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2004年01月31日(土)  白い病室
こんにちは、と彼はうざったらしい笑顔を私に向けた。
そのとき、私は周りのみんなに怒っていた。本当は私が悪いのに、それを周りの人に擦り付けて悪者にしようとしていた。私がどうにかしたらすべて解決できそうな問題ばかりが、ここ数日の私を悩ませ続ける。
想像していた通り、白い壁に白いドア、白いカーテンに白い椅子。背もたれに私はたっぷりともたれて、口を閉じていることさえも億劫だった。そして目の前にいる彼でさえ私の想像通りで、白衣は着ておらず、医師には見えないただの服を着て右手は机の上のカルテに添えられている。
すべてにうんざりする。

泣きっぱなしの私の顔は、目も腫れているだろう。鏡を見たくない。だれの顔かと自分でも一瞬戸惑うかもしれない。目の前の彼は、聴診器もあてない、注射器も取り出さない。ただただ、どうでもいい話しをする。他愛もない話し。その会話の端々に医師は私の心の中をのぞこうとしている。そうかんたんにのぞかせるものか。

医師とは、数年前に初めて出会った。その嘘っぽい笑顔が私の神経を逆撫でる。
ここから逃げ出すタイミングを私は計っている。その話しが終わったら私は椅子から立ち上がろう。医師がカルテに書き込み始めたら私はドアを開けて走ろう。けれど、私の背後には男の気配がする。兄が私の背中を見つめている。兄は私の背中を見つめる。私は兄の視線を感じる。息苦しい。

別室に通され、腕に注射を刺され、血液を抜き取られて、その刺したあとを抑えているようにと言われる。私は押さえている振りをしておさえなかった。小さく赤い点がみるみる広がる。何かを侵食するように少しずつだが確実に広がり続ける。腕を伸ばすとぽとりと赤い玉は転がり落ち、私の太ももに着地した。周りにいた人間が騒ぐ。

1時間後に私たちはタクシーを拾った。

うちに帰ってベッドで目を閉じる。眠りを欲しているのに眠ることは出来ない。なにか大きな壁を私だけ越えられないような、取り残された気分になる。みんなは、その壁に吸い込まれるように苦労もなく眠れているのに、私だけ何度チャレンジしてもその壁にはじかれる。自分が大きな壁によじ登る姿を想像した。
想像の中でも、私は他の皆に遅れをとって、みんなが上から私を見下ろして笑っているような気がした。

壁は私に倒れ掛かってきたのか、私は壁を越えることが出来たのか。浅い眠りについたのを頭の片隅で感じることが出来た。

突然、規則的に雷のような轟音が聞こえてくる。遠くから微かに、けれどすぐ近くで。
フローリングの床の上で携帯が振動している。私はまだ夢の中にいるような気がしたまま電話をとる。

楽しそうに弾ける彼の声。私は、まだ夢の中で、だから、私はまだ彼の恋人だったころの夢を見たままで、そんな気がして彼の声に耳を澄ませる。誤った方向の電車に乗ったためにどうやって帰ればいいかわからなくなったと、彼は早口に興奮して、そう言っている。どこの駅にいるの?私の頭は重い。まだ目が開かない。私はいま落ち着いているけれど、なぜか私の態度はよそよそしく、彼の声を待つ。私は、彼に、彼のうちまで帰れる路線を説明した。電話を切って、ようやく目が覚めた。

兄の名を呼ぶと、開いたままのドアの向こうで兄はマグカップを持って立っていた。目が合って、私は眠っていたかどうか、たずねた。兄は頭を縦に振る。どれくらいの時間を眠っていたかとたずねると、1時間くらいと答えた。いま、別れた恋人から電話があったのと私が言うと、兄は笑ってまだ寝ぼけているだろうと言った。

いなくなった恋人は、今朝私の部屋を訪れて、私は泣き通しだった。私は感情の思うままにしか話すことが出来なかった。とても錯乱した。話し合いにもならないよと彼は出て行った。彼は、ただキミの気持ちを僕にぶつけたかっただけでしょうと私の目を見つめて言った。私は彼が出て行った部屋で座り込んでいたけれど、やはりドアを開いて彼を呼びとめようとした。私がドアを開くのと彼の乗ったエレベーターのドアが閉じたのが同時だった。その後、私は眠り、彼は私に電話をした。外はもうすでに真っ暗になっていて、兄が食事の用意をした。悲しくないのかとたずねたら、悲しいわけないじゃないかと言った。

別れた恋人は、別の女性と手を繋いで別の女性とキスをする。そして私に電話をする。もしかしたら、彼女に電話をしたけれどつながらなかったので、仕方なく私に電話してきたのかもしれない。知らない駅で。どの電車に乗れば帰れるのか心細い気持ちで。そうやって、私は自分が傷つかないような言い訳を考えておく。身が引き裂かれるくらいの嫉妬も被害妄想的な惨めさもあるけれど、それ以上に思うのは自分が自分で嫌になること。そうやって身を守るための言い訳をいくつ自分に言い聞かせてきただろう。自分にウンザリする瞬間は、こういうところなのだろうと思う。

胸が痛い。
2004年01月30日(金)  思考を変えてみよう
思考を変えてみよう。
いや、無理。

楽しいことを思い浮かべてみよう。
無理。

笑ってみよう。
嫌だから。

散歩をしに行こう。
嫌だってば。

気持ちを整理してみよう。
面倒。

自分のことを振り返ってみよう。
面倒くさい。

少し先のことを考えてみよう。
頭が痛い。

明日の予定をたててみよう。
お腹痛い。

買い物をしに行こう。
しんどい。

映画を見に行こう。
だるい。

デートをしよう。
怒る。

人を見つめてみよう。
泣く。

信頼してみよう。
叫ぶ。

信じてみよう。
狂う。



立ち直ってみよう。
振り切ってみよう。
忘れてみよう。
許してみよう。


そんな気持ちは微塵もないの。
2004年01月29日(木)  死亡
明日で1月の仕事が終わる。ああ、忙しかった。ああ、けどやっと終わった。やるべきことは明日の仕事ですべて終わるだろう。長かったような短かったような。けれど、充実した仕事が出来た月だったといえるだろう。
今月は、営業間でのクライアント移動が多く、毎日毎日日々の業務にくわえ、引継ぎの挨拶に出かけ引き継いだクライアントから、順次契約を進めていく。だから、接点があるクライアントは、“引き継ぐクライアント”“引き継がれるクライアント”と、その数は単純に倍になる。今日だって、朝は8時半から夕方は18時のアポが最後に、22時まで事務処理やミーティングを行っていた。オーバーワーク?月間で、ある一定の残業時間を越えると、休暇をとらなければいけなくなる。早めにタイムシートを押してまた黙々と仕事を続ける。

上司に呼ばれた。ああ、忙しいのに。あの人とあの人とあの人に電話をして、あの書類をつくってメールの返信は23通も残っている。同僚とのミーティングもまだなのに、時計は21時を回ろうとしている。上司の話しは、また長いんだろうな。もしかしたら本社に入ったクレームのフィードバックかもしれない。引継ぎの時期はトラブルが多くなるから。
上司が座っている場所から90度に位置する場所に私は重く腰掛ける。足は伸ばしっぱなしで浅く腰掛け背中をもたせかける。へたれている格好で上司の顔を見る。
「A社の件なんだけど」
ああ、A社。私が他の営業から引き継ぐ予定のクライアントだったけれど、大きなトラブルが起きている最中で、いまは上司が対応しているため引き継ぐ営業マンは、そのクライアントの状況を知らないという。なので、トラブルがある程度落ち着いてから、上司から私へ引き継いでくれるということになっていた。上司対応のクライアントだ。
「今日、派遣スタッフをチェンジしたから。契約も2月から新しく始まるんで、その後任のスタッフが就業開始したら、あなたに引き継ぐからね。よろしく。」
結局、そのトラブルの渦中にいた派遣スタッフは、契約を満了せず終了したようだ。その後任のスタッフが2月に入れ替わるのでそこで引き継ぐのがベストのタイミングだろう。
「わかりました。」
上司は、大きな溜息をついて、こう付け加えた。
「それから、前任の終了したスタッフなんだけど…」
上司は、その先の言葉を躊躇っているようにうかがえる。
「そのスタッフ、なくなったの。だからチェンジになったのよ。トラブルが原因で終了したんではなく、なくなったから終了したの。それを把握しといて。」
なくなった?何がなくなったんですか?
何をなくしたら、契約が終了するんだろう。私は疲れていた頭で考えた。なくなった?
「そう、なくなったの。」
え? 私は大きく目を見開いていただろう。
「亡くなったの」

何かが失くなったのではなく、スタッフは、その彼女は亡くなったんだと、上司は言ったんだ。ゆっくりと理解していく。
「亡くなったって、死んだってことですか? どうして?!」
上司は、あなたも忙しそうだったし、一件がとりあえず落着してから話そうと思ったんだけど、今日、上の上司にすべてを報告して了承してもらえたから、今日から社内的にもその情報(彼女が亡くなったこと)をオープンにすると言う。
「他殺か、自殺か、わからないんだって。家族も何も教えてくれないし、警察もね。何度か足を運んだんだけどわからなかった」

ジサツ?
タサツ?

自宅で亡くなっていたという。今週の日曜日。同棲していた男性が発見したという。いま、警察の取調べが行われているという。

タサツ?
他殺の可能性もあるんですか?!
「誰も口をひらかないから、よくわかんないよ。」
死んだんだ。ひとがひとり死んだ。自宅で冷たくなって死んだ。
死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。
その言葉ばかりがぐるぐる回った。

彼女の雇用元であるうちの会社としては、その情報を知っていたい。その原因を把握していたい。何が起きたのか知っておく必要はある。何万人の人間が派遣スタッフとして登録しているうちの会社は、それぞれの人間のすべての状況を把握していくことは、なかなか難しいけれど、こんなことが起こったならそれは雇用者として把握しておく必要がある。上司は警察でそう言ったという。上司の顔は明らかに疲れ顔だ。
まぁ、あなたは気にしなくていいから。後任のスタッフだけに専念して。あとはこっちでやっとくからさ。それから、後任のスタッフには「前任のスタッフは事故で亡くなった」ということにしてるから。口裏合わせてね。もちろん、派遣先には報告してあるし、求められたらうちが知りえている情報は伝えなきゃいけなくなると思う。それも私たちでやるから。状況だけ把握しといて。
上司は、淡々と私にそれらの指示をした。

殺されたかもしれない。自分で絶ったかもしれない。
私は、彼女に会ったことも話したこともないけれど、それはもし何かのタイミングがずれていたらあっていたかもしれない。話しをしていたかもしれない。
殺された無念はどうだっただろうと。死のうと思うほどの追い詰められた気持ちはどれほどだったろうと。いや、わからないんだけど。私には彼女の死んだ理由なんかわからないんだけど。だって、会ったこともなければ僅かの接点も持てなかったんだから。

席に戻って、いくつかのIDとパスワードを使って、派遣スタッフの個人情報を見た。39歳。独身。その言葉が目に飛び込んで来た。そして、赤い文字でこう記されている。
死亡確認。
就業不可期間には、平成16年1月25日からエンドの日付は入力がない。入力がないということは、永遠に就業が不可能だということだ。永遠に働かない。

死亡。独身。エンドレスの就業不可。死亡。39歳。同棲していた男性が確認。詳細確認中。○○警察署。家族に確認中。死亡。死亡確認。

真っ赤な字でそう記されていた。

彼女は、一体どんな気持ちで死んでいったんだろう。
やけに、死が身近に感じられて、なんだ、死ぬことなんて簡単じゃないかと思った。
人は、一体どういう死に方が幸せなんだろう。自分で手首を切ることか、電車に飛び込むことか、ビルから飛び降りることか。それとも誰かに刺されることか。わからない。けれど私はふと思う。誰かに殺されることが、一番いいような気がする。私は、自分で自分を殺す勇気はない。そうしようと思えば思うほど、死にたい気分が萎えてくるような気がする。それならいっそ、暗い夜道で後ろからぶっすりと刺されたほうがいいような気がする。相手の顔も見ることも出来ずに。私にはたぶんきっと敵が多いだろう。味方の人間は、いまではもういないと思っている。だから、自分の死に方の希望は、案外に叶うかもしれないな、と帰りのホームでふと思う。
気が重い。私は敏感性が高い。
ライトを照らして電車がホームに滑り込む。
体を放り出せばよかったかもしれない。電車の前に。
なんだ、そんなこと簡単じゃないか。そう思う。
電車の前に体を倒れこませるなんて、いとも簡単に出来る気がした。

今晩も寒い。
2004年01月28日(水)  断れない
三晩連続、電話がかかってきた。
いや、まずいだろうと思う。これ以上は、とにかくまずい。
嫌なんだ、私は嫌なの。家に帰ってきてひとりでいたいのに、それを邪魔されるのが嫌なの。

電話が鳴って画面を見ると、やっぱりと思うと同時にうんざりする。
昨晩電話で話したのに、どうして。もう今日はいいのに、と思う。胃が痛くなる。嫌悪感が生じる。けれど、なぜかなぜか断れない。

いやいやいや、もう電話しないでとかいうのがストレートすぎるなら、今日は疲れてるからとか眠いからとか、もう少しわかりやすいように言うと、いまは人と話したい気分じゃないからとか、あんまり男の人と話したくないからとか、そうやって言えばいいじゃないか。どうして、何も伝えられないの。

相手は、気づいていない。
私が話したくないことを少しも気づいていない。
無口なんだね、って沈黙が多いのをそうやって言う彼がもう嫌だ。嫌嫌嫌。すごく嫌。馬鹿じゃないの。

いや、もういや。自分自身にも嫌悪感がわいてくる。
私はどうしちゃったの。
以前なら、はっきりものを言えたのに。相手が傷つこうが構わず本心を伝えたのに。
どうして、正直に言えなくなっちゃったの。どうして、断れないの。どうして、はっきり嫌だと言えないの。私、どうしちゃったの。自分に戸惑う。

私は、怖いのかもしれない。
自分に正直にならないほうが、いろいろと考えると自分の本心を避けたほうがいいのかもしれないと思っているのか。流されるままでいたほうがいいのかもしれない、と思っているのか。

こんな小さなことでも、自分がだんだん以前と変わってきてるんじゃないかと思う。
それで怖くなる。人はどこまで変わるのか怖くなる。私は私でなくなるかもしれない。嫌なものも嫌と言えず価値観や感覚が変わっていくのかもしれない。怖い。
2004年01月27日(火)  30歳の私
中学生や高校生の頃、20歳という年齢は私にとって、とても精神的な落ち着きのある独立した立派なおとなだと思っていたけれど、成人式を迎えた当日の、私の姿に唖然とした記憶がある。唖然としたと同時に、こんなものかなという諦めも多少はあったかもしれない。
20歳の私は、想像上の20歳とはかけ離れていたけれど、時間に身を任せ続けていると、次は21歳になり、そして22歳になるり、年齢を重ねていくごとに、あのころ見た20歳の人間は、外見だけの成長は著しかったが、中身は15歳や18歳の人間とも変わらず、今の私と同じで紆余曲折しながら一歩を踏み歩いていたんだと身をもって知った。

人間は、劇的には変わらない。

20歳をリアルに体験したあとは、30歳。
もうじき25歳を迎える私は、さて、30までにあと残すところ5年。
長いようだけれど短いかもしれない。その長さは今後の自分次第だろう。

