カウントシープ
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2005年04月30日(土) 乙女心

人に貸して返ってこないもののヒトツにCDがある。そのうち誰に貸したのかも忘れてしまって、時々CDショップで見かけては「これ持っていたっけ」と思い出すのだ。

そうした返らずのCDがこの間数年ぶりに返ってきた。それは槇原敬之の3rdアルバム/君は僕の宝物。・・・あんまり懐かしくって、思わず相方と2人で聞いた。

ここのところクラシックばかり聞いていて、人間の声の入った音楽はご無沙汰気味だったせいもあって、槇原の語り口調のような歌詞がすらすらと頭に入ってくる。日常のちょっとした気持ちを歌い上げている歌詞は共感しやすくて、おそらくこの歌を書いた彼の年齢に沿った気持ちが込められているのだろう、今のボク達には少し気恥ずかしくなるくらいストレートだ。2人して聞き入っているところで相方が「マッキーって乙女だよね」と言ったが大きく頷いてしまった。

どの歌も好きだったけれど、このアルバムでは「遠く遠く」が一番好きだったな。最近の彼の曲もまた聞いてみたい。


2005年04月29日(金) ガーベラ

ガーベラは可愛い花だ。

色も暖色が多く鮮やかだし、形もこれぞ花!という形をしている。子供の頃に、ちゃんと実物を見ないで描いた花の絵に一番近いような気がする。だけれど、ガーベラは頭が重たい上に茎が柔らかいため、あまり日持ちしない…というのが今までの印象だった。(※それは間違いで、長持ちさせる工夫はいろいろある)

初めてヴァイオリンの先生が我が家に来た日、歓迎の気持ちをこめてオレンジのガーベラを飾った。(オレンジのガーベラの花言葉は“我慢強さと神秘”と後に判明)そのガーベラはなぜかすごく長持ちして、何日も何日もしゃんとしていて嬉しかった。




そうして何日もたったある日、フラワーベースの足元に何かふわふわとした綿が落ちていた。ボクはまた、子犬がヌイグルミを破壊して出てきた綿かと思ったのだが、違った。手に取ったそれはタンポポの綿毛にとても似ていたが、タンポポよりも小ぶりでオレンジ色で、ガーベラの花弁も混在していた。

気がつけば、ガーベラの中央がタンポポの綿毛みたいにモコモコと盛り上がっていたのだ。そんな風になるなんて全然知らなかったけれど、とりあえず回収した種、土に蒔いたら生えてくるのかな。


2005年04月28日(木) 落下物に注意

何時も歩く散歩コースは桜並木が半分を占めている。必然的に桜が咲く季節になれば、散歩=お花見となる。我が家のお花見とは文字通り桜の花を眺めるだけである。
そして4月も末になってくると、短時間に急成長した葉が生い茂り、ほんの少し前にはピンクだった光景は、目に沁みるくらいの新緑に塗り替えられる。日差しは眩しく、風はもう冷たくない。

そんな頃に、落ちてくるのが毛虫で、とうとう昨日2匹発見してしまった。今年もまた毛虫注意の季節がやってきたのだ。極力桜の木を避けて歩いても、どうしても通らなければならないポイントが幾つかあって、その下は走って通ることにしている。(だが経験上、走ったってヒットするときはするものだとも知っている)人間2人、大型犬3匹。総面積は結構広い。

さらに、足元にも注意しなければならない。人間はスニーカーを履いているから、万が一踏んでも気持ち悪いだけだけれど、犬は素足だから、毛虫の毒に刺されてしまうかもしれない。人間の足4本。犬の足12本。本数は多い。

たった3週間前にはのんびりと歩いていた道をこうしてせっせと走り抜けていく。ところでこの毛虫、成虫になったら何になるんだろう?


2005年04月27日(水) MOTHER 2

ボクは特にゲーマーではない。大学生の頃付き合ってたコとだらだら家にいる時とかに手を出してから2年くらいはまったけれど、2年を過ぎて就職したら忙しくってゲームをする時間がなくなってしまった。(子供の頃はゲーム禁止だった)
だからボクのゲームの経験はその2年の間に集約している。その中で一番心に残っているもののひとつのが、MOTHER2 というスーパーファミコンのゲームだ。これが最近ゲームボーイアドバンスで復活したので買ってみた。(GBAは相方の所有物だ)当時から人気だった糸井重里が台詞を書いているんだっけな?「大人も子供もおねーさんも」という木村拓也のCMからして印象的だったけれど、とにかく台詞が面白い。ちょっと外したような会話はセンスあるし、ネーミングも面白いし、ゲーム自体もテンポよくて退屈しない。(でもレアアイテム入手は難易度高いような)

