Espressoを飲みながら

2004年02月22日(日) Hope the best, but expect the worst.

 昔、まだ少年だったころに"Hope the best, but expect the worst."という言葉を本で読みました。「最善を望みなさい、しかし最悪の事態にも備えておきなさい。」という意味だそうです。今の私にとってのベストは、次の休日-明後日の火曜日とその次の水曜日-を楽しめること、そしてワーストは、休日出勤を半ば強要されてしまい、今度のお休みがなくなることです。

 今月から始めたお仕事にはノルマというものがありまして、それが達成されないと今月いっぱいで私はくびになるそうな。今の進捗状況はノルマに全然足りてないのです。それで、今月はあと二日ちゃんと給料をつけてあげられる出勤日をプラスできるから、休み返上してがんばりなさいとか、なかば命令として言われないかという不安があるのです。

 「やる気があるようなポーズを見せることも大事」と先輩派遣社員さんに言われ、今日は1時間半残業しました。残業つくのはその内1時間なのですが。1700円以上の時給(残業手当がつくため)に免じて許すことにします。

休みが二日つぶれると、逆に言うと今月の収入が二万円アップです。しかし、大事な大事な休日を失ってしまうのです。それで今月はのりきれても、来月からどうするのか?ずーっと飛ばし続けられるのか?二日つぶしてがんばっても契約取れなくて今週いっぱいで首かもしれない。それなら金は稼げるうちに稼いだほうがいいのかもしれないという意見もあると思います。でもそれは私のスタイルじゃない。

 どちらにしてもプーにもどることにまったく抵抗がないあたり、自分らしく感じてしまうところもあります(爆)。

 よく思い出せば、私はかつて「中国命理枢要」の著者、鮑黎明先生に自分の先天八字(四柱推命)を見ていただいたことがありまして、「高いものを売りつける仕事、ノルマのある仕事は×です。向いていません。」と言われていたのです。今扱ってる通信サービスは、性能はいいのですが、競合他社のサービスより価格は高いのです。そして売上ノルマが一応存在します。

占いというのは馬鹿にならないものかもしれませんね。

"Hope the best, but expect the worst."

今月で仕事切られるのがワーストなのか、来月に続いていくのがワーストなのか、どっちがベストでどっちがワーストかわかりません。流れにまかせます。でもお休みは、せめて火曜日だけでも救いたい。



2004年02月04日(水) 夢か幻か・・・神との対話

 私は悩んでいました。そして神に祈りました。

「神よ!私の生きている意味はなんなのでしょうか?」

当然返答があるわけもなく、ただ沈黙のみがその場を支配しました。私も神が本当にいるとは、少なくとも質問したら答えてくれるような神が本当にいると信じて問うた訳ではないのです。ただ、そう問わねば居られないような、いてもたってもいられないような気持ちになって、そう声を発したのでした。

しばらく沈黙が続きました。そしてその次の瞬間、さっきまで曇っていた空ににわかに陽光が差し込み、鳥が飛び立つ音が聴こえました。そして、しっかりした声で私の耳に語りかける優しく強い神の言葉が!

私はもう一度上の質問を繰り返しました。
神はそれに答えてくれました。それもいたって簡潔に・・・。

「ネタだ。」

それだけ言い残して神は去っていきました。残ったのはいつもと同じ自分の部屋。耳には先程の「ネタだ。」という言葉がこびりついて離れません。主よ、私はネタなのでしょうか?



2004年01月17日(土) 初雪

初雪である。朝起きたら庭の木々や車の屋根の上にしっかりと積もっていて、さらにややぼた雪気味になっており前途が心配されるとはいえ、雪はなおも降り続けていた。ここは雪国ではない。いくら降っても必ずすぐに消えてしまう、はかない宿命を背負った雪である。雨とちがって、何日かに一度は必ず降るだろうというようなものではなく、暖冬だとほとんど全く降らないこともしばしばで、とりわけこの星の温暖化が進行しつつある今日このごろでは、その姿を見ることは希であると言って過言ではない。

