ぶらい回顧録

2003年01月02日(木) ウイズイン・ユー・ウイズアウト・ユー

手元に1本のカセットテープがあり、ラベルにはこう記されている。「Within You Without You デモマスター 2001.12.11」


ジョージ・ハリスンについて、嫌なニュースを耳にすることが多くなっていた。暴漢に襲われて肺に達する刺し傷を受けた、喉頭癌の手術を受けて静養中、とか。それは皮肉にも、インタビューに答える様子や「フリー・アズ・ア・バード」「リアル・ラブ」といった「ビートルズの新曲」でのプレーで、変わらぬ元気でイカシた「現在」の姿を見せてくれた「アンソロジープロジェクト」が終わった後のことだった。

ジョージは過去のビートルなんかではなかった。決して活発に動いてはいなかったけれど、僕にとってはいつも進行形の、とてもリアルで魅力的な存在だった。一連のアンソロジー作品で、「いま」のジョージに接してさらに強くそう思った。彼はレコードやビデオの中だけに存在しているのではない、今を生きる、生身の、僕と同じ時代を生きている人間なんだ、と。

ジョージの、名声や華やかな舞台から距離を置いた生き方、マイペースで、プライベートと家族と音楽と自分の信じるものを大事にするその姿勢はとても素敵に思えた。彼は「偶像」ではなく、もはやひとりの人間として僕を魅了していた。それだけに、散発的にはいってくるバッド・ニュースには胸が痛んだ。それでも、そんなシリアスな状況と飄々と自分の道を進むジョージとはうまく結びつかなかった。妙な言い方だけどそんなことはジョージにはとても「不似合い」な気がした。

2001年11月。世の事情に疎い僕にさえ届いてくるニュースは、ジョージの状態がどんどん悪くなっていることを示しているように思えた。彼の容態が良くない、実はもう余命いくばくもないのだ、と。それらのニュースを、僕はやはりリアルには受け止められなかった。受け止めたくなかったと言うべきか。ジョージが癌だって?そんなもの今までそうしてきたように、今度も克服するに決まっている。ジョージが死ぬ?そんな馬鹿なことあるはずがない。

年明けにKFAのライブが決まっていた。タイトなスケジュールのなか、新曲をなにかやりたい。メンバー同士のやりとりの中でごく自然に「ジョージの回復を祈ってなにかやろう」という話になり、いくつか候補曲があがった。あらためて考えてみると、大好きなジョージの曲って本当にたくさんある。そしてKFAの場合は「どうやるか」がとても重要だ。たとえなんとなくでも演奏の「行き先」が見えてなければいけない。「好き」というだけでは決められないのだ。曲を絞りきれないまま時間が過ぎていったが、それでもさほど焦りはしなかった。まだ時間はある。「まだ時間はある」

11月30日金曜日、僕はある地方都市に出張していた。夕刻、その日最後の訪問先で交渉を終え、かねてからの約束通り、これから仕事相手数名と食事でもしながらゆっくり飲もう、ということになった。僕の宿泊するホテルにある店で飲むので、いったんホテルまで戻ってチェックインして、などと考えている時に携帯電話にメールが届いた。見ると知人から。なんだろう、と開いてみると最悪の報せがそこにあった。ジョージが今日、死んだ、と。

強い衝撃があった。頭のなかはなんだかとりとめのないことばかりがぐるぐる回り、まともなことはなにひとつ考えられず、足がガクガクして立っていられない。とにかくホテルに戻る。仕事相手を待たせているので、部屋に荷物だけ置いてすぐに行かねばならない。部屋に入って、それでもテレビをつけてみた。NHKがニュースをやっていて、そこに紛れもないジョージの姿が映っている。「アワ・ワールド」の衛星中継、見慣れた映像、曲は「オール・ユー・ニード・イズ・ラブ」だ。アップになったジョージが"LOVE"と歌い、その顔がストップモーションになった。

テレビを消して、なにも考えられないまま部屋を出た。

それから仕事相手と4〜5時間飲んだ。ジョージの話はいっさいしなかった。ビートルズのことは聞けば知っていそうな相手ではあったが、その話はしたくなかったのだ。ジョージについて迸ってくる感情のすべてをシャットアウトして僕は飲み続けた。ときに笑い声さえあげながら。

部屋に戻ったのはもう日付けが変わる頃だったか。座りこんでいると、むりやり遮断していた感情と、ジョージの記憶がいっせいに、否応なしに頭のなかを駆け巡りはじめた。止まらない。

初めて買ったビートルズのレコード「ライブ・アット・ハリウッドボウル」A面最後の曲「ロール・オーバー・ベートーベン」、その歌とギターがたまらなくかっこよく思えたこと、そのギタープレーを必死にコピーしたこと、日本公演で「恋をするなら」のイントロをつま弾くジョージの真剣な表情、客席に手を振りながら唇の端を上げてぎこちない笑顔、だたっぴろい草原で「アイ・ニード・ユー」を歌う姿、「タックスマン」や「サボイ・トラッフル」のクールなサウンドと声、「ロング・ロング・ロング」でのたまらなく寂しそうな歌声、白いスーツ姿で「マイ・スイート・ロード」のイントロを弾く孤独な佇まい、呟く「ハリ・クリシュナ」、唇の端を上げたぎこちない笑顔、"Something in the way she moves"と歌うときの切な気な顔、「セット・オン・ユー」 「ファブ」で見せたいたずらっぽい顔、カール・パーキンスと一緒に歌うまるで子供のような無邪気で嬉しそうな顔、唇の端を上げたぎこちない笑顔、ソロで日本に来てくれたこと、そのステージで「オール・ゾーズ・イヤーズ・アゴー」を歌い終えなんだか照れくさそうに上げた右手人差し指とひとこと"John Lennon"、"Isn't it a pity, isn't it a shame"と歌い交互に踏むステップ、客席でその音と光に包まれた至福の瞬間、「リアル・ラブ」でギターソロを弾く職人のような姿、ポール、リンゴと並んでウクレレを弾くリラックスした表情、3人並んでコーラスをする本当に楽しそうな顔、抱きつくポールを抱きしめるジョージ、そして唇の端を上げたぎこちない笑顔。