大学生だった当時、地下鉄駅前の商店街で福引をやっていた。何だったか忘れたけれどボクは珍しく結構いい賞を当てた。周囲には10歳前後の子供が数人居て、福引で何が当たったのか見に来たので、みんな子供に上げてしまった。その時子供達がゲームの話をしていて、「マザー2はつまらない!」と言ったのが聞こえたので、どうしてつまらないのか聞いてみたら、「だってカッコいいものが出てこないもの」とかえってきた。カッコいいものの定義がわからないけれど、何となく言わんとするところがわかった。

MOTHER2 の主人公ネスは、何処にでもいる普通の少年で、武器はバット、装備といったら帽子とか腕輪とかペンダントだし、必殺技もファンタジックではない。出てくる敵も、巨大きのことか巨大ねずみとか、あんまり退治しがいのないようなヤツラが多く、敵らしい敵といったら宇宙人くらい(これも微妙だナ)しか出てこない。何となくボクはMOTHER2は大人が好むゲームなのだな、と納得した。(後に子供でもMOTHER好きが居たと判明)

ボクは、マジカント という、主人公の心の中だけにある国に心惹かれた。それから、ムーンサイド という危ない世界が好きだった。どちらもゲームの中の世界なのに、寂しかったり悲しかったり懐かしかったり、不安になったり気色悪くなったり不気味だったりした。手放しで大好き!とはいえないようなアンビバレントなところが魅力だった。

主人公が世界中を旅してあるメロディを回収していくのだが、そのメロディは何年もずっと忘れないから、この先もきっと忘れないと思う。ボクのパーツの一部になるくらいの印象を残したゲームだ。


2005年04月26日(火) 竜の目

最近のチビ(一番若い犬、の意味)のブームは目を舐めること。目といっても、舐められる側は当然目をつぶるので、正確には目蓋をベロベロ舐められることになる。

もちろんそんなことは御免こうむりたいが、奴がそれを仕掛けてくるのは最も無防備なとき、寝ているときなのでどうしても最初の攻撃は回避しがたい。これは対人間だけでなく、対犬にも施行されているが、他の犬も困っているようだ。

どうして目を舐めるのか解らないが、それを見ていたら竜の玉を思い出した。確か東洋の昔話の中で、『昔ある男が、ある生き物(蛇か魚か鳥か?)を助けたところ、夜になって美しい女が現れた。2人は夫婦になり子供を生むが、ある日男は女の正体が竜であることを見てしまい、女は去ってしまう。残された赤ん坊を前に途方に暮れた男が、竜を助けた湖に出向くと、女が現れて、乳房の変わりにこれを舐めさせなさいと、片目を差し出し、子供はそれで満足する…』という話を思い出した。

子供心に、目玉を舐めるというシチュエーションはショッキングだなぁと思ったものだが、目玉という箇所はそれだけ象徴的な部分なのだろう。


2005年04月25日(月) 虹色たまご

ある朝、喫茶店でモーニングをした。

この土地では朝、コーヒーを一杯頼むと「モーニングつけますか?」と尋ねられるのだが、『YES』と答えると大抵半切りトーストとゆで卵1個が付いてくる。ということは情報として知っていたが、相方とモーニングするのは初めてで、パンやらゆで卵やら出てくる事態に相方はビックリしていた。
これが基本的なスタイル(だと思う)だが、店によってはもっと色々付いてくるところもあるらしい。喫茶店は満席で、まだまだ客が入ってきていて、みんな朝から元気におしゃべりしている。かたやボクは仕事の朝帰りで、頭はぼんやり目は空ろ・・・

そんな頭でゆで卵をコツコツと叩いていたら、ふと沸いてきた疑問。何故茶色い卵と白い卵があるのか?餌が違うんじゃないかとかじゃあほうれん草ばかり食べていたら緑の卵を産むのかとかいい加減な意見が飛び交ったが−

答えは、卵を産んだ親鳥の種類が違うからで、白は白色レグホン、茶は茶色い鶏が産んだものらしい。更には、餌を操作することによってよりカラフルな色合いにもできるらしい。レインボー柄の卵も作ることが可能と書いてあるサイトがあったけれど、それじゃあイースターエッグみたいだ。


2005年04月24日(日) L'AZOOL




ボク達は20歳を超えた大人なので堂々とアルコールが飲める。というわけで、最近お気に入りのお酒は、L'AZOOLという名前のリキュールをペリエで割って飲む奴。
ボクはちっともお酒に詳しくないし、犬と一緒に暮らすようになってからは外で飲むこともなくなったので、家で適当にコンビニで買ってきたお酒を飲むくらいなのだけれど、たまにリカーストアに行ってみる。CDのジャケ買いみたいに、アルコールを見た目で買ってくるのだが、このL'AZOOLはそうした中の成功例だ。

見ての通り、色が綺麗なブルーなのだが、グレープフルーツのお酒らしい。どうやったらこんな青い色が出るのか疑問。ブルーハワイとか、お店で飲むカクテルだって結構カラフルだけれど、いったいどうやったらあんな色になるのかな。