 窓を開けて雪を眺めつつ、外に出る用事もないので読書するのである。というのも町田 康の本を3冊人から借りていて近日中に必ず返さねばならないのであるが、なかなか読み進んでおらず、それというのも晴れた日には去年末に購入したロードレーサーに乗ってその辺をうろうろしたりちょっと遠くにでかけたり、あるいは参加させていただいてるMLの方々とMTBで山に行ったりしているからである。ある意味今日の雪は、私の読書にとっては願ったりかなったりと言って良かったのだ。

 借りている3冊の本の題名は、「くっすん大黒」、「耳そぎまんじゅう」、「実録・外道の条件」である。くっすん大黒が小説で、後の二冊はエッセイである。どの作品も、町田氏の卓越したマイペースなリズム感とでも言うべき感性があふれており、読者は安心して読み進むことができる。町田氏は安心して読み進まれたくはないかもしれないが。

 実録・外道の条件は、題名はなんだかちょっと怖いが、アウトロー文学と言うようなものではなく、どちらかというとどうしようもない人間達の行きかう芸能・エンターテイメント業界の摩擦・あつれきをおもしろおかしくリアルに描いたものである。くっすん大黒の2編の小説にしても、行き当たりばったりな半無職者のその日暮らしな生活が舞台。しかもその世界は不思議と生き生きとしていて、なるほど、芥川賞候補になったのも肯けるのである。

 夜になり、雪は溶けてなくなった。明日はまたいつもと変わらぬ日常的な晴れとか雨とか曇りの世界にもどってしまうのだろうか。今年、後何度雪景色を見ることができるのだろう。できれば、あと10日か20日くらい思いっきり雪が降ってくれると気持ちがいいのだが、そうも行くまい。



2004年01月02日(金) 今年初めてのお買い物

 大阪の阪神百貨店に行ってきました。福袋目当てでしたが、私の期待に応えるものはなく、年明け早々ウインドーショッピング。タイガースのコーナーでは去年の優勝までの道程がビデオで放映され、それを眺めて時を過ごす人々が。見慣れぬ顔のパネルがあるなと思ったら岡田新監督でした。今年も盛り上がるのか、それとも・・・。

 JR大阪駅構内のGAREではモンベルまで福袋を出していました。それも中身が見えない福袋。モンベルのアウトドアグッズは、同じバックパックでも自転車用と登山用とランナー用で構造が違うなど、非常に専門的な印象があるので、あのような形の福袋で買うのはどうかと思いましたが、結構安くはしてあると店員さんは言っていました。あいにくですがこちらもパス。モンベルのサイクルヒップバッグはほしいのだけれども。

 リッツカールトン大阪の中にあるカフェでお茶とケーキ。今年はエンゲル係数を落としたいのですが、一度ついた習慣を落とすのはなかなか難しそう。むむむ。

 そんな私の今年の初めての買物は、阪急梅田駅構内の成城石井で購入したLAVAZZAのEspresso用の珈琲豆。ええ、日記の題名そのままですが、なにか(笑)?細かい値段は覚えていないのですが、900円台が600円台になっていたので迷わずに購入。ひさしぶりに自宅でのんびりカプチーノでも飲もうと思います。



2003年12月30日(火) 2004年に向けて

来年はどんな1年にしようか、そんなことを考えたりするけれども、結局のところ「もう少しお金があったほうがいいな」というところに落ち着く。空遊の場合、誰から見ても「もう少しお金あったほうがいいよ」と言われるであろう現状にある。とりあえず、「仕事に行ってる日の割合を多くする」、「手に入れたお金を全て使わない」ことにする。金持ち父さんと貧乏父さんには収入の十分の一は自分のためにとっておきなさいって書かれていた。無論そのとおりにしたところで収入自体が少なすぎてはほとんど意味をなさないかもしれないが、それでもとりあえず少しずつでも貯金していくことにしたのだ。

 もちろん家も移りたいし、遊びたいし、旅行もしたいが、今の生活の不満の一番は「お金が充分でないこと」なのだ。このテーマが2004年、自分にとって大事と感じられるのだ。



