umityanの日記
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2010年06月12日(土) 蒸し暑さが僕に何かを言わせる。

いよいよ梅雨に突入か?。どんよりと曇った空。蒸し暑い。暑けりゃあー暑いで、文句の一つも出るし、寒けりゃあーー寒いで不満たらたらだ。しからば、春や秋のように、穏やかで過ごしやすい季節が一番いいかというと、そうでもない。春は、うららかさとは裏腹に、気分が優れず、秋はもの悲しく、人が恋しくなる。要するに年から年中、人間は物事の移り変わりに、一喜一憂しながら生きているわけだ。現金といえば現金、わがままといえばわがままだ。

そんな一人である僕も、今日は、机にこずまれた未処理の書類を、しげしげと眺め、そろそろ手をくださなくちゃあーーと、腕を伸ばすが、すぐ、引っ込めてしまう。まだ、早いか?いや早くない?、うんんんん、まだ早い。いや、早いに越したことはない。思案の末、結局、手が伸びた。先ほどまでパソコンを叩いて、一件、書類をかたづけた。まあ、とにかく良かったという思いだ。今、ミニ休憩時間。恐らく、午後1時頃まで、のらりくらりの「だらんべー」になっているだろう。

その一環として、今、この備忘録らしきものを、したためている。家の周りがやけに騒がしい。田んぼから、久しぶりに機械音が聞こえているのだ。麦を刈った後の切り株を土に戻し、田植えの準備が始まったのだ。いちもの風景。やがて、一面に水が張られ、一反単位のプールがあちこちに出来る。この水が幾分か涼をを呼んでくれるので有り難い。やがて、この水をご飯として、すくすくと稲が育つ。ただただ、自然の営みに畏敬の念を感ぜざるを得ない。

もち、僕も自然の一部として生を営んでいるが、稲や他の動植物の営みに比べたら、お粗末と言わざるを得ない。何故って?。そりゃーーーわがままだからだ。心もベビーのように、まっさらではなく、既に灰色だ。かつ、人間社会は、昔も今も権謀術数渦巻く、カオスの状態にある。そのカオスの中に、どっぷりと浸かっている。「いい湯だな」という訳にもいかない。

「いったい、世の中のどこに、美しき物がありましょうか」と、嘆いていた人がいた。そう言えばそなんだよなあーーー。美しきものかあーーー?。人物で言えば、小野小町、楊貴妃、クレオパトラ、オードリヘップバーン、エリザベステーラー・・・・、皆、一世を風靡した美女ばかり。だが、悲しいかな心が読めない。

「心を読んでどうすんの」、「あんたには教えなああーーい」。娑婆世界で、酒を飲みながら、女性を口説いたとき、言われた言葉だ。当然と言えば当然か。美しき物・・・・・それは個々の人間の心が決めるもの。そういうことにしておこう。おっと、僕のミニ休憩時間も少なくなってきた。訳の分からない話は、これで止めておこう。


2010年06月08日(火) 家庭菜園、花盛り。

最近、車で農道を走っていると、「貸し農園」とか「貸し畑」とか銘打った立て看板を目にする。土・日でもないのに、車で乗り付け、せっせと手入れしている人たちの姿があった。「家庭菜園ってやつかーー。なるほどねー」、猫の額ほどの畑でも、何かを作り育てあげれば、その成長過程を目で追うことも出来るし、たわわな収穫があれば、喜びもひとしおだろう。

ただ、現地が目と鼻の先にあれば、十分世話も出来るが、遠方にあれば、大変だ。日々、行くこともままならない。と言うことは、金と時間に余裕のある人達の、ささやかな趣味?・道楽?と言うことだろうか?。土。日には、孫や子供を連れて、総出で畑に赴く。「ここが、じいちゃんが作っている畑ばい」と、鼻の下をこするながら孫に説明する。「じいちゃん、えらい」と孫達が褒めたたえ、せっせと草むしりを手伝うだろう。ほほえましい光景だ。

僕は畑作業というか?、農作業というか?、とんと経験がない。もっぱら、家の周囲の雑草刈りと、雑草の焼却処分と、時折、花を植え、水かけ作業をする程度。これらは作物を育てるってものではない。雑草刈りも草焼きも、機械での作業。あたかも、ランボーになったかのごとく、機械を振り回す。したがって、近所の人たちも近づかない。危なくてしょうがないからだ。そこが僕の狙いでもある。幼稚園児たちが、不思議そうな眼で僕の姿を見ていると、母親が、子供の手を引っ張り、そそくさと去っていく。