この季節、夜に犬達と散歩していると沢山の酔っ払いがふらふらしている。大学生も社会人も、おじさんもリーマンもオンナノコもみんな気持ち良さそうにふらふらしているのをみるのは結構楽しい。


2005年04月23日(土) MINI




唐突だが、ボクはオープンカーが好きだ。

就職して最初に車を買おうと思った時、迷わず決めていたことは空が見える車を買うということだった。みんなにえぇっ?って言われたけれど、実際に乗ってみてオープンカーはボクにとっては大正解だった。とても可愛くて何処に行くにもそいつと行くのは楽しかった。

その車はゴルフカブリオだったのだけれど、もう何年も一緒に過ごしてきて、今でもとても愛着がある。けれど、長距離ドライブをしすぎて走行距離も半端じゃなく、車検も何回も通してきて、もうそろそろお別れしようかな、と思ったのが去年の車検だった。

ボクは、一番乗りたい車は最初から決まっていた。miniのオープンカー、これに乗りたいとずっと思っていたけれど、当時はminiは通常の国内販売ではカブリオを売っていなかったので、次にほしかったゴルフのカブリオを連れて帰ったのだ。

ゴルフのカブリオはもう廃盤になってしまって、今は変わりにビートルのカブリオがラインナップされている。ビートルにはゴルフに近いエンジンが載せてあって(ゴルフのエンジンはとてもとてもよかった!)、なかなかいいデザインなのだけれど、
去年ついに待ち焦がれたminiのオープンカーが日本に上陸したのだ。最初はクラシックなminiのほうが好きだなと思っていたけれど、ディーラーに行って眺めているうちに、new miniも悪くないな、いや、可愛いじゃないかと思うようになってきた。

そんなこんなで、最近頭の片隅に、miniがチラつくこの頃なのだ。


2005年04月22日(金) 所詮

随分忙しい一週間だったけれど、やっと週末!

今週は色々他者の思惑に振り回される週だったが、きちんと落とし前はつけてきたのでそれなりに納得することにした。

人を許すことは難しいけれど、自分を許すことよりは簡単だ。慈善的で優越感に浸れるしね・・・

あーあ すっごくスサンデル!というやけで ヤケ酒だー


2005年04月21日(木) 永遠のヒーロー

ボクは誰もが知っているような有名な映画も知らないことが多々ある。それらの殆どはアメリカ産の映画で、例えば『E.T』や、『BACK TO THE FEUTURE』『スターウォーズ』『キョンシー(の出てくる映画)』『グレムリン』など、あげたらキリがない。

夕方以降のテレビ禁止(親が仕事に行っている間は隠れて見ていた←そしてアニメっコに)レンタル禁止映画館禁止だったのが原因だが、このために相方と思い出を共有できないことが多く、いつもがっかりさせてしまうので悪いなぁと思う。しかし、今の年齢のボクが観ても大して夢中になれなさそうな気がするし、そうして相方の好きなものが、大人のボクにとって面白くないという結果になるのもなんとなく予想されてしまう。

相方だって、子供の頃にみたからスーパーマンはスーパーマンなのだ。


ボクが子供の頃に見た映画は数少ないので、今でもあげられる。

・サウンド・オブ・ミュージック
・ベン・ハー
・ローマの休日
・アルプスの少女ハイジ
・どらえもんの映画ひとつ
・アリオン(アニメ)
・レインマン

その後、大学生になってからは沢山ビデオで色々みたが、子供の頃にきちんと見たのはたったこれだけなのだ。そう思うと人生損をしたような気がするなぁ。


2005年04月20日(水) 嫌いの判断基準(食物編)

猫と犬では猫のほうが味にうるさい、と思う。

猫は(当社比)キャットフードをえり好みするし、嫌いなものははっきりと食べない。鼻先まで持っていっただけでも嫌な顔をするし、それ以上薦めてもどこかに行ってしまうだけだ。

一方犬は(当社比)どの種類のドッグフードを与えても、まず食べないということはない。(正確には1匹性格が猫の犬がいてそいつはえり好みするのだがこいつはイレギュラーとする)大抵の食べ物にはトライするし、食べてしまう。家にいる3頭のうちの1匹は特に何でも食べて、梅干や納豆まで食べてしまう。酒もコーヒーもOKで、およそえり好みというものをしない。人間が林檎を食べているとき、その皮を嬉しそうに食べているような奴だ。

そんな犬が、ひとつだけ食べないものを発見した。
それは バナナ。

猫も犬も酸味のあるものは苦手だというが、この犬はグレープフルーツだってレモンだって食べる。それなのになぜかバナナを与えると、口にくわえてからポトッ・・・と落としてしまう。別の好き嫌いの多いほうの犬は食べているのに、どうしたことだろうか?
この犬が食べないわけないと、相方は何度か試してみたが、結果は同じ。そもそも1度食べて嫌いと思ったなら、咥えなきゃいいのに、律儀に口に入れてからポトリ、なのだ。