けれど、30歳の自分像が思い浮かばない。
周りには、たくさんの30代の人間がいる。友達、仕事仲間、仕事相手。どの人を見ても、実はいまの自分とどこも変わらないように思える。私と彼らに5歳という年齢差を感じさせないのは、彼らが若いのか私がオトナなのか、それとも私の目が表面的なものしか見ていないのか。それはわからない。けれど、30というゲートを感じることが出来ないなら、私は30になろうとも、31や32になろうとも、何の実感もなく生きていくのかもしれない。

若しくは、こう思う。
30歳以降の私を見出せないなら、私はきっと30歳で終わるんだろうなって。

おかしな発想ではないつもりだ。真剣にそう思うこともある。
30年生きればいいほうではないだろうか。決してこれまでの毎日に満足しているわけではないけれど、何の実感も持てず30になるくらいだったら、そこで終わってしまったほうがまだ幸せだなと思うだけだ。
30代の友達は、そんな私を笑う。30になってみればわかるって、20代と30代の壁は厚い。嫌でも30になったことを思い知る。今はまだ5年後の自分を想像できないだけで、28や29になればそのうち考えることも出来るよ、って。そうだろうか、本当にそうだろうか。私はのほほんと生きていないだろうか、ちゃんとその瞬間を跨ぐことが出来るだろうか。

彼らに越えられて、私は30の壁を越えられないかもしれない。
漠然とながら、そう思う。
2004年01月26日(月)  朝焼け
眠りは浅いほうだ。
深くぐっすりと眠れるほうが、珍しい。

金曜の夜は、気分的にもぐっすりと眠れることが多く、日曜の夜は浅くぐずぐずと寝付けずにいる。そのほかの日の眠れるか眠れないかは、体調と心境のバランス次第だ。往々にして体が疲れている日はよく眠れ、気持ちが疲れているときや興奮しているときは寝付きにくい。

最近は、夢の中を彷徨いながら起きているときと同じような脳波が続いている気がする。体が寝ていても脳は起きている。そんなときはおかしな夢を見るか、金縛りにあうことが多い。

眠れずに起き上がって、とっぷりと夜が深まっている街を眺める。誰も起きているものはいないかもしれない。この世の中で起きているのは私だけかもしれない。みんなが眠れているのにどうして私は眠れないの。そんなのずるい。私もみんなと同じように眠りたい。ぐっすりと眠りたい。

それでも眠れず本を読む。テレビを見る。パソコンを立ち上げてみる。

そのうち、空が白くなり始め東の空からオレンジが滲み始める。
オレンジがそこから扇形の曲線を描きながら広がり始める。その少し上に浮かんでいた重い雲が照らされはじめ、明るさが一瞬失われる。
彼のアパートがある方向からだんだんと朝になり、彼はもうすぐ目覚めるのだろうか。

私は、紅茶を一杯飲んで顔を洗って仕事に行く準備を始めた。
2004年01月25日(日)  合コンで学んだこと
ということで、合コン。みなさん、やりまくってますか。
ということで、合コンのはなしですが、その前に皆さんに自慢したいことがあります。私は合コンに一度も参加したことがなかった! やや、過去形ですが、事実です。誇れることかどうかはわかりませんが、けっこう貴重な存在ではないかと思います、私。ちなみにディズニーランドにも行ったことがありません。別にそれはどうでもいいことだと思うけど。

で、合コン。
男友達が先日から再三電話をしてきては、「女の子、足りないから来てぇ〜」としなだれかかってきます。受話器の向こうで。この人は彼女が欲しくて合コンをしているのではなく、合コンをしたくて合コンをしているような人です。所謂、合コンマニア、若しくは合コンおたく、若しくは合コンフェチ。どうでもいいけどね。で、私。嫌いなの、合コン。お腹痛くなるの。なんでかというと、知らない人と出会うのが嫌いだから。面倒だから、気を使うのが。で、あれこれ話すのも面倒なの。というか、初対面の人と会うのが嫌なの。いや、仕事ならやるけど、それ以外はねぇ〜。一番ベストな出会い方は、知り合いばかりいると思った席で、知らない人が偶然そこにいて出会った、みたいなのがベストです。我侭です。ね。
で、合コン。
「イヤだって言ってるでしょう?」けれども、彼は怯むわけがありません。だって、女の子が足りないと合コンは成立しないから。「他の子に声をかければいいでしょう?」しかし彼のネタもそろそろ尽きてきたようです。「うるさいよ!」とうとう、罵る言葉が出てきたけれど、彼は粘ります。「シバク!」やっと、彼は電話を切りました。よしよし、合コンは嫌なのです。知らない人がいることをわかりながら、私が行くと思っているのかしら。嫌だわ、この人。本当におたくです。
で、いざ合コンの日。
と言っても私は行くわけでもないので、張り切る必要もないのですが。合コン組みが池袋の東口で飲んでいるとの噂を聞きつけ、私たち(女友達2人と)は西口の汚い居酒屋で騒いでいました。「へぇ〜合コンしてんだ。行こうよ!行こうよ!」友達2名は若干合コンに興味を持ったようです。私は行かな〜い。行きたきゃ行けば。私は帰る。そこまでして合コンを毛嫌いする私は、若干天邪鬼というか捻くれています。いま、気づきましたが。で、メール。携帯にメールです。合コンおたくからです。「すっごいカッコイイ男が揃ったよ!あいは来れなくて残念だったなぁ〜。」あっそ。そうですか。だからなに?女友達がそのメールを見て騒いでいます。「行こうよ!行こうよ!」で、もう一通メール。「写メール送りまぁ〜す。」ブイサインをした男子4名の顔写真つきメール。うーん、今どきブイサインってのもなんだろう。VV。
で、状況が状況で、そういえばこの女子2名も合コン好きだったな、という状況に負けてしまい、「そっちから来い!かかって来い!」と返信して、待つこと10分。早いよ、速攻できたよ。ぜったい、西口のどこかで待ち構えていたんだろうと思う。
で、合コン組みは男子5名女子2名、こちらは全部で3名。とんとんじゃないですか。いや、とんとんの意味が間違っていると思うけど。年齢も19歳から29歳と、まぁ幅広いわ。しかしこの女子2名は19と20歳って、ガキじゃぁ〜ん。と思っていると何気に大人びてる。わぁ〜、イマドキの女の子ってオトナっぽいのねぇ〜。ふむふむ。ってどこで捕まえてきたのか、未成年を。合コンおたくの先行きが心配されます。で、女友達2名の鼻息が荒くなってきました。男子がカッコイイ。見慣れたおたくを除いて。死語ならイケメン。今語なら、なんだろう?イケメン?とにかく、狭いストライクゾーンにキテるようです。鼻息ぼーっ。で、なにやらふたりで呟いています。「大人の魅力を見せてやるわ!」「この合コン、ぶっ潰す!」わぁー、やる気マンマンです。なんだか面白くなってきましたー。ってことで、場所を変えていざ、合コン。
で、仕切り直しで再合コン。
おたく、大喜び。みんなはちょっと恥ずかしがっているのか、それとも猫かぶっているのか知らないけど、ちょっとまだ慣れないかんじ。ソワソワ、私もソワソワ。わー、かっこいい人もいるけど、なんだか「幼い森本レオ」と「ちっちゃい香取慎吾」と「売れない役者」みたいなのと、「普通な人」だなぁというかんじ。みんなが俯いているあいだに、そっと男子の顔をうかがっておきました。おたくは除いて。
で、ワイン。女子2名はぶっ潰すと宣言したとおり、ワインを頼みまくって、まずは女の子たちにすすめるんですねぇ〜。怖いデスネ怖いデスネ。女って怖いんですよ。まず、女の子を潰す気ですねぇ。怖ろしい。ワインを赤と白交互に飲ませて酔わせるんですねぇ。脅威!ポリフェノールの力。ですよ。けどまぁ、26と25歳の体は、20と19歳の体に負けて、やはりこっちのほうがぐでんぐでんになるのが早い。もくろみ失敗。自分たちが間違って酔ってしまいました。プ。バカ。そっと合コンおたくに耳打ちして、「王様ゲームとかしないの?」と聞くと、鼻息荒らくして、「久しぶりにやっか!」とのこと。盛り上がってまいりました。
で、王様ゲーム。ちょー古い遊び。19と20の子は、少々うんざりのようでもありましたけど、まぁ私がやりたいんだから、やらしてくれよ。頼むよぉ。で、王様だぁれだっ!ってことでやはり掛け声高く叫ぶのは、女子3名のほう。アダルトとヤングチームにわけたらアダルトチームのほうね。叫ぶ、大口あけて笑う。足開く。正真正銘のおばちゃんになってきました。で、私が王様。んふふ。「2番と4番が猪木とジャイアント馬場のモノマネしてプロレスごっこをする」プ。キスとかするんでしょ?ね?ね?普通、ここでキスするとか言うんでしょ?ドラマで見たけど。プ。させないよー。そんなに簡単にキスできるんだったら、世の中もっと平和だわ。うしし。早くやれやれプロレス。で、2番は森本レオ。4番はおばちゃんの片割れ。やーん、面白くなってまいりました。じゃあ、あたし猪木やるー!、ってぜったいやると思ってた!あんたが猪木すると思ってたよ!「にゃんだこのヤロー!にゃんだこのヤロー!」と森本レオと相対するのだけど、レオは恥ずかしがって馬場が出来ない。しょがないなぁ、見本を見せてあげるよ、よぉーく見てて。「ぽぉーっ」と、あいのお手本。かなりうまいね、うん、うまい。笑ったのはおたくとおばちゃんのもうひと片割れと猪木で、あとはドン引き。ひきまくってますか、これ、参ったなぁ〜。
で、こんなそんなで合コンはエンもタケナワ。どんなこんなかよくわからないけど、盛り上がったのはおたくとアダルトチーム3名で、ヤングチームはウンザリ顔。他男子は引きつり笑い。アダルトチームでワインのデキャンタかなりあけたよ。凄まじい。○○サワーとか飲んでる場合じゃないよ、ヤングチーム。アダルトチームの捨て身の体当たりで崖っぷちを勉強しなさい。いいですか?
で、やっぱ電話番号交換とかしちゃうんですね。やっぱドラマで見たとおりだわ。実際の合コンもけっこう普通なのね。むふ。で、携帯の登録に「レオ」とか「カトリ」とかいれとけば間違いないかぁと、思っていたけど、当の本人が私の携帯画面を覗き込むので登録できないじゃないか。普通に苗字や呼び名を登録したので、たぶんきっと顔と名前は一致しないだろうなぁと感じる、一抹の不安。「あいさん、私にも教えてくださぁ〜い」と言うので、イタ電・呪い電がかかってこないよう、祈りながらなぜかヤングにも電話番号を教える。これって普通なの?女同士でも電話番号教えるの?ドラマではそんなことしてなかったよ?いいの?教えていいの?どうなの、キムタク。
で、解散。お前達は自力で帰りなさいと、おたくが偉そうに言うので、屋台のラーメン屋行こう、という友達を置いてさっさとタクシーで帰りました。寒いもん。ああ、いまもし、ゲロを吐いたらきっと赤いゲロが出てくるだろうなぁと思いながらシャワーを浴びて出てくると、着信2件の表示。わー、きっとアダルトチームからだわ。怖いわ。先に帰ったことのクレームかしら。それとも今日の反省会の招集かしら?と思って表示も確認せずにほっといた。リリリリーン、携帯がなる。仕方ないので着信の表示を見る。「ホニャララ、ホニャララさん」から電話。はて?だれ?「もしもし?」「…もしもし」
で、さっきの男子の中の誰からか知らないけど、電話。で、もぞもぞと喋った挙句、最後に「また会いたいんだけど」と言った。あー、なるほど。合コンの後は気に入った子に電話をかけるのだな。そうかそうか。それで、今度はふたりだけで会う約束を取り付ける、と。なるほどなるほど、それはちゃんとドラマでやってたよ。でも、顔と名前が一致しないのね。しないのよ。一体、どこのどちらさんから電話なのかわからないし、聞けないし、というか私は会いたいとは思わないし。「いいよー。じゃあさっきの女の子も連れて行くから」と言うと「は、はぁ」という間抜けた返事。アダルトチームが全員集まるとそれは彼らにとっては悲惨なことかもしれないよね。うん、知ってるけど言ってみた。たぶんきっと、二度と電話はかかってこないでしょう。アーメン。


で、総括。
合コンは捨て身で当たれば当たる。
でも、まあ、そんなに、思ったほど、というかあっさりと、合コンはつまんなかった。友達の酔いぶりには笑ったけど、それ以外はなんというか、その、つまらなかった。自分が寒い。なんだか寒い。もう一ヶ月は外に出たくない。というか、新しい人と会いたくないな。あー、疲れた。
2004年01月24日(土)  休日の午後
休日の午後。携帯電話が鳴る。
「今日なにも予定ないでしょう?」という兄の声。年末に実家で一緒だったとき以来の声。
「はぁ…。別にありませんけど。」今日の夕方、兄の家にお客さんがくるので、某有名和菓子店のお茶菓子を買って来てくれとおつかいを頼まれた。面倒くさあーいと言うと、兄はなかなか義理にかたい男なので、世話になった人のためにそれぐらいしないさいとのこと。そうそう、私も知っている人なんだけど、別に私がわざわざ兄の家に行って顔を見せるほどでもないだろうけどなぁと思いながらも、早速支度をして和菓子屋さんに出かけた。

兄の家には大勢の人が集まっていて、その中には3人のお客さん。「まぁ、あいちゃん大人になっちゃってぇ」と言われると以前会ったときは、確か3年前だったからそんなには成長してないんだけどなぁ…と思う。愛想笑い、愛想笑いの連続でやっと開放してもらえると、私はそそくさと隣の家のチャイムを押した。兄の家は一階が兄の仕事場なのだけど、二階にはふたつの家が並んでいる。もう片方の家には兄と一緒に事務所をつくったK君が住んでいる。
K君は寝起きらしく、頭はボサボサだ。お土産のアイスを見せると喜んで中にいれてくれた。

隣に行かないの?と聞くと、うん、シャワー浴びてから行くわ、と言ってコンタクトを入れ始めた。
アイスを食べながらテレビを観る。他愛ない話をしてフットボールの試合を見る。彼が台所からミネラルウォーターをとってくる。背後から私に近づいてくる。私の脇から腕を伸ばしテーブルにコップをふたつ置く。テーブルの反対側に座って水を注ぐ。テレビの音だけが響く。カーテンからは外の光が漏れてくる。向いの道にたっている木が揺れている。部屋に落ちた影が揺れている。彼がコップに口をつける。シャワーを浴びてくると言って腰を上げた。隣の部屋に入って着替えを手に持って出てきた。彼の鼻をすする音がする。彼が歩いていくとフローリングが静かに軋む音がする。ドアが閉まり彼はバスルームに入った。

水を飲もうとすると息があがってしまう。呼吸が整わなくて飲み込むことが出来ない。心臓が破裂しそうになる。私はなにかしらの理由でいま緊張している。彼の一挙手一投足で息が止まりそうになった。何があったわけでもなく、何を言われたわけでもない、ただこの密室に男性とふたりでいるという事実に、途端に私はおろおろして鼓動が高まり、外の風景があんなにも開放的なものなのに、この室内には彼と私だけの二酸化炭素しかないのではないかと思うと、息苦しくなり呼吸が乱れた。耳を塞ぐと自分の心臓の音が急に音量を増して聞こえてきた。目を閉じると瞼の裏側で光が飛び交っているようで眩しかった。私の足は折り曲げて体にぴったりとくっつけているつもりなのに、だらしなく床を滑って、それは伸びきってしまった。引き戻そうとしても力なく足は伸びるばかりだ。心の中で叫んでみる。金切り声をあげてみる。口からは声にならない息だけが吐かれている。

彼は、私が東京に来た頃からの知り合いだ。兄の親友であり仕事仲間であり、隣人である。ずっと可愛がってもらったと思うし、何度も食事に行ったし飲みにも行ったし、こうやってひとりで遊びに来ることだってあった。けれどそこで何か嫌な思いをさせられたわけでもない。この人は私の兄の延長上にいる人であり、だから彼と私のあいだでは何も起こってはいない。何も起こっていない何も起こっていない、それは頭の中でわかっているのだけれど、どうしても気持ちが高ぶってしまってそれ以上のことを考えられない。落ち着けない。ここにふたりっきりでいるということ。それがとても怖くて死んでしまいそうだった。

それは、相手が特定の誰であっても、そうでなくても、私は時々そうなってしまう。異性とふたりきりの密室で呼吸をするということ。段々と胸が苦しくなって体中の力が抜けていく。何か危害をくわえられるのではないかという不安。何かされるのではないかという妄想の上で成り立つ恐怖。

いつかのあの日、ベッドの上に叩きつけられた夜を思い出し、好きだった人があれほど脅威の力で私を引っ張ったことを、ずっと思い出していた。この人も力にものを言わせて私を叩きつけるの?気に入らないことがあったら言葉ではなく力で黙らせるの?好きだった気持ちは消えてしまってそれは憎しみや凄まじい腕力に変わってしまうの?男の人は強くて女の人は弱いの?私はこれからどうなってしまうの?