家庭菜園では、機械を使うというわけにも行くまい。ほとんどが手作業だ。肥料をやり、水をかけ、雑草をむしる。根気のいる作業だ。手を抜くと、またたくまに荒れ地に早変わり。作物が立派に育たない。立派に育たないと足が遠のく。結局、放棄することになる。「好きこそ物の上手けれ」と言うが、やはり、土いじりが好きということが長続きの秘訣だろう。

あえて、畑作業?をしたことがあるとすれば、学生時代に親戚のおじさんから紹介された、い草(畳表の原料)刈りのアルバイトくらいだろう。い草は寒いときに植え、田植えの前に刈り取る。バイト料が良かったことと、夏休みだったので、これ幸いと引き受けた。期間は一週間程度。

右も左も分からずに、言われるまま、い草を鎌で刈り取る。家族のみならず、加勢の人たちも何名か来ていた。遅れを取ってはなるまいと、気負いすぎたのか、腰は痛いし、顔も服も泥まみれ。刈るだけならまだしも、次に、薬品を入れた大きな容器に、い草を入れ、その上に登り、足で何回となく踏むのだ。踏み終えると、ずっしりと重くなったい草を、あぜ道に干す。これが重労働なんだよなーーー。乾燥させるわけだ。今は、乾燥機があり、道に干すこともないようだが、当時は乾燥機械もなかったのだろう。

はい、今日はここまで。空を見あげると、すっかり夕焼け。僕の顔は黒焼けだ。初日にして思った事よ。「あああああーーっ、逃げ帰りたい。おっかさん」と。それじゃああ笑いものになるし、紹介してくれたおじさんも、顔が立たない。毎日、毎日、時が早く過ぎることを祈りながら、僕の作業は続いた。

そんな中、休憩時間だけが嬉しかった。ある日、冷えた真っ赤なスイカがテーブルに置かれた。むさぼるように食った事よ。最後に一個だけ、スイカの端っこが残っていた。一体、誰が食するのか?。それは僕だった。僕の手が伸びたとき、そこの、親父さんが僕に向かって言った。「えらい・・・」って。何が、えらいのか分からなかった。あとから、考えてみると、最後の一個に手を出した勇気をほめたのだろうか?。勇気と言うより、心に正直だったということだろうか?。どっちでもいいが、腹がスイカ腹になった。

まああ、そんなあんばいで、何とかバイトをやり遂げた。引き続き、田植えの手伝いの要請があったが、丁重にお断りをした。「もう、こりごりだぜ」と思ったことよ。以来、サラリーマン稼業に身を投じたので、農作業というか、畑作業とは疎遠になった。

しかるに昨今は家庭菜園と称して、素人の人たちが、畑作業にいそしんでいる。この心は?。自然とたわむれるゆとりが欲しいのだろう。子供手当も必要だろうが、「家庭菜園補助金」を出して、食物等の自給率を高めるのもおもしろいのかも。



2010年06月05日(土) 弟と水。

今日は午後から弟が再び来訪。故郷の母の元では、たまには息抜きをしないと気が滅入るというのだ。分かる。分かる。老いていても、母は一人暮らしが長いので、自分のことは自分でしないと気が済まない性分。食事を終え、使った茶碗や、皿などを下げ、弟が洗おうとすると、母は、「そのままにしといて」と言う。それでも弟はやってのける。

洗った食器類を棚に納めようすると、「そこは場所が違うから、しないでいいよ」と、母が言う。一時が万事、そういうことの連続らしい。弟としてもやるせないだろう。

我が子とは言え、自分が今までやってきたことを、子供に乱されるのがいやなんだろうか?。これも理解出来ないことはない。と、同時に、母は遠方から来た我が息子に、そんなことまでさせたくないのだろう。体が動く間は自分がしてあげたいのだ。一方、弟は、膝が悪く老いた母を、自分のために働かせたくないのだ。僕に言わせれば、兄弟の誰よりも親孝行な弟である。

