィー(イスラム神秘主義)の賢者が王に知恵の言葉が裏に刻まれた指輪を渡す逸話が書かれている。王が絶体絶命の時に指輪の裏を見るとそこには「これもまた過ぎ去る」とだけ書かれていたという話だ。

 王は幸福や悲しみと言った感情の変化に振り回されたくはなかった。それゆえ賢者達に答えを求めたが、答えを与えることができたのはスーフィーの神秘家だけであった。なぜなら数ある賢者の中で、スーフィーだけが己の感情に振り回されずに存在することを学んできたからだ。

王は国の中心であり、社会の中心だ。常にうれしいこととかなしいことの渦の中にいる。油断していると、バランスを見失ってしまう・・・。かなしいことはともかく、うれしいことと言うと純粋に良いことのように思われているが、中医学では過度な喜びは心臓に悪いと言う。では落ち込んでいるほうがいいのかというとそんなことはない。過度な喜びと同様に喜びの不足は心臓に悪いのだ。五行はバランスのアートである。

そして「これもまた過ぎ去る」と覚えておくことが心のバランスを取ってくれるとスーフィーは言う。辛いこと-過ぎ去っていく 嬉しいこと-過ぎ去って行く 悲しいこと-過ぎ去って行く 楽しいこと-過ぎ去って行く 悩み事-過ぎ去って行く 熱狂も興奮も過ぎ去って行く・・・
長い目で見れば、私達の身体、心、命、魂、それすらも過ぎ去って行く・・・もっと長い目で見れば宇宙すら過ぎ去って行く-宇宙にも終わりと始まりがあるのだ-・・・

思い出してみれば、あなたにもたくさんの「過ぎ去ったこと」があることだろう。過ぎ去った子供時代、過ぎ去った青春、過ぎ去った恋愛、過ぎ去った友情、過ぎ去った仕事、過ぎ去った愛、etc.etc...

全ては過ぎ去ってきたし、これからも過ぎ去り続けるだろう。スーフィーが彼の全存在を賭けて王に手渡した秘密の教えの指輪の言葉のように。

あるいは「ただ変化は起こり続けるという真実のみが変化しない」と言った仏陀の言葉のように。

そして「これもまた過ぎ去る」と覚えていたら、人は幸福にも不幸にもしがみつくことができない。しがみつかない人はそんなに惨めにはならない。しがみつかない人は倒れても起き上がりこぼしのように立ち上がる。
立ち上がろうとする努力さえなく、自然に。

起き上がろうと努力している起き上がりこぼしを、見たことがあるだろうか?
起き上がることに必死になれば起き上がれない。力を抜いた者のみがよく力を用い、起き上がることができる逆説。そして「これもまた過ぎ去る」と知る者こそが力を抜いて力を用いることができる者である。



2004年04月07日(水) 虚無感のある歌詞

 虚無感のある歌が好きだ。歌詞に虚無感のある歌が。

 明日があんよでないよな定め
 義理も人情も世間のことで
 赤い夕陽を背にあびながら
 江戸の夜明けを待ち侘びる
 隠密同心捜査網

 これはかつての名作時代劇、大江戸捜査網のエンディングテーマで、私は子供の頃に再放送をよく見ていたのだが、今でも夕暮れ時に人気の少ないところなど歩いているとついつい口ずさんでいる自分に気付くのだ。

特に最初の二行、

 明日があんよでないよな定め
 義理も人情も世間のことで

この行間から果てしのない虚無感を感じるのは私だけだろうか。明日自分が生きてるか死んでるかなんか誰もわからない、誰にも保証できない、けれどもなぜか明日に予定はあるし、全ての予定は自分が生きてるという確証なき前提のもとに進んで行く。

義理も人情も世間のこと、世間は義理がどうとか人情がどうとかわいわいがやがやいつも五月蝿いが、自分はそんな世間の関わりですら他人事で。自分のことは世間の知ったことではなく、自分はただ自分の命を生き、そしていつか死んでいくだけである。

 赤い夕陽を背にあびながら
 江戸の夜明けを待ち侘びる

 そう、陽は暮れかけているのだ。日没は近い。そして暗闇こそ我が仕事場であり、自分の生きる場所、そしておそらくは死に場所である。

 いつかこの闇多き街に夜明けはくるのだろうか。もう自分は十分長く待った気がする。待って待って何も起こらず、それでも自分にできることは待つことと己の務めを果たすことのみである。ひょっとしたらこのまま待ち侘びながら死んでいくのかもしれない。それでも今この瞬間の私は江戸の夜明けを待ち侘びているのである。

 隠密同心捜査網

 南無阿弥陀仏と唱えれば、そこに阿弥陀仏の全ての救いがあるという。南無妙法蓮華経と唱えたものには、法華経の全ての功徳があるという。隠密同心捜査網も同じである。歌の終わりを隠密同心捜査網で締めることにより、隠密同心の全体、その全てを万感の思いでもって歌い上げるのである。

 嗚呼、隠密同心捜査網!



