stray notes

氷砂糖

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近視眼的日常その2
2001年10月31日(水)

大学生のとき、よく同じ講義を取っていた子に、「koiさんて、猫系の動物みたいな歩き方するよね」と言われたことがある。「? 足音しない?」確かにペタンコの靴ばかり履いているので、ヒールほどは音がしないだろうけれど。「違う違う、なんかね、角をまがるときとか、こう..(と、彼女は弧を描くように手を動かした)すごくなめらかに移動してる」「へー、知らなかった」

コインランドリーで乾かした洗濯物をかかえて、ぼーっと歩いていたら、いきなり、近くの酒屋で働いてる人に、「あぶない!」と言われ驚いた。が、声のする少し前に、目の前の看板はよけていた。酒屋さんを振り返ると、決まり悪そうにお辞儀していた。わたしは障害物を、直前でさけるくせがある。目自体も悪いのだが、近くにしか気を配っていないのだろう。目的の場所に自分で行くことはできても、人に説明することができないのも、目印を自分なりに<ここにはこれ>程度しか認識してないからだと思う。

眼鏡をなくしたときだったか、コンタクトをなくしたときだったか、新しいものを買いに行った眼鏡屋さんに、呆れられたことがある。「その視力で裸眼のまま歩いちゃ駄目ですよー」と。でもべつだんぼやけるだけで見えないわけじゃないから、事故にあったこととかはないですよ、と言おうとしたが、あまりに店員がいいひとそうで、心配してくれたので、大人しく補助眼鏡とやらを借りた。目のいい人は、目が悪い人の視界がよくわからないかもしれないが、普通のTVの画像と、カメラに水滴などがついたTVの画面程度にしか違わないとわたしは思う。

わたしの場合、歩いていて本当に危ないのは、実はひとと歩いているときなのだ。眼鏡だろうとコンタクトだろうと、相手に意識が集中してしまうので、とても足元や状況判断がおろそかになる。話に熱中すると、周囲の音も聞こえなくなる。大好きな人と一緒にいると尚更、あちこちぶつかったりひかれそうになったりと、大変注意力散漫になる。そういうひとに、ときどき「ひとりのときはなにもぶつからないよ」と言っても、あまり信じてもらえない。「目が悪いから仕方ないね」と言われるばかり。まあそれで納得してもらえるなら、それでもいいか。


近視眼的日常
2001年10月30日(火)

わたしは目が悪い。両目とも、裸眼視力が0.1きっているし、両目を合わせても、0.1のところにある表示が読めるか不安なレベル。ふだんは眼鏡、仕事やおでかけのときはコンタクトを使っていて、矯正視力で1.2〜1.5だけれど、最近はまた落ちているかもしれない。ちなみに探し物や、遠くを見る場合、コンタクトをしているわたしでも、裸眼1.5の視力をもつ夫に負ける。夫はSEだし、ゲームやTVも大好きなので、なぜそんなに目がいいのかは謎だ。

そういえば、わたしも小さい頃は裸眼視力がずっと1.5だった。がくんと悪くなったのは高校受験のときで、高校2年くらいから眼鏡を使うようになった。これは勿論、ある程度は勉強をしたせいだけれど、それと同じくらい、熱心にいきぬきをしたせいでもある。ストレスがたまると、親に隠れて凄い勢いで漫画や小説を読んだし、高校に入ってからは、暗かろうと明るかろうと本を持ち歩き、電車でも路上でも読みまくっていたからだ。同じようにして大学受験をくぐりぬけた頃には、眼鏡ではもうフォローがおいつかなくなっていた。それでもできるだけしつこく、ぶ厚い眼鏡をかけていた。コンタクトにしたのは、就職活動のときだ。遠くが見えないと話しにならないし、眼鏡よりも顔がさっぱり見えるような気がしたので。