猫は食べないものには最初から近寄らないのに、何故犬はいったん口に咥えるのだろうか?ご主人様が食べろというなら・・・という忠誠心からなのか?1度食べた食べ物の匂いは忘れないことから、匂いがわからないということはないだろうし。

性格が猫の犬のほうは忠誠心が薄いのだが、コイツに無理やり食べ物を押し付けると、咥えてどこかに行って見えないところに放置して戻ってくる。やはり、与えられたものはとにかく受け取らなくてはならないと思っているのだろうか?

と、他人の好き嫌いに文句をつけているボク自身も好き嫌いは沢山でバナナもしっかり嫌いに入っている。ボクは、食べ物をまず見た目で判断する傾向がある。見た目でこれは駄目だと思ったらまず手を出さない。それでも数年に1個くらいトライして克服できる食べ物があって、一番最近では銀杏が食べれるようになった。これでもう茶碗蒸しの中を捜索しなくてすむようになった。好き嫌いがないっていいことだなぁ(珍しく)。


2005年04月19日(火) カタカナ

相方はカタカナに弱い。しょっちゅう読み間違えるし、勝手に造語もしている。だからカタカナだらけの登場人物ばかりの小説は苦手で、ついつい敬遠しがちとなる。

でも、相方に限らずカタカナは読み間違える人が多いのではないだろうか?カタカナが読みにくいのは、かなり記号化されていて全体的によく似ているから?そもそもカタカナはどうしてできたんだっけ?と電子辞書の広辞苑で引っ張ると・・・漢字の一部をとって作ったものらしい。もともと漢字を読むためにカナが発明されたのが始まりのようだ。

漢字を崩した音節文字がひらがななら、漢文を読みやすくするための記号がカタカナなのか?もしこの仮説があっているならば、カタカナが記号めいていることにも納得できるし、漢文を読むときのレ点などはカタカナととてもよく似ている。

ボクは仕事上、カタカナしか読まない人に会う機会があるのだが、その人は耳が聞こえないので、全部カタカナで書いて筆談している。「コンニチハ。キョウハアタタカイデスネ。トコロデセンシュウノ…」などと書いていると、何度も漢字やひらがなを交えそうになってしまって、カタカナ一本で書くことの難しさを噛み締めるのだが、彼にとってはボクが書いたカタカナだらけの文章は苦ではないようだ。ボクは自分が書いたものでも、後で読むのに多少苦労するんだけれど。(予断だが、筆談に絵を交えるとより会話がスムーズになる。視覚的情報って偉大だ)

と、カタカナについて軽く考察してきたが、このネタはさっき職場でお茶を淹れようとしたとき、「ココア物語」なる粉末ココアのビンを「コアラ物語」と読んでしまったことから沸いてきたりする。


2005年04月18日(月) 初しゃぶ




今日は息子(といっても犬)の誕生日だった。ちょうど1歳、人間でいうなら・・・何歳だろう?この犬は2,3歳になってやっと成犬になるのだから、今は人間で言うところの7歳くらいかな。

ボクはもともと人間の誕生日だってそれ程気にしないのだけれど、相方はきちんと祝ってあげる人なので、犬といえど誕生日を祝おう!ということで、夜の散歩がてら肉を買いに出かけた。ステーキを買ってあげようと思ったけれど、自分達でも食べないような高いものしか残ってなくて、隣で半額になっていた豚しゃぶの肉を買って帰った。

豚肉をしゃぶしゃぶしていても、犬は寄ってこない。犬は今までに食べたことがないものはもらえないと理解しているので、いくら美味しそうな匂いがしてもやってこないのだ。(逆に一度でも、一口でも貰った経験は忘れない)

初めて食べる豚しゃぶに犬達は真剣にがっついていた。今度から豚しゃぶの時、ガードをしなくてはならない・・・ということに、あげた後で気がついた。


2005年04月17日(日) ヴァイオリン

去年のクリスマスに大きなテレビを買った。でも本当は相方にプレゼントするものは別のものを決めていた。プレゼントする予定だったのは、ヴァイオリンだった。

2年前、今の家に引っ越すときに、何か音楽を始めようかなと相方が言い出したので「ピアノにしたら?」と言った。相方は子供の頃にピアノを習っていたので軽い気持ちで言ったのだが、相方はさっと顔色を変えて「嫌だ」と言った。

そのときまでボクは、ピアノ・レッスンという世界の凄まじさを知らなかった。子供がやりたくなくても嗜みのひとつとしてやらなくてはならない時代だったのか?(ボクも同世代のはずだが)鬼と化した母親が傍に付いてのレッスン。発表会には子供のでき比べ・・・母親同士の水面下の競争がそこには見え隠れするドロドロの世界。