価値観が変わっていきそうな気がして、
自分が自分ではなくなるような気がして、
昨年までの自分は死んでしまったような気がして、
男の人が怖くて、
人が怖くて、
私は、走ってうちに帰った。
2004年01月23日(金)  一歩でも動いたなら
どうしてそんなに優しくするの。

それ以上私に近づいたら、
私はあなたに噛み付くか、
もしくは、自分の舌を自分で噛み切る。

だから、それ以上近づいたら許さない。
ぜったいにぜったいに。
だから、それ以上私たちの距離を侵したら、
私はやっぱり自分の舌を噛み切る。

あなたがその場から一歩でも動いたなら、そうする。
もう、決めてあるの。
2004年01月22日(木)  花束
花束をもらうということは、果たして一体どういう意味がそこにあるんだろう、と思うことがある。

私は、学生のときから花束をもらうことに慣れているような気がする。

たとえば、音大生だった頃、定期的に催される学内の演奏会があったが、その演奏会ごとに私は、数え切れぬ人々から花束を貰い続けていた。
本番がもうじき始まる。オーケストラは、管・弦・打楽器の学生を合わせると何人になるだろうか。30人ほどだろうか。全員が広い楽屋にひしめきあって、本番のときを待つ。何度も同じフレーズを練習するもの、楽譜を睨むもの、煙草を吸うもの、おしゃべりに興じるものなど、そのときを待つ形は、人それぞれだ。ただ全員に共通することは、底知れぬ緊張感やプレッシャーを感じているのに、それをひた隠しにした強がった姿だろうか。私は、そんな時間をある行為を行うことで、楽しむことにしていた。それは舞台の袖に小さく開いた穴から客席をのぞくこと。見知った顔もある。それは今回の演奏会には出ることはない、ピアノ科の生徒や声楽科の生徒、あとは付属の中学生や高校生、そして、各科それぞれの楽器の講師だ。私の先生もいる。きっと私がへまをしないかどうか、見に来ているのだろう。大変なへまをすると、後で大目玉を喰らうのは確実だ。先生を見つけると私はたまに胃が痛くなる。ここでも、それぞれに本番のときを待つ姿がある。私は、自分でも知らずに誰かを一生懸命に探している気がする。
やがて、演奏家の卵である生徒達が、暗く狭い舞台袖に集まり、声を潜め足音を立てないように、舞台に出て行く順番に並び始める。まもなく会場のアナウンスが流れ終わると私たちは身をかたくして、眩しいほどのライトに照らされている舞台に登場する。
そして、すべての演目が終わり楽屋に戻ると、そこには花という花が窮屈にテーブルに重ねられている風景を目にすることになる。
クラシックの演奏会には、ほとんどの人間が、花束を持って訪れる。特にそれが身内だけで行われるものであればあるほど、数は多くなるものではないだろうか。花束に添えられたカードには、送り主と宛名とその人が専攻している楽器名が書かれている。私も、自分に贈られた花束を探す。
今日は、いくつもらったか。その花束の数が多ければ多いほど、その数は学校内での、またはオーケストラ内でのステータスをあらわしているようにも感じる。それは皆の中での暗黙の了解のように映し出される力関係のようなものでもあった。花束の数が多いほど、演奏が上手く人気があり友達も多く慕う後輩も多い、そう思われるのである。私もひとつずつ自分の花束のカードを確認する。ピアノ科の友達、声楽科の友達、別の大学の友達もいれば、顔と名前が一致しない付属の高校生の名前もあった。副科で必ず取得しなければいけないピアノの先生の名前もある。私は、カードをすべて見終えると、また彼が現れなかったことに落胆した。
私が、演奏会を迎えるにあたって、一番緊張するときは、演奏をしている瞬間ではなく、このカードを確認するときかもしれないと思う。何度も来て欲しいとお願いし、チケットを渡すために不在かもしれない家にも、何度も足を運んでやっとの思いで渡したのに、やはり、彼は現れなかったのかもしれないと思うと、それはやはり落胆の思いがした。もちろん、彼の名前が入ったカードを見つけることもある。その瞬間は、喜びに満ちて私は演奏会用の服装のままでも、ホールの入り口まで走り出し、彼の姿を探しに行くこともあった。ピアノの講師をしている彼が大好きだったのである。

また、以前の職場では、3ヶ月に一度表彰式を兼ねたパーティーを行うことがあった。
営業成績を総評して、「新規獲得数最高トップ賞」「売上げトップ賞」「優秀営業賞」「最優秀営業賞」「新人賞」「グランプリ社賞」と、その賞の名前は今ではもう思い出すことも出来ないほど、多種様々であった。このホテルの大広間に集まった営業マンの数は、一体何人といるのだろうか。某大手会社の代理店が一同に集まり、各社ごとにテーブルに着き、食事をしながら表彰式を行い、各社の力加減の差をまざまざと見せ付ける集まりなのだ。私は、そこで毎回のように表彰を受ける立場にたつことになる。同僚が聞けば嫌味になるだろうが、一体何を頑張って賞を貰えるのか、自分でははっきりと思いつくことさえ出来なかったために、大勢の人の前に立たされるのが恥ずかしく思い、短いスピーチをお願いしますと進行係の人に耳打ちされながら、なんだか面倒くさいなと思うことは、毎度のことであった。私が会社を辞めるまでに貰った賞は、売上げトップ賞と新人賞と優秀・最優秀営業賞だった。盾をもらい取締役がそれぞれの営業マンのために労いの言葉を寄せた表彰状を受け取り、スピーチをお願いしますと言われる。上司や先輩やアシスタントの女性の名を挙げ、その人のおかげですと無難なことを言ってすぐ礼をした。すると、舞台のすぐ下から、会社の同僚や後輩が花束を持って駆け寄る、私は無難な笑顔を浮かべそれを受け取る。もう一度拍手が起こり、私は舞台後ろの自分の立ち位置にすぐさま戻る。
その花束を用意したいたのは、事前に知っていた。そのパーティーが行われる朝には、アシスタントの女性が「どこで花束買おうかしら」と独り言を言うのを知っていたし、営業から戻ってきた夕方には、その女性のデスクの上に花束が置かれているのを知っていた。3ヶ月に一度、こういう出来事が社内では起こっていた。いちどだけ、その年の四月に転職してきた人間、三名のうちのひとりが、(彼は私よりもふたつ年上だったが)舞台下に花束を持ってスタンバイしていた。スピーチをしていた私は、ふと彼に視線を向けると彼は不本意なような面倒くさそうな顔をしていたのを見つけてしまった。不自然な笑みをたたえて私に花束を渡すと、「おめでとう」と言った。彼と仲が悪かったわけでもない。同僚としてはそれなりにうまくいっていたと思う。しかし、私は彼より社歴は半年ほど長いが年齢は下で、彼は私よりも営業歴は長かった。そして、彼は人一倍の負けず嫌いだった。噂で、彼が私のいないところで「あれぐらいの成績だったら自分でも簡単に出来る」と言ったのを聞いた。そのとき、競争社会に生かされていることと、社会では結果が全てだということ、そしてこの表彰式は多少の嫉妬や精神的な争いが静かに渦巻いていることに気づいた気がした。

学生の頃からつい最近まで、幾度となく花束を貰っている。
さて、その花束を私は一体どうしただろう。
学生の頃は、そのあとの打ち上げをした店で、皆で分け合った。たまにその花束でプロレスラーみたいに叩き合う男の子もいたり、酔っ払って引きずってしまったために花びらをすべて落とした子もいる。初めの頃の私は、皆でわけても余った花束を家に持ち帰ってバケツにそのまま突っ込んで放っておいた。飾る花瓶も持っていなかった。そのうち、学年が一番上になると、後輩たちに押し付けて、ひとつも持って帰らなかったこともある。花束の数だけがすべてな世界では、それを確認した後には、何も必要がなかった。社会人のときにもらったときは、さすがに花瓶を買って飾っておいたが、そのうち無残に枯れてしまいそうになると少し嫌なにおいのする枯れ花に顔をしかめて、生ゴミとして捨てた。

恋人にもらったこともあるだろうか。ついでに買ってきたような言葉を添えてもらったことも数回はあったような気がする。そんな花は捨てるタイミングに少し神経をつかったりもしたものだった。

今日の22時。
私はある男性と向き合って座っていた。遅い夕飯をとる約束をしたいたのだが、私にとっては行こうと行くまいとあまり重要なことのようには思えず、食べたいものや好みの店の雰囲気を細かく確認し始めた彼に、少しウンザリもしたり約束をしたことに後悔もしたりした。遅れて来た彼は、お礼のしるしといって小さなブーケの花束を持って現れた。おどけながら洒落のつもりで渡した花束の影に彼の恥ずかしげな顔を見つけたとき、なぜか私を少し苛立たせた。なぜか。
ブーケにはぎっしりという言葉が似合うほどピンクや黄色の花が圧縮されていた。花束を持って店まで駆ける彼には、いろんな思いがあっただろう。私が喜ぶ姿が彼の思いを救うだろう。だから、私は喜ばなければいけないという義務感を感じる。それは本当になにかの儀式のようなやり取りなのだけれど。
0時に近い時間に、私たちは店を出て、同じホームに立っていた。それぞれに乗る電車は反対方向である。彼が乗る電車が来て、見送られずにすんだ私はひどくほっとした。早く開放されたい気持ちが私をせっついている。電車が止まるのもドアが開くのも、いつもよりスローに思える。最後の力を振り絞って最高に笑って手を振って、彼を見送った。
やがて、私の乗る電車も到着し、それに乗ると少し眠った。その駅に止まると私はホームに降り、手に持っていた花束を捨てた。躊躇もしなかった。そうしようと、彼にもらったときから決めていた。


花束に込められた気持ちが、私にはわからない。
それは、なんだか計算高く見積もられた気持ちが混じっているようで、私は素直になれない気持ちがする。花束をもらって喜ぶ人は多くいるだろう。素直に嬉しいと思える人もいるだろう。けれど、やはり私は用心深くなってしまうのだろか、それを真っ直ぐに見ることが出来ず、斜に構えてしまうのかもしれない。花が枯れるようにいつかはその気持ちも枯れてしまうのである。
ピアノの彼も、共に働いた同僚も、あの男性も、いつかは気持ちや志がすれ違って別れていくのだ。ずっと活き活きと輝き続けて咲き続ける気持ちは、どこにもないような気がする。一時的な感情で美しく咲くだけの花なら、最初から信用しないほうが傷つかずに済むような気がする。信じなければ傷つかないという言葉が、切に感じられた。
2004年01月21日(水)  悲鳴
悲鳴をあげた。
もちろん、心の中で。

みんなの顔を見るたびに、怖ろしいと思う。

メールを送ってくる友達は私の様子を何気ない言葉で伺い、返信メールを見て、せせら笑っているのかもしれない。アイツには当然の報いだって。

応接室でにこやかに笑うクライアント。あがった口の端で、コイツは馬鹿で傲慢で世間知らずな娘だと思っているのかもしれない。

隣の席の同僚が私に話しかける、答えた私の言葉を聞いて、一瞬間をあけた。トイレで会ったもうひとりの同僚と、私の失態を大笑いしているかもしれない。知ったような顔をして言ってることは意味がよくわからないのよねって。

改札で別れた恋人が、ホームから私のいなくなったのを確認して携帯を取り出す。長くなっちゃってゴメンネ。アイツ、うっとうしくってさ、帰らせてくれないんだもん。早く君に会いたいよ。電話の向こうの女は、笑っている。


みんな、嘘をついているのでしょう?
みんな、影で私を笑っているんでしょう?
みんな、私の前では懸命に取り繕っているのでしょう?
みんな、私をからかっているのでしょう?
私が、思い込んでいたのはすべて嘘だったんでしょう?

あなたが言った言葉も、あなたが見せた笑顔も、ぜんぶぜんぶ嘘だったんでしょう?
つくりもので偽っていたんでしょう?