ジョージ!ジョージ!ジョージ!


そして僕は壊れた。KFAのメンバー全員をはじめ、いろいろな人に電話をかけた。深夜で、しかも僕は完全に壊れてしまっていてまともな話になりはしない。ただひたすら号泣している声、情けない哀れな鼻水声を相手に聞かせているだけだ。さぞ迷惑だっただろう。あの時、僕の電話につきあってくれた人にあらためてお詫びします。そしてそんな電話につきあってくれたこと、一緒に泣いてくれたひとさえいたことを感謝します。

その夜は泣きながら眠った。そんなことは本当に久しぶりだった。

一夜明けて土曜日。なにをしていいか分からなかったのでとりあえず、駅で新聞を全紙買う。そしてその日いちにち、まるで気の入らないまま出張を続け仕事をして帰宅した。気分は最低だ。最悪の事態をまったく考えていなかったわけではないけれど、こんなにひどいショックを受けるとは思ってもいなかったのだ。喪失感があり、それは予想よりはるかに深く、なにもする気が起きなかった。

そして日曜日。なんということ。この日は私と友人が参加するバンド「オールモスト・ブルー(現ASH-BLOND RODEO)」のライブが予定されていたのだ。もちろんライブをキャンセルするわけにはいかない。ただ、リハーサルに行ってはみたもののまるで意気は上がらず。友人も同様なのだが、僕も彼もあえてジョージの話はしない。いや、ジョージの話どころか誰に対してもほとんど口を開かない有り様。今から考えるとライブ直前にあるまじき状態で、まったく憤飯モノだが、自分でもどうしようもなかったのだ。

その時、これは今でも本当に感謝しているのだが、バンドのリーダーであるAさんがひとつの提案をしてくれた。今日のライブの幕間で、僕と友人ふたりでジョージ追悼の演奏をしたらどうか、というのだ。我々のひどいさまを見かねたあまり、気を遣ってくれたのだろう。正直、ジョージの死を完全に受け入れられてはいない混乱した状態で追悼演奏をすることについては複雑な気持ちだった。それでもとにかく友人と話をして、そして「やろう」ということになった。

リハの時間はない。ぶっつけ本番でふたりで出来る曲は、と考え演奏する曲をその場で決めた。「ヒア・カムズ・ザ・サン」「恋をするなら」そして「サムシング」だ。開場時間になりお客さんが入ってくる。そのなかにTさんがいた。なんという幸運。ぶっつけ本番の演奏にこれ以上強力な助っ人はいない。我々はTさんに飛び入り参加をお願いし、Tさんは快く了解してくれる。ライブを見にきたお客さんにいきなりぶっつけの演奏をお願いする我々も我々だが、即答で「あ、いいっすよー」と引き受けてくれるTさんもTさんだ。間違いなくTさんもジョージの死になにかを感じていたのだろう。と言うか、その確信があったからこそ我々もTさんに飛び入りをお願いしたわけだが。

ライブの第一部、第二部が終わり、友人がアコギを、僕がエレキを持ってステージにあがる。僕が幕間演奏の主旨を説明した後、友人が「ヒア・カムズ・ザ・サン」のイントロを弾きはじめ、歌う。僕はサポートでギターとコーラス。そう見えたかどうかは別にして、バングラディッシュ・コンサートの再現だ。2曲目に行く前にTさんをステージに呼ぶ。前もって決めたのは友人がジョージ、Tさんがジョン、僕がポールのパートを歌う、ということだけ。音合わせすらしていない。そして演奏した「恋をするなら」はこの幕間演奏一番の出来だった。続いて友人ベース、僕アコギ、Tさんエレキの編成で「サムシング」を演奏。ボーカルは僕がとった。歌いながらやはりバングラディッシュのジョージ、白いスーツ姿のジョージを思い浮かべていた。こうして3曲の演奏を終え、マイクに向かってひとこと呟いた。「ハリ・クリシュナ」

結局、ぶっつけの緊張感が一番良い形であらわれた、そんな演奏になった。沈んだ気分が晴れたわけではなかったが、旅立つジョージになにごとかを捧げることができたんだな、とは思った。ジョージの紡いだ美しいメロディーをなぞり終えたら、なにかが変わっていた。


さあKFAだ。「回復を祈って」の演奏はもう間に合わない。それでもジョージの曲を演奏することにもはやためらいもない。曲は、かねてから何度も候補にあがっていた「ウイズイン・ユー・ウイズアウト・ユー」。僕はデモテープを作りはじめた。


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