ボクはそれ以来、相方にピアノを弾いてみてとは言わないことにした。そして、ヴァイオリンを買ってあげようと思ったのだ。だがボク達の人生において、今までヴァイオリンに触れる機会など皆無。そもそもボク達にヴァイオリンが弾けるのか・・・?そうこう考えているうちにクリスマスは来てしまい、ヴァイオリンはテレビに化けた。


相方が入院しているとき、ヴァイオリンを買ってあげようと決めた。手術が終わって落ち着いた頃には、ヴァイオリンの動きもリハビリになるだろうし、何かに一生懸命になることは、きっと生きる力を増幅するだろうと思った。音が免疫細胞を増やしてくれるかもしれない。殆ど藁にもすがるような気持ちだった頃、そんなことを考えた。

主治医の先生に相談したら、是非と薦めてくれた。こうしてボク達のヴァイオリンの旅が始まった。


2005年04月16日(土) 賑やかなサルとウサギ

子供の頃、ボクの家(正確には親の職場)は、オモチャ屋の2階にあった。ボクは学校から帰るときにはその職場に帰り、親の仕事が終わるまでそこで過ごして、夜の8時や9時になるとバスに乗って自宅に戻った。

オモチャ屋の入り口にはいつも、2つのヌイグルミが並んでいた。ひとつはピンクのウサギで、口には笛、手には太鼓を持っていた。もうひとつはサルで、口には笛、手にはシンバルのおなじみのやつだ。兵隊帽子に紅いチョッキを着て、どちらも往来の埃に少し汚れながらも毎日せっせと働いていた、すこしセツナイ2匹だった。

子供の頃のボクはこの2匹がなぜか嫌いだった。どちらもそんなに好きじゃないけれど、ウサギのほうが余計に嫌いで、サルはそれよりマシだった。職場が近づいてくると、ボクは小走りになって、なるべく音を聞かないようにして階段を駆け上がる。とくに、笛の音が聞きたくないから、シンバルを叩いている間を見計らって、ドアに飛び込むのだ。

一体ウサギの笛の何が嫌だったのか、わからない。子供の頃に聞かされた、夜に聞く笛の音は悪魔を呼ぶ…が原因かもしれないし、音が嫌いだっただけかもしれない。その頃のボクには、聞いてはいけない音や、見てはいけないものや、嗅いではいけない匂いが沢山あったから、そんなに特別な“嫌”じゃないけれど、もうオモチャ屋もなくなってしまったから、小走りで逃げる必要もなくなった。


2005年04月15日(金) 死期

『もうこの世界にはいない』

そういう対象がボクにはまだ居ない。死してまた再開したい相手がいない。父方母方両方の祖父母は、顔も殆ど思い出せないし、両親は幸いまだ生きている。ボクが選んだ動物達は誰もまだ死んでいないし、家で飼っていた小動物たちが死んだときは、涙を流すほど悲しいと感じなかった。

きっと家族(と感じる相手)が死んだとき泣くんじゃないかな、そう思うし思っていたいのだろう。

もう居ない相手を探して彷徨う心を知っている。死んでしまって何年も何十年も経っても、会えることを期待して生きている。対象が死んだことを受け取ったらもうその心は生きる目的を失ってしまう。それは死ぬ時期なのか。

あるいは次なる目的を探せるなら、それは幸いなことなのだろうか。人が生きている時間が長ければ長いほどいいなんて、誰にも測れないことだけれど、追い求めるものが手に入らないジレンマにほとほと疲れた頃に、人の死期が近づいてくる。そのタイミングを逃してしまったら、そこには狂気が残るだけかもしれない。


2005年04月14日(木) 月の裏側

人間は、嫌なことを見たくないくせに知りたがる。自分の闇の中に気がついてからずっと、見ないふりをしたり、わかったふりをしたり、コントロールしようとしたりしている。

いくらかは見えるし、いくらかはコントロールすることができるだろう、光に照らされれば、闇は面積を減らすだろうから。ただ、光源の背面に新しい影ができるだけだ。

結局絶対に手に入らないものを追い続けているのであって、そういう意味では人生は常に渇望の日々だけれど、追い求めているものが手に入らないと知ってちょっとほっとする気持ちになるのは、手に入れたら終わりだという確信があるからだろう。


2005年04月13日(水) 鍵の開かない日記帳

ボクは子供の頃に一冊だけ日記帳を自分で買ったことがある。その日記帳は鍵がついていて、買ってきたのはいいけれど、ボクはその日記をひらくことができなかった。

困ったボクは両親にそれを診てもらった。鍵は無事開いたけれど、それでその日記帳の存在が親にばれてしまった。

ボクはしょっちゅう失敗ばかりするドジな子供だった。それほど悪意はなかったけれど、“ついうっかり”沢山失敗した。夕方が過ぎて暗くなるころまでに窓を閉める言いつけを忘れたし、遊びに夢中になって決められた時間内に帰ってこれなかった。宿題を忘れたし、勉強も親の望むレベルには上手くできなかった。