だって、そうとしか考えられない。
だって、こうなったことに、みんながどこかで笑って喜んでいるようにしか思えない。
こうなったことを、あなたも喜んでいるようにしか思えない。

悲鳴をあげながら、私はそう思う。いつもいつも。
だから、もうわかった。誰も信じないほうが幸せだって。
2004年01月20日(火)  無気力
目が覚めて、ベッドからおりて、首をまわして伸びをする。肩や背中の骨がぽきぽきと鳴ったような気がする。

フライパンをコンロにかけて火をつける。フライパンの上に指を押し付けたまま待つ。
じわじわと熱が伝わってくる。最初は暖かかったがそのうち温度は上がってくる。このまま押し付け続ければ私の人差し指の皮膚はフライパンのものになってしまうだろう。私に残されたのは身がむき出しになった人差し指だけになる。

ふざけたことは止めて、腰に手を当ててフライパンを眺める。ひとつも音を立てることなく、けれどその鉄板はとても熱くなっていることだろう。それを想像しながらじっと見つめる。薄っすらと煙が立ち始める。慌てて冷蔵庫から卵を取り出す、さっきまで無音だったそれは一瞬のうちに悲鳴を上げる。白身がじゅわじゅわと泡を噴出し、ぶつぶつと音を立てる。弱火にして蓋をして手を洗うと、髪の毛をまとめて私はテレビを見た。

それはまだぶつぶつと音を立てている。蓋を開けると湯気が出口を見つけて殺到したかのように立ち上る。私はまたテレビを見た。

じゅうじゅうと煩く音をたてている。私はまた蓋をあけて、そこに水を流し込んだ。さきほどより音量の高い悲鳴が聞こえる。また蓋をしめた。お皿を用意してその前にじっと佇む。水気がなくなったら火を止めた。

火を止めて、私は何もかもが嫌になった。
人はどうして食べなければ死んでしまうのだろう。どうせ、食べても排出してしまうじゃないか。なのに、どうして人は毎回毎回食べものを口にするのだろう。じゅんじゅんとそれは音を弱めていく。左手に持っていたお皿が不自然に中空を彷徨っている。右手に持ったフライパンの蓋がしめるべきかあけるべきか、迷っている。
その状態で、私は何が嫌になったのか、何に絶望しているのか少し考えた。食べることに無気力を感じているのか、それとも自分自身に無気力になっているのか、自分のとめどない思考に無気力になっているのか、仕事か、いなくなった恋人か、荒れてしまった家族か。

両手に持っていたものを流しに置くと、私は心の中でバカみたいと呟いた。
ゴトンと蓋が重力を求めてステンレスの流し台にぶつかる音がした。
今度は、口の中で誰にも聞こえないようにバカみたいと言ってみた。
なんにも音のしなくなったそれは、呆けたみたいに水分を帯びている。
今度は、明るさを求めて窓のほうを振り返ってみた。
バカみたい、声を大きくしてそう言ってみた。


食べずとも何も変わらないでしょう?
あなたが困ることも傷つくことも悲しくなることもないでしょう?
なんだか、すべてのことにイライラするし、
なんだか、すべてのことに無気力になるの。
2004年01月19日(月)  秋と春になったら紅葉狩りをしてお花見をするの
冬になったら熊になって、
夏になったらモグラになる。
僕はそうやってこの場でじっとしてるんだ。

だったら、
冬になったら私はあなたに鮭をおくるし、
夏になったらサングラスをプレゼントする。
だから、そんなに拗ねてないでこっちにおいでよ。

私があなたを幸せにするから。
2004年01月18日(日)  彼の背中
彼の後ろ姿が見えた。
彼の座っていた場所は、私がさっきまで座っていた場所だった。

どこかのカフェの中で私は彼の後ろ姿を見つけた。すぐにわかった。一目見てすぐわかるようになるまで、どれだけの回数を重ねて、彼の背中を見たことだろう。
私は雷に打たれたようにその場から動けなくなった。彼に見つかると殺されると思った。別れた恋人に殺される理由は、一体なんだったか忘れたけれど、そんな理由はどうでもよくて、今は彼に見つからないようにこの場から立ち去るのみだ。別れた恋人の背中は、とてもうきうきしている。新しく心を寄せる女の子に出会ったのだろうか。私のことなど微塵も思い出さないかのように、その背中は恋の喜びや戸惑いを一手に楽しんでいるかのように見える。

足を忍ばせて出口に向かう。どうか彼が振り向きませんように。彼の目の前にあるガラスに私の姿が映りこみませんように。ヒールをゆっくりと床に着け音が鳴らないように祈った。視線は彼の背中に向けたままだ。ああ、振り向きませんように、でも振り向いてくれますように。彼に会いたい。背中ではなく彼の目を見たい。彼に会いたい。彼に見つかると殺されると思っている反面、彼に会いたいと思う自分がいる。けれど、足は恐れをなしたかのようにゆっくりとしかし確実に階段を降りていく。

振り向きませんように。
振り向きますように。
見つかりませんように。
見つめてくれますように。

私は、足を踏み外して長くて暗い階段を転げ落ちた。


目が覚めると、ベッドから半身が落ちかけていた。
そんな夢にうなされた話し。
2004年01月17日(土)  殺伐としたセックス
久しぶりにかかってきた電話で、彼はよくしゃべった。私はさっきから「うん」という言葉と「そうだね、それでいいよ」という返事しかしていない。

鼻歌を歌いながら駅に向かっているのは、気分がいいからではなくあれこれ考えないようにするためだ。歌は「forget me not」という歌詞を繰り返している。電車を2回乗り継ぎその街にたどり着くと、丁度うちを出た時間から一時間がたっていた。

駅には彼が迎えに来ていて、そのまま喫茶店に入った。頼んだ紅茶が渋すぎるのでミルクを多めに入れて味を誤魔化した。ブラックコーヒーを飲む彼の洋服の袖から、白い糸が垂れていたけれど、私はそれを黙ってそのままにしておいた。

住宅地を歩くと、途中に公園があり、子供たちが元気よく遊んでいる。
狭い玄関に入るとときれいに整頓された彼の部屋がある。
外からは先ほどの子供たちの声が聞こえる。
公園にさしかかった辺りから、ふたりの口数が少なくなってきているのはわかっていた。
私は、ずっと頭の中で「forget me not」と歌っていた。

休日の昼間のテレビ番組は、どれもこれも再放送ばかりで楽しくも面白くもなんともない。彼の部屋にあったレンタルビデオを見ながら、クッキーをかじった。退屈で死にそうになった。締め切った部屋にタバコのにおいとクッキーの匂いが立ち込めていた。映画の途中にとうとう痺れを切らした私は、彼の本棚におさまっている本の背表紙を眺めた。理系の勉強をしていた彼が持つ本は、ほとんどがそれに関係するものばかりで、私が読みたくなるものはなさそうだ。それ以外の本は太宰治や宮沢賢治の本が並んでいた。それを手にとってぱらぱらとめくり、また元に戻して別の本を手に取り元に戻す。
彼の彼女の写真を見つけて、私はわざとそれを彼に見えるようにしてじっと見つめた。
彼の部屋の薄青のカーテンが、部屋に青色を映している。


彼はベッドに転がって、私は床に腰を下ろして、テレビを見続けた。
この人とセックスをしたことがあっただろうか、あったかもしれないしなかったかもしれない。たぶん、なかっただろう。
私たちはそのあと特に理由もなくセックスをした。
私は眠くなり、夕陽が直接さし込むベッドの上でうとうとと眠った。ひさしぶりに深い眠りについた。
彼に揺らされ、私は目を覚ました。どこからか子供の声がする。部屋はまだ青みがかっていて私は1時間ほど眠っていたようだ。後悔しているかと聞かれ、そんなことを聞くあなたには後悔していると思ったけれど、べつにしていないと答えた。

その後、夕食の買い物をして狭い台所でふたりで料理をした。安いワインを飲んで食事をした。
彼は、以前のキミと比べて、今のキミは殺伐としている、と言った。
特に何も答えられずに、私はきっと眉間にしわを寄せていただろう。

セックスをした理由はわからない。ただ目と目があったから。
彼は優しく微笑んで、優しくキスをして、優しく抱きしめて、優しくセックスをした。けど、その唇は私に向かって「殺伐としている」と言った。彼のその大きな手で、その太い腕の中の筋肉で、その目の奥で、いつか私を威圧して恐怖や孤独に陥れるような気がした。殺伐としていると言った彼はセックスをしている最中に、その目の奥でどんなふうに私を見たというのか、セックスをして心の中を読み取ることができるのであれば、私は今すぐにでもこの部屋のベランダから飛び降りる。

やっぱりダメだった。私はやっぱりダメだった。誰かとセックスをしてもやっぱり私は私のままだった。どうにもならなかった。なんにも起こらなかった。なんにも変わらなかった。ようやく、バカなことをしたという思いに至った。苦笑が漏れた。彼は困った顔になった。そんな笑い方はやめてくれと言った。私はもっと笑った。彼が私を抱きしめてどうしたのと訊ねた。
全てに、辟易とした。特に自分に。

私は、またいつの間にか「forget me not」と歌い始め、彼はその歌に耳を澄ましているようだった。私は、また彼女の写真を見た。何度も何度も見た。


殺伐とした女は、自分の意志でその状況に飛び込んだにも関わらず、ただその孤独を増幅させただけで、やはり彼が言うとおり後悔だけがあとに残った。
2004年01月16日(金)  人間以外なら何でもいい
犬の真似をして、四つんばいになって腰を高く持ち上げ、わんわんとを鳴く。
猫の真似をして、颯爽とした面持ちで肢体をくねらせ、にゃおと鳴く。

魚の真似をして自在に折り曲げ伸ばし水流に身を任せ、水面に顔出してえら呼吸をする。
花の真似をして狭い花瓶の中で大胆な動きを見せることもなくじっと太陽を見つめる。

けれど、残念ながら私は人間で、言葉を操れば足を動かして駆けなければいけない。電車に乗りタクシーに乗り、デスクに向かってパソコンを叩き、食事をしてトイレに座ってシャワーを浴びる。仕事をしてベッドに横になり、銀行口座の残高を心配して目覚まし時計をセットしたかを何度も確認して、彼を思い出して涙する。そんな生活をしなければいけない。

残念ですが、仕方ありません。
2004年01月15日(木)  大切だった今日という日
とうとう、この日がやってきた。


人にはそれぞれに歩む道があって、たまにその道は右か左か別れ道になっていたりして、右を選ぶとしたら、左をえらんだ人生を一度としてどんなものだったか知ることはないけれど、人はそれでも人生の中でいくつかの決断をして自分の人生を決めていく。右を選んだら、人は潔く右の世界で生きていくのが当然で、いつまでも左の道のことを考え続けるのはナンセンスだと思う。

けれど、私はいつまでもどこかの別れ道で失敗してしまったことを、逡巡として思い返そうとしている。何がどうなってこういう状況が生まれたのかって。

もし、もしもの話し。
どこかで私が、違う決断をしていたら、今日という日は実に晴れ晴れしく喜びに溢れた日になっただろうと思う。悶々と土の下でこの日を待ち、すべてを我慢してこの日に焦がれて、毎晩毎晩あと何日かを数えていただろう。そして、今日を迎えたあの人生の私は、あなたを抱きしめて喜びを分かち合っただろう。よく頑張ったねと私はあなたに言い、あなたは私の髪の毛を撫でただろう。たとえ、それまでの日が、苦痛のものだったとしても、その瞬間にすべてが報われたことだろう。私は、私の決断を誤っていなかったと確信しただろう。そして、私の気持ちは更に強くあなたに傾いただろう。すべてを発散するようにそれを言葉にしてあなたに打ち明けただろう。

けれど、もしもの話なんて、ナンセンスだ。
私がいま立っている場所は、その喜びや開放の気持ちを一ミリも感じることなく、ただ正確に時計の針が動くように、当然としてこの日を迎えて当然としてこの日は終わっていく。いまの私に今日という日の重みは、またその意味は失われてしまった。

だから、とうとう今日という日がやってきても、そして大切な今日という日が遠ざかっていっても、私には、昨日や一昨日とまったく変わらない一日だと思える。あなたにとっては、とても大切な日であったとしても、私にとってはただの一日と何も変わることはないのです。私にあなたと共感する権利を奪ったのは、私の決断の間違いだったと、今になってはそう思います。

だって、自分のせいにして悔やんでいたほうが、どれだけ救われるかあなたに理解できますか。
2004年01月14日(水)  たぶん、これが初夢
昨晩見た夢、といってもたぶん明け方、目が覚める1時間前のあいだに見たものだと思う。

その場所からは、外には田畑が広がる風景が見える。ひどい田舎にいるらしい。私の左側に一人の男が座っている。彼はメガネをかけていて髪の毛は茶色く少しくせ毛っぽい。クリエイターによくいるような顔つきをしている。私の右側には子供が3人座っている。それぞれの手には小さなノートが見える。その男と子供たちは向き合い、座り、彼に一言一言拙い敬語で何かを質問している。
彼は、世界で名を馳せた、なにかの先駆者で(なにかはわからないけれど)とても賢く、皆から尊敬の眼差しを向けられていた。しかしそれでいて、こんな素朴でなにもない田舎の、子供達の前で、自分の成し遂げたことを教えようとやってくるような、労を惜しまない人だった。どこにも誇示する態度は見られなかった。私は彼についてここにやってきた。最初はひどい田舎で退屈だろうと思い、来るのを躊躇ったが、子供の可愛さと純粋さに、つい目を細めて彼らのやりとりを見ている。

私は、彼をこの夢で初めて見た。知り合いでもなければ、どこかで見かけたという記憶もない。だがしかし、夢の中の私は、とても彼を慕っていたし、尊敬していた。

さて、陽も暮れるからそろそろうちに帰ろうかと思い、立ち上がると3人のうちのひとりの子が、もうすぐ海が満潮になるから早く帰ったほうがいいと言う。海か…。海がこんな山奥にあったかしら?と思ったけれど、彼は黙って頷くと靴をはいてその建物を出た。私は、慌てて彼を追いかけた。海なんてありましたっけ?と、私は彼に聞くと、うん、来る途中で見たじゃないかと言った。私はここに来た記憶もなく、一体どうやってきてどこの道を通ったかまったく覚えていなかったが、彼がどんどん先を歩くので、たぶんついていっていれば東京に帰れるだろうと思っていた。だって、彼も同じ東京に住んでいるのだから。
よく舗装もされていない道の両端から草が伸びている。私はその草を避けながら足取りの速い彼を懸命に追いかけていた。私は彼の靴をじっと見つめている。

と、突然草に覆われた道は途切れ、その向こう側は崖っぷちになっている。恐る恐る下を覗き込んでみると、なるほど下は海だった。潮の音も香りもしなかったけれど、こんなところに海があるなんて、驚きだ。真っ青な波が崖に寄せては引いていたが、崖から海までの高さは目も眩むほど高い。そして、海の真ん中には、くっきりと道が伸びている。十戒のモーゼが海を開いてつくった道のように、ずっと沖までその道は伸びている。そうか、あの男の子が言っていた、満潮になれば帰れなくなるといったのはこういうことだったのか、とようやくわかり、私は一体どうやってあの真下にある海までたどり着けるか、悩んでいた。彼は、一言、「行こう」と言って来た道を戻ろうとしていた。私はそれを制してここから飛び降りればすぐ海に出られると彼に言ったが、彼は悲しそうな顔をして、どうしてキミはいつも僕を困らせるようなことばかり言うの、と言うので、私もどうして彼がそんなことを悲しそうな顔で言うのか、わけがわからず、黙って彼に従った。
くねくね道をどれだけ歩いただろう、彼は海に下りられる道を知っているのだろうか、本当に道はくねくね続いて、しかし分かれ道はひとつもなく、迷うこともなく私たちは海を目の前にすることが出来た。しかし残念ながら潮は満ち、あの道はなくなっている。まあいいさ、と彼は言って砂浜に腰をおろした。ここでゆっくり休むのもたまにはいいだろう、と私に向かって言う。こんなところで夜を一晩過ごすなんて、風邪をひいてしまうと心配したが、帰れないのなら仕方がなく、私たちはただ沈む夕陽を眺めていた。涙が出そうなほど美しく大きな夕陽は、これまでに見たこともなく、やっぱり帰れなくてよかったと思った。彼の髪の毛が金色に輝いている。私の髪の毛も同じだろうか。そう思うと、なんだか恥ずかしくなってしまった。

場所は変わってここは、明け方の自分の部屋。ベッドの上には誰かが大いびきをかいて、眠っている。顔を見なくともすぐわかった。彼はさっきまでの彼でなくついこのあいだ別れた恋人だった。彼は私が眠れないことも知らず、自分は大きないびきをかいてぐっすり眠っている。彼の眠りを妨げると私は殺されてしまう、また私がここにいると知れば彼はものすごく腹をたてるだろう、私の顔など見たくないと怒るだろうと、なぜか瞬時にそれを悟った。起こさないように、私がここにいることを気づかれないようにと、ここが自分の部屋だということも忘れて、私は自分の存在そのものを一生懸命に消そうとしていた。目を瞑って息を止めて自分の心臓に、止まれ止まれと念じていた。
ふと、誰かの気配がし、恐る恐る目を開けると、知らない男が立っていた。顔は暗くて見えない。朝陽はまだ昇っていない。怖い、誰なのかわからない。どうしてここにいるのかわからない。彼は人差し指を自分の唇にあて私に黙るようにと、ジェスチャーした。私は怖すぎて声など出ない。彼の顔が段々と見えるようになってくる。それは私の顔に近づけてきたからだ。怖い、怖いけれど何者なのか知りたい。その男の顔がどんどんと近づくにつれ、その向こうに眠っている別れた恋人の背中が見えてきた。彼はこちらに背中を向けて眠ったままだ。起きて、助けて、起き上がって知らない男がいることに気づいて、そのときはそう願ったけれど、彼が物音一つしないしんと静まりかえったこの部屋で、一体いつ目が覚めるというのだろう。私は自分の身に起きる恐怖が絶望的に思えてきた。

