umityanの日記
DiaryINDEXpastwill


2005年10月27日(木) ボスが見事に生還した。

ボスが死の渕からよみがえった。後、5分、病院へ担ぎ込まれるのが遅かったら、お陀仏だったらしい。まずはボスの生命力に乾杯だ。一週間程度、集中治療室にいたが、今は一般病棟に移った。意識はしっかりしているので、色々と、仕事の段取りを話し合った。まあ、しばらくは、といっても恐らくは半年は入院、もしくは自宅での療養となるだろう。いずれにせよ、復活したら、僕と二人で、また、仕事をしようと思っている。「人間、死ぬまで仕事ですたい。家にいて、ぼさっとしていても退屈だろうし、かえって老け込んでしまいますよ。僕んところで、一緒に仕事しましょうよ」と言ったら、ボスは嬉しそうに笑った。

ボスの仕事を引き受けたら、俄然、忙しくなった。クライアントがいることだし、これは仕方がない。生来、怠け者の僕は、どちらかというと、あまり仕事は好きでない。のらりくらりと日々を生きるのが理想と思うが、理想どおりに生きさせてくれないのが娑婆世界である。かと言って、すべてを投げ捨てて、ひとり山の中で隠遁生活をする勇気も無い。情けないことよ・・。頑張るしかないか。

最近、世の中を見渡すと、色んなことがあり過ぎて、嫌になることがある。人生には運、不運がある。自然的災害の場合は、致し方ない面もあるかもしれないが、人的原因による被害は、あまりにもいたたまれない。不運と言う言葉ではかたずけられないものだ。そんな事件が昨今多い。悲しいことだ。

病による死は、運命的なものがあるかもしれない。この頃、個性的な俳優、根上淳さんが亡くなった。ペギー葉山さんの夫である。7年間の闘病生活だったらしい。ペギー葉山さんの語った言葉が印象深い。「根上はブランディーが好きだった。もっと、飲ませてあげればよかった」と。そう思い、最後のお別れの時、ペギーさんはブランディーを口移しで、根上さんに飲ませたそうだ。こういうニュースを聞くと心が温まる。夫婦愛はまだ健在だ。

人間の生と死は悠々として定まりがない。生は生に任せ、死は死に任す。そういう生き方が出来たらいいと思う。如何せん、臆病な僕には、そんな生き方がまだ出来そうに無い。今はそれでいいか?。一日も早いボスの回復を願い筆をおくことにしよう。


2005年10月22日(土) 悲しい出来事。

静かに秋が深まっていく。朝夕は涼しいというより寒さを感じる。夏の草花も冬支度を始めたようだ。そんな秋。秋かあーーーー。ここ二週間の間に悲しいことが二つあった。一つはボスが病で倒れたこと。その後、何の連絡も無いから、まだ息はしているのだろう。強い生命力で復活してもらいたい。今は、そう願うだけだ。

もう一つの悲しい出来事は、よく知っている家庭の娘さんが急逝した。27歳の若さである。「えっつ、どうして、また 何故?」と耳を疑った。我が家にも何度か来たことがあるきれいな娘さんだった。ただただ、人の世のはかなさを思う。その娘さんが以前、だれぞやの葬式の時言っていたそうだ。「あんなに遺族が泣き悲しんだら、死んだ人も安心してあの世にいけないよねーーー」っと。その娘さんの言葉を思い出したかのように、父親も母親も、葬式の時、涙を見せていなかった。心の内はどんなにか辛かっただろうに、娘を安心させて旅立たせてあげたいと願ったからだろう。

人は死してどこへ行くのだろうか?。古今東西、死を回避すべく、人間はあらゆる妙薬を探し求めた。又、宗教は死の恐怖をやわらげんと、さまざまな信仰を生み出した。先日、ラジオで聞いたが、猿は我が子が死んだことを理解できずに、ずっと抱いたまま、幾日も過ごすそうだ。やがて、肉体が腐り始め、やっと手から子供を離す。このことは猿の脳のなかには、死と言う概念がないのではないかと言っていた。悲しいかな、人間は死という概念を学習してしまった。そのことが、恐怖や悲しみを生み、宗教を育んだともいえる。

あの世があるにせよ、ないにせよ、ただ言えることは、柳澤桂子さんがその著書の中で述べておられたように、「空」の世界が真実の世界なのかもしれない。我々のこの肉体も原子で構成されていて、その原子は宇宙と一体である。我々や物質が形を成しているのは原子の密度の違い。濃淡の違いに過ぎない。物質はたえず 動き回り、絶えず変化している。生も死も原子レベルでは同じことの密度の違いに過ぎない。