そういうとき、その日記帳が活躍した。

「私は悪いコです」

沢山そう書いて許しを請うた。涙でしわができて見るのも嫌になった日記帳は、ベッドの下にしまいこんだけれど、ここぞというときにはいつもそれを持ちだされて書かされた。買った時からずっと鍵が開かないままだったらよかったのに、と思ったけれど、鍵を開けてもらったのも自分で、こんなつもりで日記帳を買ったわけじゃなかったけれど、今思い出すことは、もうそんなに辛くない。


2005年04月12日(火) 白紙日記

心が荒んでくると日記だって暗くなる。日記を書くこと自体、オーディエンスを意識した行為であるし、こうしてネットに流しているということはよりはっきりと読み手を意識して書かれたものだ。

日記を書くことによって得られるもののひとつが、文章に纏め上げることで、頭の中で混沌としていた情報やイメージが1つの意見や考えとして捉えられることだろう。書いているうちに纏まっていくことだって多いし、新しいものに気がつくことだってある。

もうひとつは、他者に自分の存在を知ってもらうこと。関心を寄せてもらい、自分という存在を認めてもらうこと。共感を得て、理解してもらうことだろうか。

少なくとも、ボクにとってはそうだ。
ボクをアピールしたいし、関心を持って欲しい。理解して欲しい、でもでもでも、本当の自分を出してしまうことはやっぱり怖いんだ。

だから、書きたくないことを省くと真っ白になっちゃって、全然自分の心に今ないことを書いてしまう。(日付を飛ばせないのは強迫的だから)


2005年04月11日(月) 紅い果実

たまに仕事が集中する日があって、今日はまさにその日だった。もともと忙しいからお昼を食べれないなぁと思って、お弁当に林檎を一個持っていったけれど、その林檎を齧る時間もないまま勤務時間を過ぎてしまう始末。持ち運んだ分林檎が傷んだだけだった。

ボクは、今日一日が忙しくて大変なことを知っていたから、お気に入りのものに力を分けてもらおうと思って林檎を持っていたのだけれど、知恵の実である林檎は反面では人間の原罪の象徴でもある。

BOSCH(ボス)が描いた「快楽の園」の中では、果実として苺らしき赤い実が描かれているけれど、エデンを追放されるきっかけになった知恵の実は、通例林檎とされている。ボクの感覚では林檎は清潔すぎて、どちらかというと苺のほうにエロスを感じるから、ボスの描いた快楽の園−天国と地獄−に溢れる紅い果実にとてもリアリティを感じてしまう。

「快楽の園」はその謎めいた雰囲気からとても有名な絵だけれど、美しいなかに不気味さが漂い、一見明るい色調さえも禍々しい。同じボスの描いた絵に「愚者の船」という絵がある。ボクは小学生の終わりか中学生になりたての頃にこの絵をみて、以来ずっと忘れられない。


2005年04月10日(日) カーテン

相方の具合は、抗癌剤を投与する周期によって変化する。抗癌剤を入れて1週間は吐き気やらなんやらでぐったりしているが、それを過ぎるとまあまあ元気で、一緒に散歩にいったりもできるし、何だって食べられる。

髪がなくなった顔も見慣れて、ひよこ頭(と呼んでいる)にも愛着が湧いた。疲れやすいのも自己管理できるようになって、適度にお昼寝したりしているようだ。最近はよく鼻水に血が混じるみたいで、そうすると最初に「血の匂いがする」という。それから鼻腔を液体が降りてくるらしいが、こういう症状は癌というより抗癌剤によるものなんだろうな。

どちらかというとメンタル的にはボクのほうが凹んでいるのが続いていて、それでも最近はこの生活に慣れてきて、毎日心に掛かっていたカーテンの重さを感じなくなってきた。今は癌がいることが普通で、癌が見つかる前の生活がもう遠く感じるなんて、不思議だ。


2005年04月09日(土) 種の保存




一週間くらい遅れて桜が満開になった週末、妹が子供を生んだ。ボク達は遺伝子を残すことができないから、この子供はボク達の遺伝子を受け継ぐ子供でもあるな、と思うとそれなりに感慨深く思ったりしながらいじっていた。

人間の赤ちゃんは生まれてきてすぐは本当に頼りなくて、誰だって放っておけないような雰囲気をかもし出していた。少し動いてもビックリ、顔をしかめてもおろおろ、泣き出そうものなら大人みんなで大騒ぎだが、こんな反応をしているのも最初だけで、きっと妹はちゃんと母親になっていくのだろう。

