umityanの日記
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2007年08月23日(木) 恩師の古稀お祝いと同級会を終えて。

恩師の古稀お祝いと同時に開催された我々高校二年・三年時の同級会もつつがなく幕を閉じた。久しぶりに会った級友たちは既におじさん、おばさんの呈を奏していた。「一番若いのは俺か?」と、鏡を見て、我が顔にうっとり・・・・。これじゃあナルシストだぜ。

誰が計らったかわからないが、僕は恩師の隣の席。まあ、これも何かの縁だろう。僕は先生ご夫妻を退屈させないように、なにやかにやと話しかけた。先生は退職後の10年の歴史をまとめた印刷物を持ってきていた。その場では詳しくは見なかったが、僕が住んでいる地で催した同級会兼忘年会についても触れられていた。嬉しいことである。

まずは、先生の挨拶からスタートだ。ひとしきり感謝の言葉が述べられた後、話が中国でとった教鞭の話へと進んだ。あちらの学生はよく勉強するそうだ。時々、先生が方言らしき言葉でしゃべると、その言葉を標準語に訂正させられることもあったり、言葉の意味を徹底的に聞いてくるとのこと。まさに、「やる気」十分、熱心である。今の日本人に欠けている面かもしれない。

延々と先生の挨拶が続いた。僕たちも、「えらい話が長いぜ」と思ったが、僕たちは慎重な面持ちで、その話を聞いていた。突然、しびれを切らしたのか、隣に立っていた奥さんが、「あなた、長いわよ」と、腰のあたりをこずいた。僕たちは苦笑だ。

挨拶が終わり、後は当地の古株の級友が乾杯の音頭をとって、談笑タイムへ。僕たちはグラスを持ち、席を巡回した。同じ釜の飯を食った者同士は、今の環境がどうあれ、皆、屈託なく笑顔いっぱいで話に花を咲かせていた。同窓会や、同級会が良いところは、これなのかもしれない。

二次会まで全員参加。カラオケがなかったのが、残念だったが、まああ、これは仕方がない。恩師の古稀の前で、悲しい歌は禁物である。本当は「名残雪」とか「「コスモス」とか、時期尚早だが「聖夜」なんか歌いたかったのだが・・・。

だべりと飲酒に専念し、僕はすっかり酩酊。先生を二次会を終えて、帰還したようだ。残った級友たちは、それぞれに、集団をくんで、夜の町へと消えた。、三次会は有志数人で、どことやらの店へ赴いたが、はからずも満席状態。隅っこに陣取ったは良かったが、カラオケは予約いっぱいで歌えそうにない。小一時間で、その店を退散した。僕はますます酩酊が深まった。この辺でお開きにするのが賢明。予約していた会場のホテルまで、友人が送ってくれた。翌日はその友人と会い、昨夜の反省の後、高速を通って我が家へ無事に帰還した。

何はともあれ、先生の古稀お祝いと同級会は成功裏に終わった。めででたし、めでたしである。




2007年08月17日(金) 恩師の古稀によせて。2

高校の二年間は、時々ハプニングを呈しながら淡々と過ぎた。忍者もどき、かめやん先生も、必殺げんこつ拳をちらつかせてはいたが、鼻息を荒げることもなく職務を全うしていた。

泣いても笑っても避けて通れない卒業の日がやってきた。僕たちは最後の通知表を受け取るべく教室で待機していた。のっそり、のっそりと、忍者もどき、かめやん先生が登場した。さすが、忍者である。表情は授業風景と変わらなかった。幾度となく卒業生を見送ってきた兵だ。涙は禁物である。

例のごとく、天下の宝刀、「げんこ」???じゃなかったか。韻のこもった低音だった。その低音を響かせながら、一人一人の名前が告げられ、通知表が手渡された。僕たちの心境は二言でいえば、「うれしくもあり、こっぱ恥ずかし」である。

かくして、我々は忍者もどき、かめやん先生を母校に残し、三々五々と散っていった。後で聞いた話だが、僕たちのクラスが一番印象に残っていたとのことである。
さもありなん。個性派揃いだからなあーーーー?。

いくつの歳月が流れたのだろう?風のたよりで、先生が無事に定年を迎え、中国へ日本語の講師として赴いたと聞いた。「へーーー、あのかめやんがねーーー」と、一瞬驚いたが、漢詩で愛を告白する先生のこと、中国はまさに相応しい赴任地のように思えた。