善意に解釈しよう。双方共に優しすぎるのだ。優しさ同士がぶつかると、どうなるのか?。結局はどちらかが折れないと、親子といえども気分が悪い。僕なら適当に、「はい。はい」と言って、かわすことが出来るんだが。真面目一徹の弟は、その器用さがない。

そう言うこともあり、弟は、はるばる車で、ここまでやってきた。僕としては良い働き手がやってきて大助かりだ。早々に、二人で梅ちぎりをした。昨年は、一本の木からバケツ数杯分の梅がちぎれたが、今年は不作。やっと、バケツ一杯分だ。それでも、粒が大きい。梅酒を造るにはもってこい。僕はにんまり。

ひとしきり労働をして、一昨年造った梅酒を、二人で飲んだ。これが、旨いんだよなあーー。氷で割ると最高。弟は下戸のようで、顔を赤らめた。しばらくテレビを見て、弟は、既に就寝中だ。僕は昨日から今日にかけての事を思い出し備忘録をしたためている。

そう言えば、昨夜はショッキングなテレビを見た。雨が降らないと水が確保出来ない外国でのドキュメンタリー番組だ。井戸を掘っても、「甘い水」と称する、きれいな水か、「辛い水」と称する、汚れた水のどちらかしか出ない。その、どちらの水を掘り当てるかで生活のパターンが違ってくる。

大半が「辛い水」だ。雨が長い間降らないと、辛い水で生活全般をまかなわねばならない。母親は出稼ぎ、父親は畑作業。中学生くらいの女の子が、炊事から牛の世話、水くみ等の重労働をしていた。学校へも行きたいが、休みがち。そんな家庭の風景を映し出していた。

辛い水で顔を洗い、牛に辛い水を飲ませ、辛い水で、うどんを煮る。それを食している姿を見たとき、自然はなんという過酷な仕打ちをするんだろうかと、腹立たしく思えた。ただ、少女が将来は看護師になりたいと、笑顔でしゃべっていた姿に感動した。

なにやかにやと言っても、日本は平和だ。その平和に安住していることは、ある意味では怖い。「明日は我が身」と言うこともある。いつ、何時、「水のない日本」に変化しているやも知れぬ。気象環境が変われば、あり得ないことではないだろう。生命の源、水は大切にしたいものだ。


2010年06月04日(金) ホラーが僕を誘う。

昨夜は久しぶりにホラー映画を見た。なんでも、百数十万円の制作費で、100億円以上の興業収入を得たというから、興味がわかないはずがない。過去、ホラー映画は幾度となく見てきたが、何と言っても、姿が見えないけど、何かが、そこにいるという恐怖。これが一番怖いように思う。

昨夜の映画はまさに、姿が見えないものとの戦いを描いていた。夜中の3時過ぎ、時が秒単位で流れていく。若いカップルがベッドインしていると、奇怪なな音が聞こえだす。カップルは恐れおののく。正体を究明すべく、部屋にビデオを設置し撮影を試みるが、遅々として原因がつかめない。何かがいることは間違いない。奇怪な現象はエスカレートしていく。

映画を見ている僕も手に汗を握り、「次はどうなっぺ?」と興味津々。かくしてクライマックスを迎える。女性にとりついた何かが恋人である男性を殺害し、どこともなく去っていく。単純なストーリーだが、クライマックスに至るませのプロセスがおもしろかった。登場人物が数人で、家の中での撮影ばかりだから、安く仕上がったのもうなずける・

何かの正体は何だったのか?。ここで記すると、これから視聴する人たちの興味を半減させるやも知れないので止めておこう。

あまたある映画の中で、僕の好きなジャンルは、ホラーをはじめ、SFや権謀術数渦巻くアジアの歴史ドラマだ。SFの中で、深く印象に残っているのは「猿の惑星」だろう。宇宙から帰還する途中、宇宙船はある星に不時着した。その星は、なんと、猿の星だった。しかも、そこは地球。いまや、猿が人間並の能力を持ち、人間をを支配している。人間は人間狩りにあい、猿の厳しい管理下に置かれる。人間社会崩壊の原因は、原爆だった。人間の愚かさを描いた考えさせる映画でもある。

笑い事ではない。未来の地球だって、そうなっているかも知れない。もし、僕が未来の地球を描くならば、猿ではなく「ネズミの地球」としたい。なんとなれば、繁殖率抜群。しかも、人間をエサとして、たらふく食すれば、巨大なネズミ男、ネズミ女が、地球を支配することになる。あな、おそろしやである。