知らない男は、一ミリの隙間もなく私の顔にぴったりとその唇を近づけてきた。いけないキスをしたような気がする。私は目を思い切り閉じた。さようならと心の中で別れた恋人に話しかける。さようなら、さようなら。何度も何度も。

涙が出てきて、起き上がると夢は醒めた。

怖くて身震いがした。
あたりを見回してみると、そこは誰かしらない人間の部屋だった。
混乱して昨晩のことを思い出そうとするけれど、一体自分は何をしたか思い出せない。思い出そうとすると頭が締め付けられたような痛みを覚えて、どうしても出来ない。どうしよう、どうしよう。着ている服も自分のものではない。体にかけられている毛布も自分のものではない。汚い。人のものは、誰とも知らぬもので肌を覆うことは、汚い。自分が汚れていく。そう思って私は鳥肌が立った。気絶しそうなほど頭が混乱すると、大きな叫び声をあげた。

起き上がると夢は醒めた。
あたりを見回してみると、そこは自分の部屋だった。
眠っているだけなのに疲れ果てていた。たぶんきっと叫び声をあげたのは現実だったろう。のどが痛む。夢から醒めた夢を見た。怖ろしくて、時計を確かめると午前五時だったけれど、私はそのまま起きあがって太陽が完全に昇るのを待った。

夜が怖い。
2004年01月13日(火)  多忙極まりない
さて、今週から私の仕事は嵐のような忙しさを向かえることでしょう。

社内の営業マンの間で、担当クライアントを変更しました。
今年の新人はハズレだったなぁと、誰かが言ったような気がします。新人が営業には使えないことと、ひとりの退職者が出たことで、組織の再編制を余儀なくされたわけです。ひとりでも誰かが異動してくるかなと、みんなが期待していたことなのだけれど、事業部長の一言は「12月は人事異動はしないよ」という一言。ブーイングの嵐の中、支社長は徹夜覚悟でクライアント移動の案を練ったわけであります。可哀想に…。

で、引継ぎ作業。
引き継がれたり、引き継いだり、目が回るようなスケジューリングは昼食を食べることも出来ない忙しさで、この数週間は誰も彼もがげっそりした顔になっているだろうと思う。クライアントにとっても担当営業マンが代わるということは、不満やストレスを感じさせる要因にもなるので、皆がみんな、トラブルが起きないようにと神経を張り詰めて仕事に取り組むことになるだろう。

さて、私の担当クライアントは、予想していた以上にヘビーな客ばっかりで。上司に、どうしてヘビーだなぁと不満を漏らすと、頼むからやってくれよ!期待してるよ。と言う。ああ、頭が痛い。と言っても、これまで担当していたクライアントがすべて変更になるわけではなく、7割程度のクライアントが変わるだけなので、引き続き担当するクライアントもいて、少しほっとしたりする。トラブルが起きても、私対処してあげられないと思うから、頼むから何も起こさないでね、と上司は言う。はいはいはい、と私は3回返事をしてやった。
上司もいっぱいいっぱいなのである。

この1月は、何枚名刺を使うだろう。
引き出しに残しておいた名刺は、あと何枚あるかな。300枚ほど用意してればいいだろうか。
なんか、頬がげっそりしてきた、今日この頃なのです。
2004年01月12日(月)  成田空港にて
三連休最後の日。
私は、朝から成田空港にいた。
朝9時にはリムジンバスに乗り、10時半には空港に着きコーヒーを飲んでいる。

昔付き合っていた恋人と向き合って空港にいるなんて、私が大きな旅行バッグを持っていればいいんだけど、生憎私は出発する彼を見送りに来ただけで。私は、本当に空港に人を迎えに来たり送りに行ったりすることが多く、自分が飛行機に乗るのは帰省するためだけ。なんだか淋しいやら虚しいやら。

彼は、一昨年の夏から海外で働くようになり、それをきっかけに私たちは離れ離れになってしまったけれど、年に一度、日本で行われるサッカーのトヨタカップと一緒に帰国する。昨年は数日しか日本にいられなかったけれど、今年は一ヶ月ほど日本でゆっくり出来たようで、彼とはよくのみに行くこともあった。

別れた恋人。

一昨日は別れた恋人の部屋に行き、昨日は眠りと現実との間を行った来たりし、今日は今日で昔の恋人と向き合って座っている。

朝、待ち合わせの場所で彼が私を見つけるなり、開口一番に「顔色が悪い」といった。自分で自分が嫌になる。自分で自分が痛々しく思う。立っているのも、こうして椅子に座っているのもひどく疲れる。横になっていた気持ちを懸命に堪えて、ここに来た。ずっと前からの約束だもの。見送りに来るっていう約束だもの。

成田空港の出発ロビーは、休日の最終日でも人手は多い。
無意識に爪を噛んでいた。私の爪はどの指の爪もがたがたになっている。

日本の紙幣を、海外の紙幣に交換してきた彼が戻ってくると、バッグから地図を取り出して私に見せてくれた。私は海外に一度も行ったことがない。行く機会もあったけれどいつもそのチャンスは逃してきた。未知の世界のような気がして、その地図を興味深く眺めてみる。彼は向こうでどんな生活をして、どんなものを食べ、どんなベッドで寝ているのだろう。そのベッドの寝心地がいいのなら、私もそこで眠ってみたい。誰も知らない土地でも今なら行けそうな気がする。誰も知らないところに行きたい。何も起こらず泣いたり怒ったり憔悴したり、そんな気持ちを感じない場所に行きたい。
彼の住んでいる場所を指でさして教えてくれたけれど、今はもうその街の名前は覚えていない。


搭乗案内を知らせるアナウンスが響いて、彼と私は立ち上がった。ひどく眩暈がした。Departureと案内するゲートに彼は少しずつ近づいていく。私はその瞬間、記憶が混乱し始めた。あの羽田空港の出発ロビーで泣きながら誰かを見送った気がする。振り返った彼は少し困った顔で一ヶ月の辛抱だよ、と言った。あれは誰を見送ったときだったろう。そしてもうひとつ蘇ってきた記憶は、信頼した誰かが海の向こうの異国へさようならと呟いて向かっていった。あれは誰を見送ったときだったろう。私は、どちらの記憶の中でも、何もできず何も言えずただただ佇んでいるばかりだった。何も出来ず何もいえないのは、悲しくて辛いだけだった。

じゃあ、行ってくるよと彼は言った。私は、うん、としかいえなかった。彼は一言二言私に問いかけた。私は注意深くそれに答える。私がいま考えていることは彼に知られてはいけない気がする。
結婚しようかと彼が言って、私はただ微笑んだ。じゃあまた今年の年末会おう、と彼が言って、私はそうだねと答えた。お互いが薄い笑みを浮かべて、お互いが想像していた通りの言葉を交わして、彼は飛び立った。最後に彼が言った言葉は、ちゃんと食べてちゃんと寝ろよ、と言っただろうか。

またいつか。
また今年の12月、トヨタカップと一緒に帰ってきてね。体には充分気をつけるように。
2004年01月11日(日)  浅い眠り
浅い眠りから何度も醒めて、時間を確かめてまた目を閉じる。

年末から続いている薄い風邪は、時々体を反応させたかと思うと、体の奥にじっと息を潜めていることもある。
夜にかかってくる電話は、極力とらないようにしている。その受話器からは母の粘着質のような声が聞こえてくるかもしれないし、兄の心配そうな声が聞こえてくるかもしれないし、或いは誰か別の男の声が聞こえるかもしれない。
怖い夢を見て、また目が覚めて、腕に爪を立てて、眠れず起き上がる。鏡を見て目の下のくまを撫でてみる。
食べることにも辟易してきて、外に出かけることも馬鹿げたことに思えてきた。
2004年01月10日(土)  終電を逃した人生
私は何を話すでもないのに、何をするわけでもないのに、それは禁じられているとわかっているのに、彼の部屋を訪れた。
突然と言ってもいいほどの恋人との別れは、私には信じがたく、昨日までどこも様子の変わったところはないのに、今日になると「別れよう」の一言であっさりと恋人関係の幕は閉じられ、彼の心は堅く閉ざされてしまった。何がどうなったのか、天地がひっくり返ったとしても、私にはこの現実を受け入れることは出来なかった。

君を嫌いになったわけではない。僕は僕自身が嫌いになったんだ。
彼の言葉すべては、何かの言い訳にしか聞こえず何かを隠しているようにしか聞こえず、私を責める言葉はひとつもなく、全てが僕自身の我侭であり、罪であり、このまま付き合いが続けばきっと君を傷つけてしまうからと言い、そして、“既に僕らは別れてしまっているんだ”と、私たちの終わりを勝手に事実と決め付け、私の言葉を受け入れる余地もなく、遮った。
僕は君が思っているほどの男ではない。こんな酷い男は早く忘れたほうがいい。

誰が、この言葉を聞き入れることが出来るだろうか。

せめて、他に好きな女性が出来たと言ってくれればいいのに。嘘でもいいから、そう言ってくれれば私は次のステップに進むことが出来るのに。なのに、彼はその一言をどうしても言わない。だから、私は色々と考えすぎてしまう。私に彼を思いやる心がかけていたのだろうか、彼を気づかないうちに傷つけてしまったのだろうか、彼を尊重できずにいたのではないだろうか、あの一言を、あの行為を、彼はずっと気にしていたのだろうか、私は女性として男性と付き合うことが出来ないのではないだろうか、自分が思っているほど、私は魅力もなく誰かに気にかけられることもなく、ただのつまらない女だったのではないだろうか。この一ヶ月間、それを思わずにいた日は、一日とてない。

驚いた顔をして、しかし彼は私を部屋に招きいれた。
なぜ来たんだと、彼は何度も私に尋ねる。僕らはもう恋人ではなくなったのに、なぜ君は僕に会おうとするんだと、詰問する。私は言葉が出ない。彼に言いたい言葉は何一つとして出ないのに、それでも私はここへ来てしまった意味を、自分でも考えて沈黙する。私の沈黙が彼を苛立たせる。
進まない彼の仕事。
現実を受け入れられない私。
苛立つ彼。
横たわる沈黙。

わかった。それじゃもういちどだけ説明するよ。僕らが別れた理由。もう一度だけ説明するから、だからもうわかってくれ。だからもう会いに来ないでくれ。

彼はそう言って、もう聞きすぎた、言い訳のような嘘のような夢のような言葉しか言わない。
これ以上付き合うと、君が傷ついてしまうから。あのころは楽しかったよ、君のこともちゃんと好きだった、別に他に好きな女性がいるわけでもないし、これといった理由はないけれど、僕はつまらない男だから、これ以上、君と付き合っても何もしてあげられないんだ、だから君を傷つけてしまう。君が思っているような男じゃないんだ。

けれど私は思う。真実はそれじゃない。そんな理由なら、私には覆せる。そんな理屈で納得できる人がいるだろうか。私が傷つくのをあなたが恐れているのなら、いま、充分すぎるほどあなたとの別れで私は傷ついている。未来のことをどうしてそんなに憂うの。未来はまだ訪れていないし、未来がどうなるかなんてわからない。あなたがつまらない男だとか、何もしてあげられないなんて、それはあなた自身が決め付けることではなく私が感じることなのに、それを勝手に決め付けないで。

彼は椅子に座りなおして、こう付け足した。

僕は、あるときから付き合っている恋人のことを好きじゃなくなってしまうんだ。
その証拠にセックスをしなくなるんだ。好きだと思えなくなるんだ。決して嫌いではないのに、好きだとは思えなくなるんだ。君と別れたのは、そう思い始めた頃だったから。この先付き合い続けると、君のことを不意に好きではなくなってしまうから、だから君を傷つけてしまうから、だから別れたんだ。

私は、彼の部屋を出て、終電に向かって走った。
そう、彼は愛情に関して一時の感情しか持てない人だった。それは長く続かず、何の理由も根拠もないのに、ふと恋人への自分の愛情に疑問を持ってしまうのだ。私はそれを知っていた。そして、私にもそういう経験を、そういう恋愛をしたことがあった。とても好きだったのに、とてもうまくいっていたのに、夜寝て朝目覚めると、恋人のことが好きではなくなっていた。男性として意識できなくなっていた。一緒にいて楽しいけれど異性の情はもてなくなっていた。小さな不安やすれ違いはあったけれど、けしてそれが好きではなくなる要因ではなかったのに、ある日突然、好きではなくなってしまう。そして、自分がどこか欠落した人間のように思えてしまい、責めてしまう。辛くなる。

彼と一番初めに出会ったとき、私は彼がそういう人だと知っていた。忘れかけていた彼の像が、彼の言葉によって思い返された。私は、そんな一時の感情の恋愛を繰り返すことは無かったが、彼はそんな恋愛を繰り返し今まで生きてきた。そして、私が至った思いは、今回の恋愛も、彼のつぎはぎのような恋愛歴の中のひとつにしか過ぎなかったんだと。パッチワークのようにつぎはぎされた恋愛たちは、短期間ではあったけれど、彼を愛し、彼を楽しませ、彼を見守ってきて、そして愛情は醒めて終わり、また新しい恋愛が始まっていく。彼の性質からすると、半年ほど続いたこの恋愛はどちらかと言えば長く続いたほうではなかっただろか。

駅に着くと、終電は5分前に出てしまったあとだった。
寒くて手の感覚がなくなって、耳が千切れてしまいそうだった。小一時間ほど私は駅の前に佇んでいた。つま先が痛みに悲鳴をあげていた頃には、もう、私は彼の言うことを受け入れていた。受け入れたら終わってしまうとわかっていたけれど、わかっているけど、でもどうしようもないことかもしれない。受け入れたらすべてお終いだ。私の信じていたものは嘘だということになってしまう。彼の言うことを受け入れると言うことは、自分で自分を裏切り傷つけるということになる。けれど、私に残された道は、彼を受け入れるということしか残されていない。

彼に電話をし、来た道を引き返した。彼は、「もううちに来ないって約束してくれたら、泊めてあげるよ。だってうちに来るほかないでしょ」そう言った。私は、彼がもっと私を罵ってくれたらいいのにと思った。嫌いだと汚いものでも見るような目で吐いてくれたらいいのにと思う。何も言わず、目も見ず私は彼の部屋にもう一度だけあがった。寒い夜だから、申し訳程度の暖かい肉まんと缶コーヒーを買ったけれど彼は口もつけずに、置いた。そう、暖かさが必要なのは、ずっと外にいた私のほうで、暖房の効いた部屋にいた彼には必要がなかった。黙ってベッドに潜り込み、背中を向け合って横になった。恋人同士であれば向かい合って暖めあって眠るのに。彼は泣きそうな困ったような笑顔を浮かべていた。私には、もう彼の気持ちがわかった。それが自分に都合のよい推測であっても、自分の経験から彼の思いを知ることが出来た。だから一秒でもここにいたくはなかったのに。ひとつの密室にこうして彼といるだけでもたえられなかった。息が止まりそうな思いがした。

嫌いになったわけではないけれど、好きじゃなくなったんだ。“嫌い”になったことと“好きじゃない”ということは、一致しないのかもしれないけれど、恋人との間での意味は根本的に繋がるのだ。