そうこうするうち、中国からハガキが届いた。なんと、年賀状だった。しかも届いたのが2月のこと。「何で今頃?」と思ったが、それには理由があるのだろう。中国の正月は2月頃だ。郵便配達屋
さんが気を利かして、中国の正月を基準に配達したわけだ。これは僕の勝手な解釈である。賀状には中国で奮闘している先生の近況が書かれていた。ただただ、すばらしいと思った。


その後は何度も同窓会や同級会を催し、先生と相まみえる機会をもった。もう、五・六年まえになるだろうか?。僕が住む地で、有志一同が集いクラス会をやった。先生を含め7・8名が集まった。

当地でやるからには、僕が幹事。行きつけの小料理屋を貸しきりにして、その夜は祝宴とあいなった。皆、わいわいと楽しんでくれた。先生も幾分か広くなった額に汗をにじませ、嫌いではなさそうな焼酎に舌鼓を打っていた。席がばらばらだったので、それぞれが席を移動しながら積もる話に花を咲かせた。

翌朝は、とある寺で坐禅の体験をすることになった。本堂に坐蒲とかいう尻当てをすいて乗っかり、お釈迦様のように足を組み姿勢を正す。背後から棒(警策とか言う)を持った坊さんが巡回し、姿勢が乱れたり、集中力がなくなったら棒でたたく。自ら頭を下げて、「たたき」を要求することもできる。

な・な・なんと、僕がその「たたき」役になった。ここが幹事の強みか?。僕は一メートル近くはある棒を垂直に持ち、坐っている先生と同級生の背後を、足音を立てずに巡回する。「ピタッ」と先生の背後で歩みを止めた。「げんこつのお返しの日がやってきたぜ。うっしししーーー」と僕の心はほくそ笑んだ。

先生の右肩に棒を当てると、先生は「びくっ」としたように体を硬直させた。硬くなった体が合唱と共に前のめりになった。「今だあ・・・・・っ」と、僕の脳細胞が騒いだ。「ばしーーーーつ」と行きたかった。しかるに、僕の心がそれを制した。「ご老体に(これは失礼な言葉だった)今更、むち打っても仕方がない。感謝しても感謝したらない恩があるではないか」と心がつぶやいた。「ぱしっ」と、ほどよい音が先生の肩から聞こえた。「終わったぜ・・・・次に行くか」。僕のすり足が有志一同のところへ赴いた。先生のたたかれた音に、おびえたのか、打たれまいと姿勢を正し、皆、ぴくりともしていない。

「飛んで火にいる何とかの虫だぜ」と、僕の快感はクライマックスに・・。男性諸氏にはかなり強めに、女性には優しめに、僕の棒が飛んだ。ある男性には肩胛骨に棒が食い込み「ばしっ」ではなく「ごくっ」と鈍い音を立てた。「しまった。失敗したか?」と思えど、後の祭り。別に何の恨みもない。単なるはずみである。

坐禅は憎しみや恨み、迷いとか言った個人の私情をはさみ行うものではない。あくまでも、淡々と、ただひたすらに坐る。それが坐禅の極意であると聞いた。まさに、頭上に落とされる、忍者亀やン先生の「げんこつ」と似ているではないか。げんこつも坐禅も突き詰めれば同じことである。云十年の歳月をかけてやっと、それが分かった。

かくして忍者かめやん先生が古稀を迎えられた。70年の歳月には、われわれ同級生も知らない色んな紆余屈折があったに違いない。今、こうして先生の古稀お祝いと同時に同級会が行われることは、何にもましてめでたいことである。

後は、次なるお祝い77歳を目指して、忍者かめやん先生ご夫妻のますますの健康と発展を祈願して、お祝いのメッセージとしたい。

最後に、このメッセージはネットで公開されるので、フィクションの部分があることをお詫びしたい。(完)



2007年08月16日(木) 恩師の古稀によせて。

盆が過ぎて、僕の夏は終わった。と言いいたいところだが、35度前後の猛暑はまだまだ続きそうだ、夏に終止符を打つのはまだ早いか?。僕は今、ふぬけ状態。仕事に取りかかろうと思えど、まだ盆の余韻がさめず、人一人っこいない田んぼを眺めてはため息ばかり。多分、来週から本格的に仕事に打ち込むことになるだろう。

その前に楽しみが一つある。今週の土曜日は、故郷へ帰還し、高校時代の同級会へ出席することになる。同窓会ではなくて同級会と書いたのは、高校二年から三年まで持ち上がりだった担任の先生が古稀をを迎えることになるので、そのお祝いかたがた、同級会をやるという寸法。