そう考えると、死もいくぶんかは肯定できるような気がする。問題は、そこまで、心を浄化できるかどうかだ。欲と執着にまみれた僕には、到底、そこまで至れそうにない。もう少し齢を重ねてくると、あるいはそう考えることも出来るかもしれない。今は静かに個人の冥福を祈っている。


2005年10月20日(木) ボスの病。

最近、僕の脳裏を支配してやまないことがある。そのせいか、仕事に今ひとつ熱が入らない。いつも、気になっているのだ。何かと言えば、父親みたいに思っているボスが病で倒れたのだ。突然のことだった。ここ一週間がやまと医者が言ったようだ。

何か思い当たる節がないかと言えば、いつも、「きつい、きつい。ほんに歩けんごなった」と連発していたことだ。まああ、歳だから、ある程度の距離を歩くのは誰でもきつい。いつもの口癖で、酒も飲み、タバコさえ止めていなかったので、心配してはいなかった。

先週、パートさんに書類のタイプをお願いに来るといいながら、ちっとも来ないので、「どうしたのかなあ?ーー。忙しいのだろう」と安易に考えていた。事実、あれこれと、動き回っていたようだ。それが、突然、週明けに奥方から救急車で運ばれ、集中治療室へ入ったとの報告。我が耳を疑った。あんな頑丈なボスがまさか・・・・。

幸い意識はあるとの事で、翌朝、親戚の者と言って見舞いに言った。ベッドに横たわったボスの体は、弱弱しく見えた。ただ、僕の顔を見るや、照れくさそうに、ちょっと微笑んだ。僕は相手にしゃべらせまいと、少し大きめの声で、「このくらいで、くたばってどうしますか。大丈夫、大丈夫。仕事の残りは僕が引き受けましたから」と言って安心させて帰ってきた。

本当に人生とは分からないものだ。人間、いつまでも同じ状態が続くことはない。常に変化しながら、老化しながら生命体は生きているわけだ。会者定離、これは自然界の習いだ。

今日ふと、この備忘録を書きたいと思ったのは、、駅の中の本屋さんで、最近出た柳澤桂子さんの、「いのちの日記」という本を見つけたからだ。
前作、「生きて死ぬ知恵」という般若心経の科学的解釈というか、その内容に深い感銘を受けた。そして、今回の著書。今、この備忘録を書く前に読みあげた。まだ、十分に理解していない。恐らく、これから何度も何度も繰り返し読むだろう。

原子、分子レベルでの自然界の真実。肉体も机も椅子も原子の濃度の違い。要するに、すべてのものが宇宙の中の粒子と、ひと続きである。私がここにいると思うのは人間の幻覚である。これこそ「空」の考えではないか?。一元論的な考えではないだろうか?。このことが真実であり、真実の自分に立ち返ることで、苦悩や迷妄から抜け出すことが出来ると。

この本を読んで少しばかり心が楽になった。ボスの病も自然の中の一つの真実。僕もいずれ形を変えて、粒子となって宇宙空間に散らばるだろう。

ただ、そうは思えても、身という体をまとって、もうしばらくは僕と現世でコンタクトを取って欲しいと願いたい。


2005年10月16日(日) 生の喜びを感じさせた今日の秋。

素晴らしい秋晴れとなった。暑からず寒からず。こんな日は幾日も無い。朝から心うきうきだった。さーーて、何を着ようかと迷ってしまった。女性ならば春夏秋冬、服も用意万端なのかもしれない。男はそこまでマメではないようだ。僕に至っては、昔は服に関しては全くの無頓着だった。特に生意気盛りの頃は、冬でも半そでのTシャツ一枚だった。近所のおばさんたちから、「○○ちゃんは強かねーー」とかなんとか言われると、照れながらも悪い気がしなかった。

さすがに今は、そこまではない。それでも時々、家の中では妙なことをする。家の中だから許されるのか?。ステテコをはいて、その上から半ズボンをはく。長ズボンをはくのが面倒くさいし、うっとうしいからだ。しからば、ステテコを脱いで、半ズボンにすればよい。これも面倒くさい。ステテコの上から半ズボンを「ぱっ」とはくのが一番早い。当然、半ズボンの下から、ステテコがはみ出している。これが結構、動きやすいし、涼しいんだよなーーー。