2004年04月06日(火) 桜-坂本(滋賀県)-

坂本の桜

 毎年恒例のようにアップしてますが、例によって例のごとく、今年もとりあえず桜の写真アップです。今回は拙日記初登場!の比叡山のふもと、坂本の桜です!坂本、さすが坂本というだけあって坂の多い街ですが、坂を登って下を眺めると琵琶湖が綺麗〜♪



2004年03月30日(火) Silence and Emptiness

 生まれてこのかた覚えてきた言葉が全て無になるような全き沈黙。粗雑な感情も、継続する思考もその支配力を失い、場はただある種の存在感によって統治される。

 あなたが得てきたものに意味などなかったのかもしれない。
 あなたが失ってきたことは無意味ではなかったのかもしれない。

 虚空はそれ自身で一つの表現。表すものも、表されるものもない完全な表現。あなたが全てを手放す時、虚空があなたを抱きしめるであろう。



2004年03月10日(水) 存続を考える

 最近、真剣にこのEspressoを飲みながらの存続について考えている。別のサイトやそこの日記の更新などにいそがしく、あまりこちらの日記に書き込んでいない。その理由はなぜかというと、むかしと違って、えんぴつのサービスがあまり魅力的でないからというのも一因である。はてなダイアリー、gooのblog、楽天広場のような「ブログ」系と比較すると、どうしてもえんぴつ日記は旧型の印象を免れ得ない感がある。



2004年03月09日(火) やっぱり閑が好き?

 「やっぱり閑が好き?」と自分自身に問い掛けてたりします(爆)。はい。がんばりモードなんておいらに付いてません。ふにに。



2004年03月02日(火) ある嫌煙者のつぶやき

三月に入りました。今日と明日は楽しいお休み。お仕事は、幸か不幸か今月も続くようです。まあ今月いっぱいで終わりになる説が強いので、ちょっと安心なのですが。次はもうちょっと気楽な仕事か、自分がとことん本気になれる仕事か、どちらかに就きたいです。

 でも、それよりも大事なのは、「チェーンスモーカーに煩わされない職場」。完全禁煙のオフィスで働きたいです。タバコ吸いながら仕事したい人間は、屋上かベランダで仕事すればいいんです。生きるために仕事しているのに、副流煙で寿命縮めていたら本末転倒です。タバコを時々吸うだけならまだしも、火がついたままのタバコを灰皿に置いて、そのまま何分も電話しているなんて、言語道断です。

 社員や派遣社員やバイトがなかなか会社に居着いてくれないと感じている方々、あなたの会社のオフィスはタバコが嫌いな人が快適に仕事できる環境になっていますか?残業してほしいときにしてくれないのも、煙ぷんぷんの会社に一日8時間以上もいたくないからかもしれませんよ。

 こんなニュースをみつけました。

http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/economy/employment/
---------上記サイトより引用---------
気分が浮かないのは、仕事場のせい?--メーカー調査
 新たに発表された調査結果によると、たいていの人間は自分のオフィス空間にワクワクしておらず、多くの人にとって、この問題は感情を左右するものだという。
 コンピューター周辺機器を提供するスイスのLogitech Internationalが行った調査によると、事務職の42%が自らの仕事場の環境をCランクと評価したという。また自分の小部屋やオフィスをDと評価した人は10%、Fと評価した人は4%で、逆に最高のA評価を与えた人間はわずか6%だった。Logitechは米国の事務職1003人を対象にこの調査を実施し、先週その結果を発表した。(CNET Japan)
---------引用終わり----------

 ね、このニュースはアメリカのものですが、オフィスはもっと快適になったほうがいいと思います。

 それから、タバコについてですが、ここからは不思議系の話になるので気に入らない人は読み飛ばしてください。

 元来、タバコはネイティブアメリカンが儀式など特別な機会に吸っていたものです。彼らは、祈りをこめてタバコを吸っていました。祈りはタバコの煙とともに天に昇り、彼らの神、あるいはグレートスピリッツのところまでとどいていたのです。だから、タバコを吸う時には、清らかな心の状態で吸わなければならなかったのです。

このように、タバコの煙には伝達性があります。だから、ストレスいっぱいの人間がタバコで気を紛らわせようとしている時、その人は自分の怒りや邪念や憎しみを、知らずと煙が届く範囲の人々-あるいは天の神々にさえ-伝えているのです。怒りや憎しみの言葉が周囲の人々に不快感をもたらすのと同様に、怒りや憎しみの状態で吸われたタバコの煙は、ただのタバコの煙以上に周囲の人々に不快感を伝達します。そして、その範囲にいる人達のほうも段々いらいらしてくるのです。かくして殺伐とした抑圧された怒りでいっぱいの空間ができあがってしまうわけです。逃げ出したくなる人がでてくるのも無理はありません!

 でも今回の仕事では、私もうかつだったのです。仕事を紹介された際に、ちゃんと嫌煙者が安心して働ける環境かどうか聞いていなかったのですから。でもだからといって、煙ぷかぷか、帰宅するとコートに煙草の匂いが染み込んでいるのが否応なくわかってしまうような環境が許されていい時代ではないと思うのです。


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空遊 [MAIL]

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