僕たちのクラスは妙にまとまりがあった。何かやろうとすると、結構クラスメートが集まるのだ。受験で互いにしのぎを削り、ろくに青春を謳歌したという思い出もないが、その少ない思い出が強烈だったことが、同級生が集まる一つの要因かもしれない。と同時に、担任の先生の人柄が良かったからだろう。

担任の教師は国語担当。黒っぽいめがねをかけ、そう大きくもない瞳は優しそうに輝いていた。それがいけなかった。国語の時間になると、皆、こっくり、こっくりとやりだす。先生の声は低音で、お経でも奏でているかのように聞こえた。坊さんには悪いが下手なお経ほど、眠たくなるのは自然の摂理というものだろう。先生の名誉のために書いておかなければいけないか。先生の授業は深みがあり、すばらしかった。ただ、いかんせん、僕のと言っていいのか、僕たちの頭が、内容に付いていけなかったことと、低音の子守歌が相乗効果をもたらし、僕たちは、いつの間にか船をこぐわけだ。

その瞬間は至福の時。ただ、始末が悪いのは、いつの間にか、忍者のように背後に忍び寄って、頭をこつんとやられる。席が後ろの方だと、他の者に気付かれることも少ないが、一番前の席だと、そうはいかない。幸い僕は席替えでも、一番前に座ったことがなかったので良かったが、今でも親交を温めている友人の一人が、餌食となった。

単に頭をこつんとやられるくらいなら、「くすくすっつ」と笑う程度ですむはずなんだが、友人の場合は違った。一番前の席で、背後から頭をこつんとやられ、その弾みで、夢(悪夢、もしくは恋夢)から覚め、こともあろうに、かけていためがねが、教壇の前に、ころころと落ちた。慌てて、そのめがねをとりに行った姿が滑稽で、皆、爆笑だ。

その、友人は今、立派なサラリーマンとなって活躍している。残念なことに今度の同級会には出席しないようだ。寄ればいつも、その話題が持ちあがるので、出席を避けたというわけでもないだろうが、残念である。

先生のニックネームは当時、「かめやん」だった。亀のように、首を出したり引っ込めたりする癖がありやなしや。一応あったことにしておこう。あだ名のそもそもの由来は、やはり名字からつけられたのだろう。古稀のお祝いに僕から、新たなあだ名をプレゼントしよう。「忍者もどき、かめやん」。これで決まりだ。

忍者もどき、かめやんも、さすがだ。いつの間にか忍法で、良き伴侶をいとめた。プロポーズの言葉がなんだったのか知らない。おそらく忍法煙だましで、伴侶の首を前にうなずかせたのだろう。もしくは韻のこもった漢詩を低音で、ささやいたのかもしれない。

おっと、一時間ばかり仕事で出かける時間がきた。続きは帰ってからにしよう。



2007年08月06日(月) 月下美人の後は睡蓮と琉球朝顔だ。

先日、この備忘録に書いた月下美人の花が、翌朝には見事にしぼんでいた。首をだらりと落とし哀れな姿。もう一度、復活をと願ったが、その願いも空し。再度の開花を待つしかない。悲しそうにしている僕の姿を見て、山の神が言った。「今のあなたにそっくりね」と。「どういう意味だ?」と、言葉を返すと、曰く。「昔はダーリンでも今はだらりんね」。「何という失礼な・・・、僕は今でもバリバリの現役ですたい」と言ってやりたかったが、くだらないから止めた。

それはそうと、天は僕を可哀そうと思ったのか、新たな喜びを二つも与えてくれた。その一つは、睡蓮の花が咲いたことである。五升炊きができるくらいの大がまに蓮が植えてある。昔、昔、ばあさまたちが使っていたらしい大がまが、今は蓮の格好の住みか。自然の雨に打たれて蓮の葉っぱがみずみずしく水面に浮いている。その間隙の中から、連の茎が伸びて、ピンクの大輪の花が二本咲いていた。思わず月下美人を思い出した。いやああ、連の花も月下美人に勝らずといえども劣らじ。僕は嬉しくなり、即、デジカメに収めた。折もよし。暑中見舞い返礼のハガキに貼り付けた。きっと、喜んでくれるだろう。