彼の寝息が聞こえてくる。私はもっと罵られたかった。そうしたら、もっとこの人から遠ざかる決心がつくのに。私は、今までにないほどの割り切れない思いを残しながら、この人を追いかけてしまっている。
眠りが深い性質の彼を揺すって起こした。「邪魔する気?」彼の声には棘がある。「明日、仕事なんだよ。いい加減にしてくれ」段々と彼の声が大きくなる。彼に嫌いと言われたかった。お前の顔なんか見たくないと言われたかった。やっぱり、罵られて別れたほうが、いくらか気分が落ち着いた。「嫌いだよ。もうやめてくれ」彼は唸るようにそう言った。

やっぱりここにこなければ良かった。どこかの店に入って始発の電車が来るまで時間を潰していればよかった。「嫌いだ」と言われて、自分の気持ちを整理することが出来そうだけれど、朝まで眠れない夜を、彼の寝息を聴きながら過ごすことは苦痛以外の何物でもなかった。自分が突然訪ねてきて、終電を逃してして泊まることになってしまった迷惑も顧みず、けれどどうしてももうここにはいられなかった。身勝手だと言われてもいい。「やっぱり帰る」といって起き上がると、「どうやって帰るの」と、彼も起き上がった。どうにかして帰るつもりだった。「そうやって、心配させるようなことをして、どうして君はそんなに僕に気にかけさせるの。君が家にたどり着くまで眠れないじゃないか。明日は仕事なのに、寝不足で仕事なんかできないよ」男の人にとっては、深夜に女性をひとりで帰すということは、それほど心配なことなんだろうか。もう別れてしまった彼女じゃないか。夜中にどうやって帰ろうと、びくびくしながら夜道を歩こうとも、彼には少しも関係がないことじゃないか。中途半端な優しさじゃないか。それがあなたには致命的なんだ。男として終電のない時間に女性を帰すことは、それほど格好がつかないことなんだろうか。明日の仕事に差し支えるっていっても、結局言っていることは自分中心なことじゃないか。私がどうやって帰ろうとも、あなたは眠っていればいいじゃないか。
彼が私の腕をとって、物凄い力で引っ張った。私はベッドに戻された。私の腕を掴んだまま彼は眠ろうとする。ここから一歩も動けないようにするかのように。私は、その彼の物凄い力が怖くなった。ぐっと引っ張られた腕が痛んだ。私には抵抗できない怖さが彼にはあるのかもしれない。

眠ることも出来ず、目を閉じたり開いたりしながら、私は始発の電車が来る時間を待った。うとうとしながら時間を確かめながらじっとしている。寝ぼけた彼が不意に腕を私の体に巻きつけてくる。抱きしめられて胸が苦しくなる。彼は一体どんな夢を見ながら私の体を引き寄せるんだろう。別れた彼女を抱きしめて一体何になるんだろう。
時計の針が4時半を指すと、私は彼に気づかれないようにそっと立ち上がって着替えた。彼の寝息が途切れないことをずっと願いながら。彼は目覚めたとき私がいなくて驚くだろうか。心配するだろうか。腹が立ったりするのだろうか。暗い部屋を手探りをしながら荷物を探して、もう一度彼の寝顔を覗き込んだ。暗くて何も見えない。足元に蹴りこんだ布団を彼の体にかけて、靴を履いた。彼の寝息が遠ざかる。彼は私が出て行ったことに気づいているのかもしれない。


いろんな理由があったのだろうけれど、彼の中でいろんな不満や不安や、私への違和感があったのだろうけれど、今はそんな理由はただの理屈にしか過ぎず、大事なことは「彼が私を好きではなくなった」ことだろう。それが事実だ。理屈は事実に劣り、決して事実を覆さない。そして、パッチワークのような恋愛しか出来ない彼を、私は同情するのだろうか。いや、しないだろう。そういう恋愛をする人も、現にいるのだから。こうした別れが来ることは目に見えていたのに、そんな彼を好きになってしまったあのときを、私はただただ自分の過ちとして据えていくのだろう。彼は私が思っているような人間ではないと言った。私が彼をどんな人間だと思っていたことを彼は知っているのだろう。そして、別れたいと彼が言った後、数通のメールをやり取りした中で、彼はこうも言った。彼にとっては、私が唯一の支えだったのにその支えを自分から取り払ってしまい馬鹿なことをしたと。この数ヶ月間彼が孤独にならないように私はずっと彼のそばにいた。私にはわからないが、彼にとって、私は唯一の心のよりどころだったのかもしれない。しかし、そこに恋愛感情が芽生え、これまでの恋愛と同様に、突然、愛情の醒めは訪れてしまった。彼にとっては私と一緒に過ごす必要がなくなり、それと同時に自分の孤独と向きあわなければならなくなった。それでも、私とよりを戻すことを拒んだ。孤独でもいいから、恋人の関係を解消したかったのだろう。

彼は、これからどうなっていくんだろう。いくつになってもこんな恋愛を繰り返していくのだろうか。10年後、20年後の彼は、どうなっているのだろうか。

数時間前に掴まれた腕が痛くて、彼の怖さを見た気がした。男の人は怖い。抵抗できず逃れることも近づくことも出来ない。強くて切れるような痛みを伴う彼の怖さを見た気がして、私は彼だけでなく男の人みんなが、怖い生き物に思えてきた。

男の人はみんな怖い。
2004年01月09日(金)  いなくなってしまった私
何があってそれほど泣いているのか、どうしてもどうしてもわからない。何が起こって何に対して怒っていて何に対して悲しいのか、わからない。ぜんぜんわからない。
どうして、みんなはそれぞれ進んでいるのに、どうして私はまだここに留まっているのか、どうしてもわからない。どうして誰も理由も言わずに勝手に進んでいってしまうのか、私には見当もつかない。どうしてどうして私だけひとりぼっちにされるのか、どうしてもどうしてもわからない。
絶望って一体どういう意味なのかわからない。

みんなが笑っているのに、どうしても泣きたくなってしまう。みんなが真剣になっているのに、どうしても泣きたくなってしまう。みんながいろいろ考えているのに、私は何も考えることが出来ない。何も何もどうしても。私はきっとだめなんだ。私はなにかがだめなんだ。何かがみんなより決定的に欠けているんだ。何もない。私はきっとだめなんだ。誰も助けてくれない。誰もわかってくれない。誰もいない。みんないなくなってしまった。家族も友達もみんなみんな、すべて消えていってしまった。私がいけないからみんなが消えていってしまうのだろうか。みんな全ての原因が今の私にあると思う。何も出来ない。何も知らない。誰もいない。何もない。私は何にも持っていない。鏡の中の自分を罵る。自分の顔を見ながら汚い言葉で罵りつづける。そしてみんな消えていってしまえばいい。みんななくなってしまえばいい。私に何も求めないで私に何も押し付けないで、だからみんないなくなって欲しい。私の記憶から出て行って欲しい。みんな嘘だ。みんな嘘をついている。本当のことなんか、誰も言わない。ぜんぶ嘘ばかりだ。何も元には戻らない。元に戻ったとしても同じ事を繰り返すだけだと思う。こんなに辛い思いをするなら初めから何もしなければいい。最後に辛い思いをするなら何もはじめなければいい。これからずっと一生何も誰も受け入れないことに決めた。何もしたくない。仕事もしたくない。恋愛ももうしたくない。あの家にも生まれてこなければよかった。もう生きていたくないと思った。ご飯をたべるのも無意味に思う。なんで生きているの。私は私じゃなくなってくる。数日前の私はもういなくなってしまった。
2004年01月08日(木)  ホントの気持ち
伝えたい想いがあるのに、うまく伝えられない。
うまく出来ない。うまく、うまく。

何事もうまくこなせる人間になりたい。器用で愛想が良くて、何でも出来る人間になりたい。

そうすれば、誰も私のことを嫌いになったりしないのに、と思う。
2004年01月07日(水)  夕方のカクテル
恥ずかしいことに、大人らしからぬことに、また人前で泣いてしまった。
どうして、こんなに泣いてしまうんだろう。もう、本当に自分にウンザリしてしまう。涙を流しているときは悲しくて悲しくて、なのに涙が止まったときは、言いようのない後悔が空虚感を感じて、興ざめしてしまう。
たとえばそれは、好きでもない男とセックスをしたあとみたいな。

昨日、取引先の人にメールをしておいた。
「新年のご挨拶に参りたいと存じます。明日、お時間をいただけませんでしょうか」
返信は、「夕方においで。予定がなければ食事にでも行きましょう」

彼は、年齢不相応の役職についている。若くして大きな業績を次々にあげていったという噂を聞いたことがある。頭のキレる人かと思い、初めてあったときは少し身構えていたのに、ざっくばらんというか、適当というか、契約を迫る核心の言葉を伝えると、「あなたにお任せします」と返ってくる。この仕事は君に任せるよ、キミの力量を拝見しましょうか、とでもいいたそうに。任されてしまうと私の自由に仕事が出来る反面、失敗してしまうとすべての責任が私にのしかかってしまい、結果、損失させてしまうのはクライアントである相手方だ。無理な我侭をいうクライアントのほうが手がかかるにせよ、それよりも難しいクライアントは、お任せタイプなクライアントだと思う。仕事の話をしに行くときは、30%が仕事のはなし、70%がプライベートなおしゃべりだ。話し口調は、私を子供のように、若しくは妹のように扱う。奇しくもわたしの異母兄と同じ年齢だ。

彼、直々に会議室へ通してもらい、「正月は実家に帰ってた?」というはなしから、彼が海外へ行った話、海外なのに日本人ばかりいた話、温泉があったので喜んで入ったら落ち葉だらけの湯だった話。そんな話題ばかりで時間は過ぎていった。
そして、急に真面目な顔になったかと思うと、来期から経費削減のために御社への発注機会が減るかもしれないという。“お前の会社”というときと、“御社”というとき、その声もその表情も、まったく違うものに思えてしまうのは、彼がこの外注先の営業マンとの会話の主導権を握っているということになるだろうか。とくとくと仕事の話が続く。何とかうちの会社が食い下がれるような情報を聞きたい。どうしたら選定外注会社に入れるのか。うちには何が足りなくて、何が他社より優っているのか。ふたりの会話は徐々にお互いの腹を探りながらの情報取引のようになっていく。はなしを続けるうちに彼はふぅーっと溜息をついて、前かがみにしていた体をソファーの背もたれに押し付けた。そのサインはこの取引は無駄だったと思ったのか、私に失望したということだろうか。
彼の表情は少し厳しいものになってくる。
少し呆れたような、苦いような笑みを浮かべて、彼は言う。
「君はいつでも、かたいな。」

彼は、優しい声で、少し表情を和らげて、子供に善悪の判断を教えるように、生きるための術を教える父親のように、そして私の目をみつめて話しはじめる。私の声は段々と小さくなり、目線はテーブルの上に落ちていく。
怒られているとは思わない。失望されたのかもしれないが、彼の言うことは間違ってはいないと思う。この人はただ、何かをわたしに教えようとしている。私自身に足りないもの、それは仕事の域を超えるとても大切なこと。それはまさしく生きるための術だといってもいいのかもしれない。人の立場になって考えること、簡単に捨て身にならずに自分を守ること、他人を信頼するということは一体どういうことかということ。何度も彼は「仕事以外でも同じことだ」と繰り返し「キミにこんなことを言えた立場ではないが」と言う。


午後四時半には、ビルを出てこの時間でもお酒が出る店を探した。
店の中は、外の明るさとは対照的に薄暗いライトに照らされている。
テーブルがあいているのにカウンターの席を彼は選んで、知り合いらしいバーテンとはなしをして、私のためにシェイカーを振ってもらった。

雰囲気で、この付き合いは仕事の延長上ではないと感じる。と言っても何かしらの遠まわしな思いや考えがあったわけでもないだろう、この人とたまにこうやって食事に行っても飲みに行っても、仕事の話はお互いの愚痴だけの範疇で終わってしまう、ふたりの間に横たわる契約の話に近い話題になれば、それは自然と逸れていく。

この人は、信用できる男なのだろうか。

お互いほろよく酔い、3軒のはしごをして腕時計を見る。まだ午後九時。
しかし、延長上の付き合いではないとはいえ、仕事上のお客であるには違いない。これほど、私をつき合わせてあれこれと話をするこの男は、一体私をどう思っているんだろう。
使えない営業マンと思ったか。
まだまだ期待できる営業マンと思ったか。
それとも、女と見ているか。
誘った礼儀で付き合ったのか。
彼の言葉の端々には、その理由を読み取る要素はまったくない。

酔っているとはいえ、ふらつくほどではない。丁度いい気分になるくらいのほろ酔い程度だ。彼は本当にお酒が強く、彼のペースに合わせることは出来ない。彼はよくしゃべりよく食べた。私は少し伝票の金額が気になり始めた。

ふと、彼が話の矛先を変え、私の仕事について突っ込んでくるようになった。仕事はどうだ?面白いか?生き甲斐に思っているか?今の場所に満足しているか?将来おまえは何をしたいのだ?
そして、急に私の目を覗き込み、「最近、疲れてないか?」と、そう言った。少し彼の言葉があたまに入ってくるのがゆっくりになってくる。噛み砕いてその言葉の意味や、その言葉を言ったタイミングを理解しようとするには、少し時間がかかった。ああ、そうだ。疲れている。正月明けの仕事はスローペースで始まろうとしていたのに、昨日と今日、私は一体何をしていた?そうだ、トラブル対応だ。人々の偏った欲望と濁った目が、頭の中をちらつき始めた。


昨年の12月頃から、自分のせいではないのにトラブルがおき続けている。いろんなところで、事態が混乱している。冬の休暇中も涙まじりの派遣スタッフの声が、携帯から聞こえてくる。それは、年が明けても続いている。
派遣契約は人を扱うものなので、たとえ私がへまをしてなくても、私が思うとおりに仕事をしたとしても、うまく事が成立しないときもある。そこには、私以外の派遣社員や派遣先社員の思惑や気持ちがある。説得し続けても必ずしも人の心をうまく扱うことは難しい。私は彼らの口から吐き出される自分勝手な言い分や主張をすべて吸収してしまう。人の濁った思いを吸収してしまうと、がくんと体が重くなってくる。力を振り絞ろうとしても立ち上がることさえ出来なくなってくる。そうなってしまうと、事態はどんどん泥沼にはまっていく。
この彼の会社との契約で、いまトラブルが起きているわけではないけれど、私の気の迷いと自信のなさと、いくら走り回っても何も状況が変わっていないことを見事に言い当てた。私はずっと疲れていた。

そうだ、さっき我慢していたこと。それは涙だったと、いま思い出した。

声をあげずに気の済むまで泣いた。けれど涙が枯れることはないだろう。仕事相手の前で泣くのはぜったいに嫌だったのに。この一ヶ月間のあいだに、失恋をした、家族の揉め事もあった。その涙を人に見られることがあっても、ぜったい仕事の涙は人に見せたくなかった。それが、営業という職を私が選んだ、唯一のプライドだったのかもしれない。別れてしまった恋人への信頼、家族との信頼、仕事上の信頼。どれも私は放棄しようとしていた、そして放棄された。恋のプライドも子供としてのプライドも仕事のものでさえ、私はこの瞬間にすべて捨てた。
彼はハンカチを取り出した。

泣いてばかりの年明けは、呆れるほどお天気のいい日が続いている。

とにかく、私は涙を見せてしまったことが悔しくて、彼の顔を真正面で見ることが出来なかった。痛いところをついた彼を、益々仕事のできる男なのだろうかと、脅威にも思うし、興味も沸いてきた。

仕事は辛い。
けれど同じ分だけ楽しみもある。仕事自体には泣かない。けれど自分の不甲斐なさに涙が出てしまう。自分の思う仕事には、まだまだ足りない自分がいる。人間としてもまだまだ足りない自分だということだろうか。

