stray notes

氷砂糖

My追加

心の一部は不在のまま
2004年10月15日(金)

われに返る、ということばがある。返る前、というのはやはりどこかを彷徨っているのだろうか。

小学生の頃、集会が苦手だった。ひとがたくさんいるところでずっと立ってるのも疲れるし、また立ったままえんえんと話を聞いていなければいけないのも苦痛だった。が、ある日窓の外を見て気づいた。体はここにいなければいけないとしても、心は自由に飛べるのだ。頭の中で思い描けば、気持ちはいくらでも遠くへいける。わたしはその場で踊りたいくらい嬉しくなった。

それからは集会もそんなに悪いものではないなーと思うようになった。好き放題空想の世界に浸り、遊んでいられるのだから。クラスメイトが「××の話つまんねーよかったりー」とか言っていると、(あれ? つまんなくてもちゃんと話って聞けるもの?)とひっかかったりはしたが、あまり深く考えたりはしなかった。アニメの続きを考えたり、小説の続きを想像したり、哲学的な問題をとこうとしてみたり、時間が足りなくなるほど考えたいことはあった。

ただ、これって習慣性がある、というかクセになりやすいものだったんじゃないかな、と今は思う。もともと空想に耽りがちな子供だったとしても、意識的にホイホイと肉体と精神を切り離していると、現実に結びつきが弱くなっていく気がする。つまり本人が飛びたいと思ってないときも、意識が勝手にどこかにいきやすくなるというか……。ぼんやりしたくないときやしてはいけないときにも、ふうっと別世界に行ってしまうかもしれない。

今更それを駄目だ、とも悪いとも思わないのですが。こころの一部がしょっちゅう不在、留守である、というのはやはり多少問題があり、自分としても頼りないなと感じることもあります。



BACK   NEXT
目次ページ