生き物はみんな子孫を残すことを第一に生きているのだと思うけれど、ウィルス(彼らはむしろコピーと変異による増殖だが)から微生物、植物、動物みんなが当たり前のように一生懸命になっていることだから、きっとそれは大切なことなのだろう。レミングが本当に数を減らすために海に集団で身投げするかどうかわからないけれど、その行為だって大きな観点からみれば種の保存のためであり、今人間が子供を作らない選択をするように(同性愛はこの際別として)なってきていることも、もっと大きな観点からみれば未来に繋がる行為のひとつなんだろうか。


2005年04月08日(金) 名を知らない




ボクの家に生えている植物は、ボクがコーディネートしたものではない。だから、ボク自身も何が生えているのか良く解らない。(この花の名前もわからない)

よく解らないまま水をやり、気がつくと花が咲く。それでもこの家に住んでもうすぐ2年になるので植物の模様替えも2周目。去年も咲いた花が今年も咲いて、そうすると同じ花が街のあちこちに咲いていることにも気がつく。植物にたいして関心がなかったボクにとって、今まで単なる町並みだった光景に、花という記号が浮き出て見えてくるのだ。

認識することで同じ光景が変化していくことは面白い。例えば、今まで只の車だったのが、名前や形を覚えたらもう沢山の車からきちんと区別されて見えるし、星だって星座の形を結び上げる。

逆に言えば、記号に隠れて落ちている情報だって沢山あるってことだけれどね。


2005年04月07日(木) 溢るる時

他人に侵食されることが怖いと思うときがある。でも、それより怖いのは、ボクがボクから溢れて他人を侵食することだ。

ボクの中にあるドロドロしたものをボクは予め見せ付けて壁を作っていて、でもそれは十分に制御可能な、言語化できてしまうくらいのモノなので、実際にボクから溢れることは(おそらく)ない。

自分の中にある言葉では顕すことのできない、喩えるなら夢の中でみるような不明確なヴィジョンで、それはバラバラにカッティングされたボクのパーツで、ちっともスマートじゃなくて、嫌らしくてセクシャルで生々しい。抑圧されているもろもろのものがみんな一緒くたになって夢という現実が夜毎に突きつけられる。

だから、夢が怖い。
生々しい夢は、匂いまでしそうで気持ち悪い。

生々しい匂いをさせる人間を前にしてボクは立ちすくんでしまうけれど、それは、多分相手に侵食されることが怖いんじゃなくて、相手を鏡にしてボクからも溢れてしまうことが怖くて気持ち悪くておぞましくて、そうして自分のなかの汚いものから逃げてばかりいたら、どんどん夢が気持ち悪いものになってしまうから、

そんな夢がやってきたなら、もう引き出しを開ける時間がきたのかもしれない。


2005年04月06日(水) ヒッチコック




ある日、外出から帰ってきたら、今朝まで居なかった鳥の大群が、家の前の電線に群がっていた。この近所には常に鳥の大群がたむろっていて、少し筒移動しているのだが、今度はボクの家の前に移ってきたようだ。

鳥は好きだがここに大量に移住されては困る、とボク達は思った。ふとボクの家の屋根を見ると、3羽の鳥が瓦の隙間に入り込もうとしている。とりあえずその3羽には撤退してもらいたいナと考えていたら、相方が「何とかしてみるよ」と言った。
とりあえず家の中に入って荷物を置くこと3分、相方が戻ってきて「みんな居なくなっちゃった」と言った。ホースで3羽に水を向けたら飛んでいった、と言った。どれどれ、と思って外に出たら、3羽どころか全部居なくなっていた。




空が真っ黒になるくらい沢山いたのが、みんないっぺんに飛び立って、それからもう半年経ったけれど、2度と戻ってこない。

3羽に煽動されたのか、相方の気迫が伝わったのか?断っておくが、相方は鳥が好きなんだけれどな。


2005年04月05日(火) ダニーの指

誰だって自分のことを知って欲しいし、一方では暴かれたくない。人には他者との距離というものがあって、完全に融合することなどできないし、そうなった世界は恐ろしい境界線のない世界だろう。

ボクはとってもナルシストなのだと思うけれど、随分前から双子妄想みたいなのがあって、最近はそれは薄れてきて、それはボクの対象をボク以外にちゃんと見つけているからだと思う。

『この世界にもう1人のボクがいて、そいつはボクと同じものでできているからボクを全部理解していて、ボクはボクが持っているどんな部分をも隠すこともなく振舞うことができる。ボクを許してくれる存在』

例えば子供が、鏡の中に映った自分と話したり、映画『シャイニング』の中でダニー少年が自分の指に名前をつけて話してみたりしているが、子供達の心には時に、こういうもう1人の自分という対象が生まれるケースがある。