先ほどまで、あれほど私に質問を浴びせかけていたのに、その後の彼は、それをきっかけに何も聞いてこなくなった。多分きっと私が涙を見せてしまったことで、気を使わせてしまったのだろう。男の人の前で泣くのはルール違反だよなと思う。泣いてしまったくせに。
涙が止まって、少し落ち着いて、私は聞いた。「彼女を泣かせたことあります?」
「まあね」と胸を張って苦笑いを浮かべて彼は答える。

そうして、彼のおしゃべりはまだまだ続く。
2004年01月06日(火)  ミッドナイトコール 〜渡部潤一
ミッドナイトコール 最後の約束

「トゥルルル……」
深夜の十二時のラジオの時報と同時に、たった一回だけ鳴って切れるミッドナイトコール。今日で七日目。
テーブルには、いれたばかりのコーヒーのよい香り。カップを手にした僕は、切れた電話に向かってつぶやく。
「おめでとう。おしあわせに。」

もう一年以上も前のこと。彼女と最後の約束をしたのも、この電話だった。
「本当にこれでさようならだね?」
「………」
うつむいた彼女の姿が目に浮かぶような沈黙。そして、声にならない。これ以上、泣かせちゃいけない。
「ほら、覚えてる? いつか冗談で言ったろ。別れる時がきたら、お互い笑いながらさよならを言おうって。おまえ、本当に怒ったよな、あの時。もう何年も前になるようなあ。出会ったころだよ。なつかしいよな」
「ええ」
再び重苦しい沈黙。その重さに耐えかねて僕は切り出す。
「僕はもう君に言いたいことはすべて言ったよ。今まで君とすごしてきた時間、大切に心の中にしまっておくよ。本当に楽しかった。ありがとう。別れるときって、意外に素直になれるもんだね」
「待って。ひとつ、お願いがあるの」
「なに?」
「もし、あなたが誰かを愛して、結婚することになったら、電話が欲しいの。いいえ、コールだけでいいわ。話すのは辛いから。それとわかるように、そう、ちょうど深夜十二時に一回だけコールするのよ。それならわかるでしょう?」
「だけど、いなかったら伝わらないよ。寝ているかもしれないし……」
「結婚前の一週間、毎日かけるのよ。それならなんとかわかるでしょ?」
「了解。君らしいアイディアだね。じゃあ君が結婚することになっても……」
「ええ、あなたへ一週間、毎日コールするわ」
「わかった」
「約束よ」
「ああ、約束する」
「あなたには、こんなふうに、いつもわがままばかりきいてもらったわね。本当にありがとう。最後までわがままでごめんなさい。それじゃ切ります」
「うん。さよなら」
切れたあとのツーツーという電気音が悲しくきこえた。

彼女が結婚するという噂をきいてしばらくしてから、約束のミッドナイトコール、たった一回だけの呼び出し音が鳴るようになって、今日で七日目。明日はウェディングドレスに身を包み、幸せな笑顔をふりまくに違いない。だけど、その隣にいるのは僕じゃない。
彼女との思い出のなつかしさに、少しばかりの嫉妬がほどよくブレンドされて、今夜のコーヒーはいつもよりほろ苦い味がした。

著者:渡部 潤一
2004年01月05日(月)  新年おめでとう
ということで、あらためまして、新年あけましておめでとうござ。
今日は、嫌々ながら電車に乗り、嫌々ながら会社に行きました。あーん、嫌。今日は仕事始めなのでございます。あーん、なんか嫌だ。
で、朝8時半。会社は9時からなのだけど、30分前には会社に到着と思いきや、なななーんと、会社の鍵があいてません。みんな、お正月気分なのかどうか、誰も来てないみたいですね。もう一度、一回まで降りて警備室で鍵をもらってくる。ところで、朝のエレベーターは順番待ちが多いですね。朝も電車は混んでるしエレベーターも混んでるし。日本のサラリーマンは辛いわぁ。

朝から、会社でひとりぼっち。そうそうそう。お土産をみんなのデスクに置いとこうかな。うんうんうん。この人は仲がいいからみっつ、コイツはむかつくからふたつ、上司は嫌いだからひとつ、てな風にみんなに配り終わると、早速仕事に取り掛かる。

9時に2分前。
みんながどやどや出勤。おはよう、おはよう、やあ、おはよう。

で、私のデスクの前のKさん、「おめでとうー」私に向かってそう言った。
ん? めでたいことがあったかしら?「ありがとうー」そう答えた私に、同僚達が一斉に笑い出す。
ん? なにが可笑しいのかしら?あけましておめでとうって意味だよ、ああ、そういうことか。なんだよ。ちゃんと言ってほしいなぁ、そういうことはさぁ。

11時ごろまで、社内で仕事をして、さて、どこに営業に出ようかしら。休み明けだしアポイントもとってないしで、隣の席のHさんと目配せして、先に私が外出する。駅近くのカフェに入ると、「ホットミルクティー」と言って煙草をふかす。10分ほどしてHさん到着。「カフェモカ」と言って雑誌を営業かばんから取り出す。

やる気しない、正月明けの出勤。ふぁふぁふぁふぁふぁーと何度あくびをしたことか。
16時ごろ、会社に戻って、みんなのお土産のお菓子を食べながらジュース飲んでパソコンいじって、ハイ、お仕事終わりー。18時には会社を出ました。

ふぁあぁー、やっぱサラリーマンって辛いわぁ。
こんなに暇な日がどんなに辛いことか!
何杯、紅茶を飲んだことか!
何本、タバコを吸ったことか!


うん、明日からちゃんと働きますってば。
2004年01月04日(日)  いなくなってしまった人
これから数日間は、あなたは私のことを考えるのでしょうね。もちろん、私も同じです。忘れよう、忘れなければと思えば思うほど、あなたのことばかり思ってしまっては、腕に爪をたてていたりします。
あなたと会った頃は、あなたは本当に鈍感で、だからこそ私を知りたいと思うあなたの思いが、私にとっては本当にとても嬉しくて。ひとりぼっちのあなたに私が寄り添いたいと願ったのは、とても自然なことだったとも思います。はじめは、本当に辛くて本当に悲しい思いをさせてしまったね。辛かったでしょう。寄り添っていたとはいえ、何も出来なかったあのころの私を、今でもとても歯痒く思います。やっとふたりだけになれたとき、あなたは段々と私に慣れてきた。鈍感だったあなたは、どこにもいなく私の目の前に現れたあなたは、どこにも行かずずっと側にいてくれるような錯覚さえもたらせて。そんなあなたと居て、私はきっと幸せだったんだと思います。終わってしまったことを思い返して、幸せだったなあなんて思うのも癪なんだけど。本当に毎日が楽しかったね。夏が終わって秋になって冬が来て、楽しかったの一言に尽きるのではないでしょうか。私は、本当に好きすぎてしまいました。夜中に、目が覚めて時計を見ればまだ4時くらい。あなたが夜中まで仕事に打ち込む姿を思い浮かべたことが何度もありました。あなたの家に行きたいと思って、電車に乗り込んだけれど少し怖くなって途中の駅でおりてベンチに何時間も座っていたこともあります。さっき切った電話なのに、もういちど受話器をとって声を聞きたくなってしまう。
好きなのに、なぜかイライラしていました。
それは愛ではなく、ひとりよがりの恋になってしまったんだと思う。
だからあなたが、私に何もしてあげられないと思うことは、至極当然です。私はあなたの支えになれていたと思えません。度が過ぎて自分勝手になってしまった。あなたが私を突き放そうとするのも、私があなたと同じ立場ならそうしていたと思います。私の思い描いていたあなたは、本当のあなたではなかったのかもしれませんね。私は自分を見失っていたと思います。

辛い仕事をしているね。身を削ってまでもやりたいことをしているね。あなたはすべてを周りのせいにして人にあたり散らしていると言ったけれど、それは私も同じことをしていたんだよ。私の仕事も身を削るようなものです。夜にあなたから電話をするたび、どれだけ私はあなたに心のもやもやををぶつけていたと思いますか。けれど、あなたは優しすぎたのでそれを自分のせいだと思っていたでしょう。誰にも愚痴を吐かずイライラも見せずに生きていくことなんか、ましてや自分の気持ちや考えを表現する仕事をしているのであれば、そんな生き方なんて不可能に近いと思います。あなたのしていることは、ごく自然なことだと思います。けれど、あなたはとてもいい仕事をすると思うよ。私があまりあなたの仕事に口をはさむことはできないでしょうけれど、私の勘はそう言っています。私だって、音楽をしていた身なので、表現者の辛さや成功してきた人を目の当たりにしたこともあるので。だから、たとえ辛いと思ったとしても、それ以上に喜びが訪れることを忘れないで下さい。それを忘れなければ、きっといい結果が生まれるから。

私、あなたを失った今、自分自身を慰めるためにこう思うようにしました。
私もそうなんだけど、あなたの幸せは、きっと他の人より少し、遠くにある気がします。そして、自分が幸せの中にあることにとても鈍感で、自分の幸せの訪れにとても敏感だった。だからこそ、あなたにとっての幸せって少し遠くにある気がするのです。けれど、それを不幸だと思ってはならない。あなたの中にある大きな空洞は私の中にもあったけれど、私たちに足らなかったのは、その幸せの先に、お互いが何を求め、何を与えればいいのかわからなくなったのです。あの時分、幸せだと思っていた。けれどその先には一体何があるの?このまま幸せが続くの?私はあなたに何かを求めていて、あなたもそれに懸命に応えようとしていた。『愛の言葉を囁いたり、食事に出かけたり、プレゼントを贈りあうことは誰だって出来る。けれど、それ以上、進むことが出来なかった』そう、それ以上って一体なんなのかしら?いま、幸せだと思う先には一体何が待ち受けているのでしょう。きっと何も待ち受けていない。私たちがすべきことはそれ以上何もなかったでしょう。私たちは、いま幸せの真っ只中にいることに少し鈍感で敏感すぎた。その先の見えない何かに怯えていたのかもしれません。
だから、あなたが、私が、お腹一杯に幸せになることは、人より少し遠くにあるのかもしれません。
もうこれ以上、何も出来ることはないのに、なのに私たちは何かしなければと、狼狽した。そうすることで、また自らの手で幸せを遠くに押しやっていったのです。決してあなたの仕事のせいで私たちは別れたのではないでしょう。もっと別のところに私たちのすべての理由と言い訳と意味と価値があったのでしょう。
これは綺麗事じゃない。自分に酔っているわけでもなければ、顕示欲や憂いや慰めでもなく、ただの事実です。

あなたは大丈夫ですか。
私は、たぶん大丈夫です。
朝起きて、あなたのいない一日が始まるのかと思うと、絶望の中にたたされてしまいます。仕事をしているといくらかは気分がまぎれるので、昼間は仕事に没頭することになると思います。夜になって部屋に戻ってきて、ああ諦めなければ忘れなければと思いながら、決意を固めるのだけれど、朝になるとあなたがいないことにまた涙が出てきます。こうやってこれからの私の毎日は繰り返されていくことと思います。そうしてだんだんと、夜の私と朝の私の落差が縮まってきて、すっかり泣かなくなったとき、はじめてあなたののことから一歩を踏み出すことが出来るんだと思います。
そして、あなたはとても魅力のある人で、そしてとても淋しがり屋だからきっとまた恋愛をしていくでしょう。あなたは、多分、相手が私でなければきっと幸せを引き寄せることが出来るでしょう。あなたが、僕はキミに相応しい人間ではないと言ったように。


私たちの恋火は短い期間で燃え上がり火花を散らせてじゅんと音を立てて消えていった。私はけれど、その短い期間の中でも全身全霊を傾けてあなたを好きだった気がします。私は、きっとそれを幸せだと思わなければいけないのでしょうね。
もう二度と会えない。
私は、恋や愛が永遠でないように、永遠の別れもないのだと言ったけれど、もう会うことは永遠にないのかもしれないね。
2004年01月03日(土)  行方
年が明けて3日目。
私は、朝早い時間に羽田空港へ戻ってきた。コーヒーを飲み、迎えのバスが来るのをじっと待っている。

祖父がそれを言い出したのは昨年の12月になってからだと、母に聞かされた。その頃の母は毎晩のように、私に電話をしてねっとりとした声で不満を漏らし続けていた。母も精神的にまいっていたのだろう。不満を言える相手が私しかいなかったことは、充分承知していたが、私も私で、毎晩泣き続けていられるほどの出来事を受け止められずに戸惑ってばかりだった。
祖父が異母兄を実家に連れて来いと、私に言った。最初は兄も遠慮がちに断っていたが、そのうちだんだんとその話題を避けるようにしていった。兄が祖父を好きではないことを私はよく知っている。祖父が兄に来て欲しいと言った理由は、家族を大きく揺るがすような内容で、そのために私の母は半狂乱になったし、私の父ははじめこそ唖然として祖父に抗議をしたが、そのうち貝のように口を閉じていった。そして、兄の母親は(これは兄から聞いたのだけれど)複雑な顔をして、そして泣いたという。そして私は、誰に対して思いを馳せたらよいのかもわからず、一体どう思えば良いかもわからず、ただただいろんな方向に考えを巡らせては、それを打ち消しまた考えるといった作業を繰り返していった。誰の気持ちもわからなかったし、自分の気持ちさえわからなかった。兄は、何も言わず、だから私には兄がどう感じているのかなどわかるわけがなかった。

12月29日の朝、私と兄は飛行機に乗り羽田を出発した。飛行機が到着するとバスに乗り、駅まで向かう。駅で少し休むと、電車に1時間ほど揺られ、片田舎の閑散としたホームに降り立った。時刻は21時になろうとしている。兄と私は移動の間、ずっと他愛のない話を(例えば仕事の話や、共通の知り合いの話なんかを)したり、眠ったり、本を読んだりして過ごしていたけれど、そろそろ電車が目的の駅に着き、母と父が駅まで迎えに来ているだろうという頃、兄は今回の出来事について、こう口を開いた。「僕がこの街に来たのは、もう20年も前だった。その頃の記憶は途切れ途切れで、あまり覚えていなかったので、こうしてもう一度ここを訪れるということは、不思議な感覚がする」と。私は、兄がうちを訪れたことをよく覚えている。カーテンの隙間から見えた、女性と男性、そして小さな男の子。私は、カーテンが揺れないように、気づかれないように、じっと身を潜めて彼らが何者かを想像していた。兄は、私に何も心配しなくていいと言う。お前が心配しているようなことにはぜったいにならないからと、確信をもってそう言った。私はその兄の言葉に、静かに傷ついていった。私が今回のことでどれほど心を揺らしたかを兄は知っているはずなのに、私は知らぬまに、蚊帳の外に追いやられたような気分もした。

何度も頭に思い描いていた緊張の瞬間は、とうとう訪れ、異母兄はわたしの母と対面することになる。父が車から出てきて、母が運転席のドアを開けた。私は兄の後ろからその光景を目にした。時がスローに動いているようで、気分が悪くなり、心をぎゅっと硬くした。
父が兄のバッグを手に取り、私のバッグも手に取り、「よく来たな」と兄に向かっていった。母は、車の側から離れなかった。怖い、と思った。何もかもが怖い。この瞬間も、この場所も、この目の前に立っている人たちでさえ、怖いと思った。どこかに消えてしまいたいと思った。兄は母に向かって会釈をしたような気もしたし、何か言葉をかけたような気もするけれど、私の記憶は少しその部分では途切れがちになっている。怖くて怖くて、手を使わなくても、私の耳や目は閉じられていたのだと思う。
母が食卓に、私と兄の分の食事を並べ、私はいつも座る椅子に腰掛けた。うちの食卓は3つの椅子しかない。兄は母に勧められ父がいつも座る席についた。母は、取り乱しもせず異常もなく、私に対する態度と変わらず兄にも話しかけている。全ての食事を並べ終わると母は居間に向かい、テレビを見始めた。父は、そわそわと冷蔵庫をのぞいたり、私たちに話しかけたりしていたが、やがてグラスを3つ取り出そうとして、私にたずね、やはりグラスを2つにして、ビールを注ぎ始めた。二つ目のグラスに注ごうとした父の手を、兄が制して自分で注ぎ始めた。そうして、二人は酌をしながらビールを飲んだ。
きっと、父は兄とこうしたかったのだ。