アジアの歴史ドラマもおもしろい。権謀術数渦巻く乱世。小国が乱立し、機に乗じて併合をもくろむ。人間の野望はとどまることを知らない。いかなる英雄がでようと、飢え、苦しむのは民ばかり。悲しい歴史である。

そんな中、僕の目を引くのは、十二単ならぬ色とりどりの絹のカーテンを幾重にもまとったような女性達の美しさである。しゃなり、しゃなりと歩く姿はまさに天女。「僕を捨てないで」と、その袖に顔を埋め、おいおいと泣いてみたい衝動に駆られる。「なによ。弱い男は最低ね」と、袖をはね除けられるのがおちだ。いやああーーー、まいったぜ。気の強いこと限りなし。友人のネズミ男君が、武田鉄矢さんの101回のプロポーズを追い越し、未だに更新を続けている姿を思い出す。この世に、とびっきり優しい女性なんているのだろうか?。いる。いない。やっぱり、いないか。生まれてくる時代を間違えたか?。そういうことにしておこう。とりもなおさず、男が弱くなったと言うことだ。






2010年06月01日(火) あられ襲来。

六月のスタートだ。どんよりとした曇り空。僕の頭も曇っている。というのも昨夜は久しぶりに友人と一献傾け、酩酊したため、朝から頭が上がらないのだ。深酒は禁物とはわかっていても、なじみの一見客たちとの会話が面白く、午前様となった。

行った小料理屋は、10名程度しか入らない小さな店だ。、和服を着た小柄なママさんが一人できりもみしている。流れているBGMはフォークソング。それもそのはず、ママさんは高校時代にフォークソング部のボーカルを担当していたと言うから納得だ。本来なら、客の好みそうな演歌にすべきなんだろうが、ママの同級生達の来訪も多く、皆、了解しているようだ。

腹ごしらえが済み、フォークの調べが次の店へと僕を誘う。そして又、次の店へと。この悪循環を断ち切らねばと、心に言い聞かせてはいるが、「まだいいじゃないか」という悪魔のささやきが、心を支配してしまう。困ったものだ。

てなわけで、今朝はよろよろと、、よろけながら長いホースを引っ張り、植物たちに朝ご飯をやった。弟と一緒に植えた、ひまわりの苗が、しょぼくれていた。大きくなるのが楽しみである。1.5メートル位に背丈が伸び、黄金色の大輪を風になびかせている姿は、まさに夏の風物詩。日傘でもさして、ひまわりの前に立つと、「夏のお嬢さん・・・?」ではないか、「夏のとっちゃん坊や」ってとこか。

午後になると、意識もはっきりしてきた。「さああーーー、仕事だぜ」と、机に向かったが、今ひとつ燃えない。だらだらとしていると、やにわに、空模様が怪しくなった。と、そのとき、屋根瓦に石を投げたような音が。あちこちから聞こえる。「なんだべ?」と、窓から屋根を見上げると、なんと、「ビー玉」級のあられが屋根瓦を叩き、放物線を描いて地面に落下している。「あっと驚く為五郎」とはこのことだ。「初めての経験」と言っても良い。おまけに、雷が、ゴロゴロとうなり声を出し始めた。梅雨前の攪乱か?。異常気象だぜ。

僕の嫌いな三つのこと。地震・雷・台風。生来、憶病者の僕は、「ピカッ」と空が光ると、体を萎縮させ、そく数を数える。いち・にい・さん・しいい。まだ雷雲は遠い。安心だぜーーと胸をなで下ろす。しかるに「ピカッ・ドン」とくると、体はわななき、どこに落ちたのかと、気にかかる。雷雲が通り過ぎるまで、僕の心は落ち着かない。仕事どころではないぜと、一喜一憂していた。

自然現象は、現金なものよ。しばらくすると、あられが雨に変わり、雷雲も何ごともなかったかのように、去っていった。おまけに、お天道様まで顔を出し、機嫌をを伺っているようだ。やれやれだぜ。

外に出てみた。せっかく咲いていたあじさいの花が、へし折られ、葉っぱに大きな穴が。あられのすさまじさを物語っている。人に当たれば。痛いこと限りなしだ。とんだ六月のスタートとなった。





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