山の神が見かねて、「あんた、いい歳して、とっちゃン坊やみたいな格好はしないでよ。お客さんがきたらどうすんのよ」と、たしなめる。その時はその時だ。ぼくは一向に構わない。なんと言っても、家の中ではダサいほうが過ごしやすいのだ。

そんな僕も、外出するとなると一変する。一応、世間体と言うものがある。人の嘲笑に耐えられるほど、まだ心臓に毛が生えていないようだ。今日なんかまさにそんな日だった。あまりの天気のよさに、ちょっくら山の中にある野菜等の即売場へ買出しに行くことになった。

さて、何を着るべか?と思案した。ひとしきりの葛藤の後、何のことはない。黒のジーンズ(もちろんステテコは着用済み)に黒のTシャツ、その上から黒のブレザーをひっつかけ、頭には黒のハット。馬鹿でかい黒のシューズに黒のカバンを持てば、はい、出来上がり。喪黒服造の二世でございますだ。さすがにそこまではいかなかったが、似たような出で立ちとあいなった。山の中は、人、人、人で、ごった返していた。

紅葉には、ちと早かったが、気持のよさは抜群。あの夏が嘘のように思われた。何度か食べたことがある黒ゴマ入りのソフトクリームに舌鼓を打った。こういう場所では歩きながらの立ち食いも許される。子供みたいにクリームを舐めまわした。口の周りはホワイトではなくグレー。

紅葉の兆しを見せた山々を眺め、腹いっぱい空気を吸った。春という季節は生命の息吹を感じさせるが、この秋もまた劣らず生きていることの喜びを感じさせるものである。今日はそれを痛感した一日だった。


2005年10月08日(土) 運動会の思い出。

一日中、曇り空だった。今日は近くの幼稚園で運動会だ。僕にとっては遠いーーー遠い昔のこと。今、静かに振り返ってみると、何よりも楽しかったことは、弁当の時間だった。母がせっせと、握り飯やら玉子焼きやら、ハムやら色々と、重箱に詰め込んで持参していた。まずい給食よりははるかにご馳走だ。近所の家族らと、ござを敷いて、わいわい言いながら外で食べる弁当は格別。最近もそうなんだろうか?。定かではない。

次に楽しかったことは運動会の翌日、学校が休みになることだった。運動会は小学校時代も、中学校時代もほとんど日曜日に決行。従って翌日が休み。これが、いんんだよなーーーー。運動会なんて遊びと一緒。日曜日に遊んで、月曜日が休み。一週間が短くなったようで、皆大喜び。昔は、祭日もそう多くなかったので、うなずけるというもの。最近は休みも多いから、学生にとって、それほど、休日は有難くもないかもしれない。

高校時代の運動会は、応援や仮装行列を除いては、面白くもなんとも無い。父兄だって見に来ることはまれ。こちらから、「来なくていい」と拒絶した。なんとなれば、青びょうたんのように弱弱しい姿を親にさらしたくなかった。と同時に、もう子供じゃないんだという背伸びがあったからだ。これも、第2次反抗期だったか?。

おっと、安さんから電話だ。運動会のよもや話はネクストタイムにしよう。




2005年10月07日(金) 平凡な日常

9月の備忘録を閉じた歯良かったが、10月の書初めは今日になってしまった。とりとめて理由は無い。相変わらず平凡な日常が続いている。これはまあ、良いことだろう。

ちょっくら世の中を見回すと、色んなことがあっている。阪神優勝・・万歳。巨人の新監督に原氏・・万歳。月世界旅行の一般人募集がなされたそうな。億単位の金が必要。既に申し込んだ人がいるというから驚きだ。あるところにはあるもんだぜ。僕はじっと手を見た。濡れ手に粟の一粒さえも見当たらない。今年の米の出来具合は上々。これまた良かったぜ。

とは言え、良いことばかりではない。バリ島でテロがあり、何十人もの人が犠牲になった。日本人もいた。痛ましいことだ。北極の氷が21世紀中に消滅するかもしれないと報じていた。これまた由々しいこと。次世代を生きる人たちは、こんなに蝕まれた地球環境をどうやって生きていくのだろうか?。すでに、この世に、僕はいないにしても、気がかりである。

おっと、夕飯の支度が出来たようだ。好物のパスタのようだ。ここいらで切り上げるか。




umityan |MAILHomePage

My追加