二世帯住宅といっても、玄関も台所も、そして食卓も別々にしてある我が家は、祖父の家は玄関を降りて別の玄関から入らなければならなかった。兄はお土産を手にしてひとりで祖父の部屋へ行き、すぐに戻ってきた。父が心配げな顔をし、母はテレビを見続けていた。

兄は、私の部屋に布団をしき、そこで眠ることになった。兄は、中学生の頃のままの私の部屋を興味深く隅々まで眺め、そしてやっと安心したような溜息をついた。部屋には本棚がふたつあり、ひとつはとても洋式の立派な、天井まで届く高さのものでガラスの扉がマグネットでとめられている。扉や引き出しの取っ手は、何かの草のつるをデザインした形で、2段目の棚には私が幼い頃の写真が飾られている。そしてその本棚には、きっしりと本が並べられている。誰の趣味でこの本が選ばれたかは知らない。歴史上の人物の解説本、田辺聖子や向田邦子の本、シドニィシェルダンの本や、子育ての本。そして勉強机は、中学生の頃の私の背丈に合わせられて、高さを調節してある。参考書や練習問題が科目順に並べられていて、その背表紙は陽の光で少し褪せている。私は、中学生までをここで過ごし、そして家を出た。この机であのころ一体何を思い、何を考えていたのか、あのときは兄の存在さえ知らず、けれど悩みは日々多く、そして友達も多くいて打ち込むものもあった。母や父に反抗したこともあれば、黙々と勉強をしたこともあった。あのころの私は、この机に座って一体何に悩んでいたというのだろう。今の私からはとてもちっぽけなことでも、あのころの私は、それなりに真剣に物事を見つめようとしていたと思う。兄が椅子に座って机を撫でる姿を見ながら、そう思った。兄は、何を一体思っているだろう。私は少し泣き、弱った顔をした兄にどうしていいかわからないと答えた。どう思えばいいかわからないとも言った。それはみんなも同じだよと兄は言った。

明日の夜、私たち家族は皆がひとつの部屋に集まり、何らかの結論を出すためのはなしをすることになっている。席は祖父が設けた。私がそこにいる必要があるのかないのかはわからないが、祖父が決めたことを破る者は誰もいない。

冷たいベッドにもぐり体を丸めて眠ろうとするけれど、冴えてしまった脳が眠ってくれようとはしない。ベッドの脇の布団の中にいる兄も、何度か寝返りをうっていた。向かいの部屋に布団をしいた父と母は眠れるのだろうか。

私たちは、明日、一体何を迎えて、どんな現実を見つめるのか。私がいまいるこの場所は、保証されたものではなくなってくるのかもしれない。私は私でなくなるかもしれないし、私は私のままかもしれない。なんらかの結論が導き出されたとしても、私にそれを覆す力はひとつもない。身を任せるしかないのだろうけれど、私はなにもかもが怖くて淋しくて、その気持ちを何を以って解決できるのかまったくわからなかった。逃げ出したくてたまらなかった。不安で仕方なかった。淋しくて死んでしまいそうだった。そんな自分を捨てたかった。兄はもう眠ってしまったのだろうか。自分のベッドから布団を引きずって、兄の布団に黙って潜り込んだ。

翌日の昼前に、私は目が覚めた。誰も起こしてくれないといつまでも眠ってしまう。一瞬、ここはどこだろうかと思ったけれど、すぐに思いは蘇った。今日が来たと思った。それがその日に最初に思ったことだろう。兄は既に起きて階下の居間にいるようで、ドアを開けると誰かの話し声が聞こえた。

兄に誘われ出かけると、歩いて20分ほどの場所に海が見える。
冬の海は、寒々とした波を泡立たせているだけだった。黒いウェットスーツを首までひっぱりあげて、サーフィンをする男がいた。今日の波は彼にとっていい波なのだろうか。兄はこの風景にくつろいでいるようだった。砂浜に腰をおろして風に吹かれる髪を押さえながら、私はそのサーフィンをする男を眺めていた。
「小さい頃に、一度おまえのうちに行ったことをはっきりとは覚えていないけれど、帰り際にこの海に来たことがある」 そう彼は言った。兄の叔父にあたる男性と兄の母にここに連れられてきた兄は、この海で砂だらけになりながら遊んだと言った。雨も少し降っていたかもしれないな、と言う。そうだったかな、と私は思った。兄の叔父は数年前に癌で亡くなったという。兄の祖父も癌で亡くなった。自分の家系には癌で死ぬものが多いから、きっと将来は自分も癌に侵されるだろうといった。あいの家は癌で死んだものはいないし、祖父も元気そうだったから、おまえは癌で死ぬことはないよ、と兄は笑った。私は兄の笑みにまた少し静かに傷ついた。兄には兄の家系があり、私には私の家系があり、それが違うからこそ、ふたりがいつか死ぬときの原因は、別のものになるんだと言う。兄は私の兄であるのに、私は癌にならず兄は癌になるのかもしれない。当たり前のことで、非現実的な話でもあるけれど、それが少し、しかしやはり、兄は自分自身を蚊帳の外に立たせようとしている気持ちを見た気がして、私は息を止めて耐えた。

砂浜はどこまでも白くてどこまでも続いているように見える。二人連れが散歩をしている。子供が声をあげて喜んでいる。サーファーが飛沫をあげて板から投げ出される。いつもの年末の慌しさのあとには、一瞬の静寂が訪れ、まもなく新年を迎える。今年のたった最後の数日間をこうして穏やかに過ごせることは、幸せなことだと兄は言った。

私たちは、祖父が指定した場所に向かうため、砂浜からゆっくりと腰を上げた。私はひどく眩暈がしそうだった。一秒たりとて時が過ぎることが怖いと思った。
2004年01月02日(金)  親友とキスをした
久々に会った地元にいる親友とキスをしてしまった。
酔っていたし、私は泣いていたのだけど、でもキスをするとは思わなかった。親友とキスをした。何も出来ないでいた。ただただされるがままだった。

私のことを可哀そうだと思ったのかもしれない。家族のことで悩んでいた、恋人に突然別れようと言われた、そんな私に同情したのかもしれない。ただの悩みではなかったし、ただの失恋ではなった。そして、私たちは酔っていて、周りのみんなも酔っていて、事態が錯乱していた。私はずっと恋人のことや異母兄のことを考えていて、だから親友は私にキスをしたのだろうか。

死ぬまで友達でいられると思っていた。
キスしたくらいで、友達でいられないわけではないだろうけれど、でも彼は私にとって恋人でも兄でも入る隙のない、精神的に親密な間柄だった。だから、私にとってはその場で倒れてしまいそうなほど深刻なことだったと思う。

彼に引き寄せられた私の腰は、まだ彼が手を添えているようで、なんだか自分のものではないようで、ものすごく違和感があった。どうしようどうしよう。ずっとそんなことばかり考えている。私が彼に頼りすぎていたのだろうか。彼の同情を仰いでしまったのだろうか。どうしようどうしよう。なんだかすべてのものが、私の信じていた価値とは違ってきているようだ。親友とは男女の間柄にはならないと思っていた。けれど、それは違っているようだ。実際、今こうしてキスをしているではないか。私がこれまで考えてきたことや、自分の中で据えていた価値観は、一体何だったんだろう。

彼の言った言葉や視線が、今でもはっきり思い出される。

自分に辟易する。もう少ししっかりしていればこんなことにはならなかった気がする。自分で自分を軽蔑して、自分で自分を嫌悪する。なんだかとても低次元なことで悩んだために、とても大きな失敗をしたような気がする。私は、ひとり友達を失ったかもしれない。

どうしよう。
これからどういう風に彼と接して行けばいいのかわからない。
キスをした後、彼はゴメンと謝った。
2004年01月01日(木)  寒い日の星空
今日から2004年が始まる。
私にとって最悪なスタートとなった。けれどもちろん、それはすべて私自身が招いたことなのだけれど。

夕方から、中学の幼なじみである女友達ふたりと飲みに出かけ、話題はそれぞれの仕事の愚痴を中心にして進み、話が深まるにつれ酒の量は多くなり、それほど、酔いが深くならない私だったのに、あっという間にグデングデンになってしまうと、途中で話題はありがちな恋愛話しになっていく。私はあまり自分のことを(自分の恋愛を)人に話すのは好きではないので、ずっと聞き役に徹していたけれど、頭の中に浮かぶのは、突然別れを申し出た彼の顔ばかりだったりする。

携帯電話に男友達から電話が入り、いま近くの店で飲んでいて男ばかりでつまらないからこっちにおいでと言う。
田舎は狭い。数軒しか居酒屋がない中、どこかの店には必ず知り合いが飲んでいる。早速、皆が集まる店へ場所を変えて飲み直した。中学の頃の同級生、その同級生たちの友達、知っている懐かしい顔、初めて会う顔なども含め、ざっと10人程度で賑やかにのむ。

すぐに店を出てカラオケボックスに入った。
カラオケはあまり好きじゃない。今ははしゃげる気分でもなかったのだけれど、とりあえず店から出た流れでついていった。その中にミスチルをうまく歌う男の子がいて、彼は私の好きなミスチルの歌ばかり歌う。その曲を聴きながら、こんな夜を思い出した。彼の肩に顔をくっつけて、私は言った。「ふたりの思い出の曲が欲しい」と。彼は言った。「思い出は作るものじゃなく、別れた後に残ったものが思い出になるんだよ」と。

「ミスチルすき?」
と、歌い終えた隣の彼に聞くと少し照れた顔。目もあわさずに私に話し掛けられたのに緊張した顔で、
「うん、すき」 と答える。
「一番好きな曲、なに?」と聞いたら、うーんと難しい顔をして「シングルカットされてないアルバムの隅に入ってるような曲」と答える。「じゃあさ、“つよがり”とかは?」
「大好き!」

彼は、今日会ったばかりで居酒屋ではあまり口もきかなかったのに、“つよがり”歌ってみて?と言うと少し緊張しながら唇を引き締めて分厚いカラオケ曲本の中から、その歌を探しはじめた。
かわいいなと思う。
私に慣れなくてたどたどしく話す口調と、歌っている声は別人のように思える。

外に出ると周りの店はコンビニくらいしか開いていない。幹事役だった私の幼馴染が、「次、どこ行こうか?」と聞いてくる。彼の吐く息は白い。カラオケに入っても飲み続けていた私は本格的に酔っていた。地面がくらくらと回る。ミスチルの子に支えられる。帰りたくなくなる。どこか行きたいと耳打ちする。ふたりでこっそり抜けた。

タクシーに乗る瞬間、「本当にいいの?」と話し掛けられる。そんなことわざわざ聞いてくれなくてもいいのにと思いながら、半分眠りながら何度も頭を縦に振った。どこか行きたい。どこにもいたくない。車をおりて暗くて細い道を手をひかれながら歩いていく。一体どこへ連れていかれるんだろう。辿り着いたところは、大きなコタツのある家。親たちは向こう側の家で寝ていて、ここははなれになる。だから誰もこないからゆっくり寝ていいよと、彼は言う。
まじまじと彼の顔を見た。
私の好きだった人とは違う顔。
鼻筋がきれいにとおっている、本当に小さな顔。胸板は薄っぺらくて同じ歳の子とは思えなかった。目が澄んでいる。
女の子と話すのが苦手みたいに、ゆっくりと言葉を選ぶようにして話す。話し終えると、唇は真一文字に結ばれる。
居酒屋で何度も話したことだろうに、私にも一度は話したはずだろうに、どんな仕事をしているの?いまは東京にいるんだったよね?いつもどのへんで遊んでるの?その質問に確実に着実に誠実に彼は答えていく。

彼は多分、自分からは何もしない。私が何か言わなければ絶対何もしない。そういう確信と並行して、きっと彼が私をここへ連れてきたのは、私が強引すぎたからだろうと思う。彼は自分からは何もしないだろうから。
私は一体ここで何をしているのだろうかと思う。一体誰と一緒にいるのだろうかと。
この人は何もしない。自分からは何もしない。私が誘わなければ何もしない。それはなぜだろう。どうして何もしないのだろう。なぜ。いやいやながら連れてきてしまったのだろうか、どうでも良かったのだろうか、別にたいして何も思っていないのだろうか、私に魅力が無いからだろうか、だから、いなくなってしまった恋人も私に飽きたのだろうか。魅力が感じられなくなったのだろうか。一緒にいてもいなくてもどっちでも良くなったんだろうか。どうでもいい存在になりさがってしまったんだろうか。

そんな疑問系の思いがぐるぐる頭の中を回り続けるけれど、怒りや悔しさや悲しみや辛さなどという、感情は微塵も浮かんでこず、ただただ複雑に絡み合った自分の感情をひとつずつ取り出して頭に浮かべることしか出来なかった。誰に対しても、何に対してももうなんとも思わないような、一切感情を持たないようなロボットでいられたらいいのに、と思う。

静かな沈黙が、ふたりを緊張させているように思える。

眠っているのだろうか、起きているのだろうか、どっちともつかない時間が流れて彼の顔を見上げると薄っすらと開いた彼の目とあった。何やってんだろうと、私は天井を見上げた。

陽が昇るまでには家に帰っておかなければいけない。
彼の車が誰も走っていない道路を走り抜ける。まだ暗い空に星が満点に光っていた。
「東京ではこんなふうに見えないよね」
東京では、一度だってこんなきれいな星空は見たことがない。
「あれがオリオン座。」
私の知らない星座を他にもいくつか、彼が指をさして説明してくれる。さっきまでの緊張したような話し方や態度はいつの間にか見受けられなくなった。本当に可愛らしくて、子供のようだ。
海が見える場所を、車を走らせながら少しずつ私の家に近づいていく。
「東京で会える?」と彼は言った。多分、会うだろう。
東京にいる地元の友達は私が思っているよりたくさんいて、今度集まって飲もうといっていた。そこで会えるだろう。「今度、みんなで集まろうって言ってたでしょ。そこで会えるよ。」
彼がどんなふうに私と会おうとしているのかなど、あまり考えようにした。

寒くて寒くて、とても空しくなってくる。どうして私生きてるんだろうって。

彼のトレーナーのにおいは子供のにおいがした。
小声でまたねと言って車をおりる。静かに車のドアを閉めて真っ暗な家に戻る。時計を見ると午前五時をまわろうとしている。鏡をのぞくと目の下に隈が出来ていた。何をするわけでもなく、会ったばかりの男の子と一晩を過ごした。
「何やってんだろう。」と、声を出して言ってみる。隈は相変わらず、そこにある。少し中空を眺めて朝が来るのを待った。

数時間も眠れず、朝から本を読んでいる。

ふと思うのは、昨晩一緒に過ごしたあの彼の名前は、なんて名前だったろうと思う。一生懸命思い返してみるけれど、なにも思い浮かばない。名前さえもわからず、電話番号も交換することも無く、だからきっともう会うこともないのかもしれない。
Will / Menu / Past