2003年12月15日(月) かきこみ

 自分のサイトでいろいろ書いたり、友達の掲示板やMLであれこれ書いたりしていると気が付いたのですが、どうもそれぞれの掲示板によって微妙に書き込みの時の言葉使いとかキャラクターとかスタイルが変わってくるようです。本人はあまり意識していないのですが。自分が管理人をやっている掲示板では決して管理人削除をされることはないし、荒らしにあってもどんどんアクセス禁止を掛けていけばいいし嫌な書き込みはレスさえせずに管理人削除ができるので、一番大胆に無茶苦茶なことを書けるはずなのですが、決してそうはしないようなのです。2ちゃんねるも匿名性が高いから好き勝手書けそうですが、逆に匿名で書いても面白くなかったりして、書き込む時は専ら「話を進めるために書き込む」ことが多いです。

 きわどいことを書くためには、きわどいことを書くために準備、管理された掲示板が一番良いというのが結論のようです。



2003年12月07日(日) 図書館

 奈良県生駒郡平群町には、図書館がない。公民館の中に、図書室と呼ばれるものがあるが、それは図書館とは呼びたくない代物である。

 平群町のお隣の、大阪府八尾市には立派な図書館がある。とりたてて他よりも立派ということはないかもしれないが、一地方都市の図書館としては、結構充実していると思う。市民は本だけではなく漫画、CDやビデオも無料で借りられる。手塚治虫のブッダも全部揃ってるし、宮沢賢治も全集で揃ってるし、吉本隆明の著書もいっぱいあると満足気に私に話す八尾在住の知人。暇な時は一日に3冊読んで、次の日にまた図書館に行ってまた3冊読んだりしたりもするという。

 似たような額の税金を払って、隣町でどうしてこうも差がついてしまうのか。本やCDやビデオを自分で買ったりレンタルするのはお金の限界もあるし、本の場合買ってたまっていくと、スペースの限界がすぐに来てしまう。ということは、図書館があるかないかは市民の読書量にかなり影響するはずだ。ひいては知的レベルや教養にも差がつくことだろう。財政がどうのこうの言って図書館の建設を延々と先延ばしにしている平群町には、一刻も早い町立図書館の建設をお願いしたい。

 ついでに、もし無理だったら、せめて県立図書館を平群町に誘致するとか・・・。もっと無理?



2003年11月29日(土) 冥福って?

 今日テレビを見てたら、外務省に勤める日本人が二人イラクで殺されたそうな。大使館が銃撃を受けた時とか、ラディンがテロの対象に日本を名指しにした時とか
大使館員をイラク国内から撤退させる機会も口実も充分あったと思う。

 もちろん、命令なくしては彼等が日本に簡単には帰られないことも、この状況下でイラクに留まることの危険性も、充分に日本政府は知っていただろう。

 つまり、今回二人が死んだのは、日本国政府の人命軽視の態度による人災であると言っていい。テロリストが殺したのが悪いのは確かだが、この事態が起きることは充分予測できたのに、放置して二人の死という事態を招いたのだ。

 さて、それはともかく。
こんな事件が起きると、決まって日本人の取る態度がある。
社会的立場からそうしなければならない場合、まだ仕方ないのかもしれないが、全然そんなことを言う必要すらない人間が、そんなことを言う必要のない場で、

「(故人とか、被害者とかの)冥福をお祈りいたします」

と言う。私はこの言葉が大嫌いだ。というのも、冗長な挨拶であり、そこには何の信仰も考えも思いやりもないからである。

 こういうことを言った人に、
「では冥福とはなんですか?」と聞いたら大抵の人は
「なんでそんなことを聞くんですか?」とか
「冥福は、冥福じゃないですか?」とか言う。
つまりは言った本人が何を言っているのかわかっていない。

Goo辞書で検索してみた。

>めいふく 0 【▼冥福】

>死後の幸福。みょうふく。
>「―を祈る」

>三省堂提供「大辞林 第二版」より
>凡例はこちら

 つまり、冥福という言葉は人が死んだ後になお幸福になったり不幸になったりする死後の生とでも言うべきものがあって初めて成り立つ言葉と言えよう。例えば、死んだらなんにもないと思ってる人間が「死後の幸福を祈る」のは明らかに矛盾である。だから「冥福を祈る」とか人前で口に出すからには死後の生が存在し、そこにはなおも幸不幸が存在する(存在しなければわざわざ祈る必要はないのだから)というはっきりとしたある種の宗教観、もしくは死生観、あるいは信仰のようなものを持っていなければならない。