大人になったボクの場合は、これがもうナルシストの極みでどうよ?って思うんだけれど、一体誰がボクを許してくれないというのかっていうと、誰もそうは思っていなくて、自分が自分を許していないだけ、それだけボクは自分はもっとすごい奴だって理想だけ高くて、それに見合わない自分にたいしてメソメソいじけてるだけなのだ。

まあ、この双子妄想はあくまでファンタジーだけれど(最近のクローン技術が進化するとそれも怪しいが)、それが現実的なものとなりえるファンタジーがある。それは多分、子供を産むという行為で、この場合もやっぱり、自分と同じものは産まれてこないのだけれど、親は子供のことを解りたいと思うし、一体感を夢見ることだってあるように思う。程度の問題によっては深刻な心の侵食となりえる危険を孕んでいるけれど、最も甘美な空想のひとつは、子宮の中が楽園だってことじゃないかな。


2005年04月04日(月) 曲名

特に意識したことがなかったのだが、持っているクラシックの中で好きな曲をリストUPしてみたら、ボクはチャイコフスキーが好きらしく、一番沢山あがっていた。ピアノ協奏曲第一番変ロ短調作品23が最近のマイブーム。

クラシックのタイトルってどうも曲とあんまり結びつかない。たまにはなるほど、と思う曲もあるけれど、何も知らないで曲とタイトルを結べとか問題出されてもヒットしなさそうだ。

でも、歌詞がない音楽は、考えてみたらみんなそうかもしれない。サントラとかだって、あの場面だなとか思い浮かべて聞いていたりするし。
そういえば、子供の頃に「お話レコード」という、絵本と語りがワンセットになったものがあって、話は沢山あったのだけれど、そのサントラにクラシックが使われていた。例えば「7匹のコヤギ」は「陽気な鍛冶屋」が流れていたので、ボクにとっては「陽気な鍛冶屋=白ヤギ・時計・狼」の曲だったりする。
きっと、作曲した人には何かイメージや情景が浮かんでいて、それに心を飛ばしながら作ったから、その人の中では曲が溢れる世界を作っていくのだろうな。



ここ最近、日記を書くとき、いつも本当は『ボクは悲しい』って書いて、それを消してから別の話題を書いている。僕は何が悲しいのか判らない。


2005年04月03日(日) 白い花

今日は地元の桜祭り。だが、桜は見事に咲いていない。正確には高い木の枝に3つ4つ花が付いているが、とても携帯の写真で撮れる距離ではないので、替わりにしつこく木蓮を。




こちらはすでに満開で、真っ白が一面に咲いてとても綺麗。映画『マグノリア』のDVDジャケットと同じショットでもう一枚。これは街路樹なのだが、傍にある石のオブジェによじ登って撮影した。撮影中に誰かに怒られないかドキドキ…そして落ちないかドキドキした。




白い花が好きだ。今、我が家の庭の植え替えをしようと計画しているのだけれど、植える花も皆白い花を選んでしまう。次に選ぶは青い花。青い花、青い鳥、青いバスタオル、青いカーテン・・・青は好きだけれど、何処か寂しい。


2005年04月02日(土) 小林防火服

制服っぽい服が好きだ。というと、なにやら怪しい雰囲気があるが、今日購入してきたのは、制服は制服でも、消防士の制服。というわけで『RESCUE SQUAD』で服を買ってきた。ここの服はカッコいい!・・・難は、ここの服はデカイということだが。




買ってきたRESCUE SQUADのTシャツには『小林防火服』とプリントされている。小林防火服・・・って何だ?ということで、検索開始即行見つかったそれは、ほんまものの消防服専門店だった。いずれにせよ、これでこのTシャツを着ていて、『小林とはなんぞ?』と尋ねられても明確な回答ができるので調べてよかった。

お前しょーぼーしでもねーじゃん、と言われたらそれまでなのですが。


2005年04月01日(金) トラの絨毯もどき




我が家には大きな犬が3頭もいる。どのくらい大きいかというと、座ったボクがすっぽり隠れてしまうくらいの大きさで、それはもう大層な存在感をかもし出している。

ボク達が寝るときは、犬達も一緒にベッドルームで寝る。ベッドルームには人間のベッドの他に、巨大な座布団様のドッグベッドが2つあって、それを奪い合いながら犬達は寝ている。大体3頭が重なり合うようになって寝ているのだが、これがまた夜中にもなればすっかり手足を伸ばしきって、まるで何処かのワンシーンで見るようなトラの皮の絨毯のように広がっている。それが二枚半(一匹はレトリバーなのでそれなりの大きさ)にもなると、ベッドサイドには足の踏み場がない。

踏まないように足先で床を探りながら歩くのは一苦労で、結局夜中に、悲しそうな犬の悲鳴が聞こえてくるのだ。


ロビン