いつか…

 私は、いつかが来る事は分かっている。何故、希望にすがるかって?そこに、絶望、失望、死が待っているからだ。人はいつか、死ぬ。だが、死を見せてくれと言ったところで、私が見るのは『死』ではなく、動かなくなった肉体、活動しなくなった精神を見るだけだ。本当の死は、まだ見つからない。そういう意味では、私はもう死んでいるのかもしれない、生きているのかもしれない。本当の所は、何も分かっていないんだ。何が現実なのかは、分からない。分からないほうがいいのかもしれない。現実逃避。
 現実って何?
 いつか分かるだろう…
diary
2004年09月30日(木)

泣きたい夜に…

 久しぶりにどん底に叩き落されました。何か原因があるのではないのか?原因は『順調に進んでいる人』と『躓いてばかりいる人』との人生の歩み方のことで気分が落ち込みました。自分は変わっている、変化していると思っていると思い込んでいるだけであると確信し落ち込みました。自分のペースでと言うけれど自分のペースで生きていられる人はいるのでしょうか?たまたま流れが自分のペースだったりペースを合わせられるだけではないのではないかと思うのですが…。
 誰からも必要とされない事が辛いです。他人の気持ちなんて分からないと書きましたが、あれは嘘。ただの強がりです。自分の弱さを隠していただけに過ぎなかっただけです。本当は必要とされたい。こんな自分でも少しでも愛してくれる人が欲しい。渇望、欲望、願い。たった一人でもいい、私を必要として欲しいです。
 最後に電話をかけてしまった人へ。心配をかけました。すみません。
diary
2004年09月24日(金)

所詮は戯言…

 前に『人の気持ちを理解する事は不可能』と書いた続き。
 現実的に当てはめて見てみると、現実は戯言のように甘くは無く、自分でも自覚している事ですが、分からないと分かっていても相手を知ろうと、自分を分かってもらおうと努力するのが人というものではないのではと思います。ここで書くことは、現実の考え方を『理想化』し『具象化』したものでありそれがそのまま現実につながる事は、まずありえないであろうという陳腐な考え方です。現実は理想と違って甘くは無いものです。
 現実がどうあれ『思い込みの力』があれば理想は現実のものになるのではないかと…。
 でも、初めから分からないと決め付けてしまえば楽である事もあります。今はそう思います。決め付けてしまえばそれ以上にもならないですしそれ以下にもならない。決め付ける事によって現実を受け止めているようで、現実を拒否しているものです。私もその一人です。何も分からないと決め付けてしまえば、分からなかったで自分に言い訳が出来る。そう逃げているだけだ。
diary
2004年09月20日(月)

目に見えるもの…

 目に見えるものだけに囚われ続けてはいけないという話。
 目に見えるものだけが真実ではなく、目に見えない力が往々にして人間を突き動かしているような気がする。
 その代表例として『考え』というものがあるに違いない。考え自体は目に見えないが、『考え方から発生する行動』という形で目に見える気がする。人は目には見えないもの、『心』で動いている(ここで言う心は考え方の事です)。考え自体は、目には見えないけれど、物を持つ、歩く、といった行動は自分がいいと思って起こす行動、欲求(というと大きな事になりそうですがあえて欲求です)が元であると考えられる。どこかに行きたいから歩く、何かをつかみたいから手を動かすなどなど。
 感情は共通言語として『目には見えないものを理解する』という点で見えているような気がするけれども、実際問題としてその人がその様に考えていると考えられる傾向があるだけで、必ずしも正解ではなく微妙な(本当に些細な事かもしれないけれど)違いはあるはずだと考えれると考えているだけで私の考えも私自身、目に見えているわけではないので本当の事かどうかは分かりません。目に見えないものも時には信じられるというか往々にしてそういうものであるということは考えとして考えられます。
 あとがき:なんだか謎かけの様になっているのは気のせいでしょうか…。
diary
2004年09月18日(土)

四則計算…

 足算、引算、掛算、割算と色々ありますが、その全てを人間関係に応用してみようという話。これが全てではない話。
 先日、某人よりきたりし電話より、考えた事。『人間関係は四則計算』と思う。前回、非常に『切れた(どの変が切れているかは想像にお任せします)』話題を書きましたが、ほぼのその続きのうようで続きではない話です。
 人間関係は、カケヒキであり、誰かが得をすれば誰かが損をするということです。ようは『得か損か』ということです。人は、往々にして損をするより得をすることがすきであると思う。賭けたら賭けたぶんだけ返って来るほうがいいと思うのが人と言うものであるのではないかと思う。カケヒキだけで全てがおさまれば簡単な事だと思うけれども、そうはいかな人の世。全てが『割り切れる』世界で無いことは確かです。時には、『割り切れる』事もあるでしょうが、『割り切れない』のが世界というものです。
 全てが、四則計算の単純なものに当てはまれば悩む事も、心という事も、何も感じないで済むのかも知れません…。
diary
2004年09月15日(水)

人の気持ちを…

 目に見えないということ、元から分からないこと、それは錯覚だったと言うこと、ただ『分かった気がする』だけの事なんだったと思う。自分の事だって、正確に100パーセントわかってる『気がする』だけの事。そう全ては、幻想、想像の世界の事だったということが…。
 『何も分かってあげられなかった』と考えるのは正確、そして筋違い。そう、誰も、自分の心の中でさえ正確にどのぐらいの大きさがあってどのぐらいの広さがあるかなんて分からない。その上に他人の気持ちを分かってあげる事は不可能。ただ『分かった気』がして、自分はよくやったと言い訳をしているだけに過ぎない。そう『理由』は存在すればいい。あとはただの『言い訳』に過ぎない。
 こうやって、書いている事も、全ては幻想。『そう思っている』だけで、ただそう感じている自分がそこにいる、心がそこにある。それは違う。聞いた事があるだけで見たことも説明も無いものを貴方は正確に想像できるでしょうか?ましては意識=心だと思いこんでいるだけ形の無いものと『思っているだけで』もしかしたら世界のどこかには(これこそ想像だけれども)心というものが形のある形で保管されているかもしれない。
 そう、ただ、分かった気がしていただけなんだ…。
 
 
diary
2004年09月06日(月)

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