二つ目の喜びは、これも花。水をやれどやれど、一向に咲かない朝顔の花に僕の気分は湿りがちだった。葉っぱだけが天に向かって縦横無尽に繁殖し、「こりゃああ、葉を楽しむ朝顔だぜ。わが書斎の眼隠しには好都合だぜ」と、半ば、花をあきらめていた今日この頃。な・な・な・んと、月下美人を思わせるような大きな真っ白のつぼみを今朝見つけた。「翌朝が楽しみだぜ」と持っていたら、な・な・な・んと、夕方、見事に真っ白の大輪が開花していた。「ありゃ、朝顔ではなかったっけ?」と、鉢に差し込んでいた花の種類が書いてあるラベルをみると、「琉球朝顔」と銘打ってある。琉球朝顔は夕顔なのか?。そうなのか?まだ、調べていないのでわからないが、無知とは怖いものだ。

本来、僕は花には、とんと興味がなかった。というのも、花を自ら育てたことがなかったし、「水をやったかい?」と口うるさいほど、ばあさまや、山の神から責められたりしていたので、「君子危うきに近寄らず」で、水巻き時分には、ほとんど家にいなかったのである。時が流れ、もののあわれが、やっと僕にも理解できるようになった今、自ら植えた花々が、妙にいとおしく感じられるようになった。

かくして、見事に一夜でしぼんだ月下美人の身代わりと言ってはなんだが、睡蓮の花と琉球朝顔?が今や、僕の心を和ませてくれている。ふと、思ったことだが、僕には赤や黄色や青の原色の花よりは純白の花がお似合いだぜと。まあ、すこしはピンクがかっているのもあるが、それは想定内だ。まだまだ、蕾がついているような気配。猛暑の夏は、純白の心で乗り切りだ。






2007年08月05日(日) 月下美人の後は睡蓮と琉球朝顔だ。

先日、この備忘録に書いた月下美人の花が、翌朝には見事にしぼんでいた。首をだらりと落とし哀れな姿。もう一度、復活をと願ったが、その願いも空し。再度の開花を待つしかない。悲しそうにしている僕の姿を見て、山の神が言った。「今のあなたにそっくりね」と。「どういう意味だ?」と、言葉を返すと、曰く。「昔はダーリンでも今はだらりんね」。「何という失礼な・・・、僕は今でもバリバリの現役ですたい」と言ってやりたかったが、くだらないから止めた。

それはそうと、天は僕を可哀そうと思ったのか、新たな喜びを二つも与えてくれた。その一つは、睡蓮の花が咲いたことである。五升炊きができるくらいの大がまに蓮が植えてある。昔、昔、ばあさまたちが使っていたらしい大がまが、今は連の格好の住みか。自然の雨に打たれて蓮の葉っぱがみずみずしく水面に浮いている。その間隙の中から、連の茎が伸びて、ピンクの大輪の花が二本咲いていた。思わず月下美人を思い出した。いやああ、連の花も月下美人に勝らずといえども劣らず。僕は嬉しくなり、即、デジカメに収めた。折もよし。暑中見舞い返礼のハガキに貼り付けた。きっと、喜んでくれるだろう。

二つ目の喜びは、これも花。水をやれどやれど、一向に咲かない朝顔の花に僕の気分は湿りがちだった。葉っぱだけが天に向かって縦横無尽に繁殖し、「こりゃああ、葉を楽しむ朝顔だぜ。わが書斎の眼隠しには好都合だぜ」と、半ば、花をあきらめていたこの頃。な・な・な・んと、月下美人を思わせるような大きな真っ白のつぼみを今朝見つけた。「翌朝が楽しみだぜ」と持っていたら、な・な・な・んと、夕方、見事に真っ白の大輪が開花していた。「ありゃ、朝顔ではなかったっけ?」と、八に差し込んでいた花の種類を書いているラベルをみるとお、「琉球朝顔」と銘打ってある。琉球朝顔は夕顔なのか?。まだ、調べていないのでわからないが、無知とは怖いものだ。

本来、僕は花には、とんと興味がなかった。というのも、花を自ら育てたことがなかったし、「水をやったかい?」と口うるさいほど、ばあさまや
、山の神から責められたりしていたので、「君子危うきに近寄らず」で、水巻き時分には、ほとんど家にいなかったのである。時が流れ、もののあわれが、やっと僕にも理解できるようになった今、自ら植えた花々が、妙にいとおしく感じられるようになった。

かくして、見事に一夜でしぼんだ月下美人の身代わりと言ってはなんだが、睡蓮の花と琉球朝顔?が今や、僕の心を和ませてくれている。ふと、思ったことだが、僕には赤や黄色や青の原色よりは純白の花がお似合いだぜと。まあ、すこしはピンクがかっているのもあるが、それは想定内だ。まだまだ、蕾がついているような気配。猛暑の夏は、純白の心で乗り切りだ。


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