 現実には、ほとんどの人が、何の考えもなく「冥福を祈ります」と言う。それは、「いい天気ですね」とか「どちらにおでかけですか」と同様、言葉自体に意味はなく、ただ社会的役割としてそう言うことが求められているから言うという空虚な繰言にすぎない。

 誰も本当に冥福を祈ってなどいないのだ(余程の例外はおいといて)。

 それから、学校や職場などで黙祷や冥福を祈ることを強要するのもやめてもらいたい。例えば公立の学校や役所でも終戦記念日などに黙祷の時間をとって冥福を祈らせたりする。しかしながら、たくさんある宗教の中には一旦死んだら全ての人が救われるとする教えもあれば、死後の生は存在しないとさえするものもある。もちろん一切宗教なんてものは信じたくないという人、霊魂の存在は信じないと言う人もたくさんいる。そういう考えと、黙祷や冥福を祈ることとは折り合わない。彼等がそのような場にいれば、自分の良心、信仰と異なる宗教的儀式を無理やりやらされたと苦痛に感じるであろう。



2003年11月21日(金) 「題名のある日記」は「題名のない音楽会」よりは意外なことだと思う

WEB日記の特徴のひとつは、「題名」だと思うのです。
自分だけが読む日記、つまり昔ながらの日記帳につけるような
日記を書くときに、題名ってつけないような気がします。
僕がつけないだけかもしれませんが。題名の効用ってなんだろうって
考えると、その日記のおおまかな内容がわかるってことですよね。
人に読んでもらうときに題名があったほうがいいってことでしょう。
やっぱり「読まれることを意識して書く」のがWEB日記であり、
その一点において、普通の日記と異なるのでしょう。

 日記というよりも、個人の書く「天声人語」みたいなもの、
新聞の社説欄のようなものかもしれないですね。

 ちなみに僕の場合、自分以外に読んでくれる人がいないと
基本的に物を書く気にならないので、WEB日記は付けてても、
普通の日記は付けていません(笑)。自分が思い出すためなら
書かなくても思い出せばいいと思う性質なので。
でも自分で書いた過去のWEB日記や、MLへの過去の投稿を読み直して
いると、「ああ、あんなことがあったな」とか「またあそこに行こうかな」
とか思えます。これは普通の日記と同じ効用ですね。

 結局のところ、何かを言葉にするのに、聞き手、あるいは読み手に
存在していてほしいのだと思うのです。誰かがいると、あるいは誰かが
いると仮定すると苦もなく言葉がつらつらと出てきます。そして自分が
言ったり書いたりした言葉から自分自身がヒントを得たりもします。
大学の時に、とにかくなんでも書いてみる「ブレインストーミング」という
技術を英語の先生より簡単に教わりましたが、似たようなものかもしれません。

 フランスの実存主義哲学者、サルトルは晩年インスピレーションを得るため
だけに、カフェに女性の話し相手が同席するようにしていたと聞きます。
彼もそのようにして自分の考えをまとめたり、新しい着想を得ていたのでしょう。

 



2003年11月02日(日) 秋の夜

 時に、行動が自然にとまり、
何をするわけでもなく、ただただ、ただただ
心の内側の声に耳を傾けていたりします。

特に、コオロギが鳴かなくなった後の秋の夜には
そういうことがよくあるのです。

何を為すわけでもなく、何かを読んだり聴いたりすることすらなく、
何かのプロセスが内側で起こり続けていくのです。

それが、いったいどこに続いているのか。
わたしには、わからないことです。
それが、どこからやってくるのか。
それもまた、わからないことです。

書き綴られる言葉が、もしもあなたの心にとどくなら。
たとえたった一語でも、あなたの心のどこかに響くなら。

私は天と地の間で安らぐことができるでしょう。


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