OL時代もパートになってからも、悪い目を近場に固定して働く作業が多く、あまり目は休まらなかった。それでも心のリフレッシュには、趣味にひたるのが一番だ。最近は読書のほかにネットサーフィンも趣味に加わったが、どうしてこう目を使う趣味が多いのだろう、とすこしだけ悲しく思う。目が疲れてしまうと、人生の7割くらいが楽しくなくなってしまう。大事にしなくちゃなぁ、と、調子が悪くなるたびに思うが、どうも続かず、いつのまにか酷使する日常に戻ってしまう。


行列と飲食店
2001年10月29日(月)

駅前の、イタリアンのお店に、一時期行列ができていた。どうってことのないパスタとピザのお店で、昔何度か行ったけれど、並んでまで食べるところだっけ? と不思議になった。後にここは、雑誌に載っていたことがわかる。ああ、だからか、と納得はできたけれど、ふーんああいうのってちゃんとチェックしてるひとはしてるんだなーとしか思わなかった。

駅から少し離れたラーメンやさんで、わたしは行ったことがないのだけれど、夫は何度か行っていて、けっこうおいしかったよ、と話していたお店がある。じゃあわたしもいつか一緒に食べに行きたいな、と話していたのだが、一時期ものすごく込んでいた。後にその店は、TVに出たらしいことが判明。そういうのって、意外とよく伝わっているのだなーと驚いた。

わたしはTVや雑誌でお店を見ても、即、行くようなことをあまりしない。ふらりと感じのよさそうなお店に入るだけなので、評判とかはどうでもよかったり、する。そしてあまりに多くの人が並んでいたりすると、それだけでげんなりして入る気をなくす。お店側としても、いきなりひとがわっと来るのは、仕入れとか接客が大変なんじゃないかなー、と思う。質が落ちてしまうのでは? という気もするので、行列してる店はしばらくさけてしまう。すいた頃いこうかな、と思っていると、いつのまにか忘れてしまう。

というわけで、あまり話題の店、とかには行かずに、一生を終えるような気がする。


菓子折りを買う場合
2001年10月28日(日)

駅から家に帰るまでに、和菓子屋さんがある。ショーケースにはおもちらしきものやおだんごらしきもの、お赤飯などがならべられている。店の奥は暗く、白髪のおじいさんが、椅子に浅く腰掛け、TVを眺めている。

いつ通っても、同じような商品が同じ数だけあるように見える。ちゃんと売れているのだろうか、古いものを売ってはいないだろうか、と不安になる。たまには和菓子でも食べようかな、という気分になるのだが、なんとなくここでは買う気になれない。

洋菓子やさんは、若い女の子が働いていて、店内は明るく、商品が少なくなったり新しいのが入ったりという動きもよく見える印象がある。パッケージも可愛いし、店に入りやすいしラッピングもたのみやすい。

すべての洋菓子やさんがそうだとは思わないし、すべての和菓子屋さんが先述のような雰囲気とは限らないのだろうけれど。現段階では、どうしても和菓子やさんより洋菓子やさんが親しみやすい。いい雰囲気の和菓子屋さん、というのも開拓してみたいような気もするが、近所で買う場合、しばらくは洋菓子やさんを使うことのほうが多くなりそうだ。


ある理髪店
2001年10月27日(土)

いつ見ても、あまり客の姿が見えない理髪店がいくつかある。わたしが出歩いてるのが主に平日の昼間だからかもしれないが、どの店の人も暇そうで、生活は成り立っているのだろうか? と、余計なことを思ってしまったりする。

ある店は、開店前と、閉店後、店員が全員で輪になって「ありがとうございました!」だとか、「いらっしゃいませ!」の練習をしていた。体育会系というか..ちょっとこわいぞ。ある店では、その店の店長なのか、年配の、支配人風の雰囲気のひとが、白昼、ドアからぼーっと通りを眺めていた。それも、ちょっとこわい。ある店では、店員らしき男の子が、客用のまんがを座り込んで読んでいたり、モップにもたれて同僚とだべっていたりした。いーのかなぁ。客が入りにくくなると思うのだが..。

土日はそれなりにひとが入っているのかもしれないし、客が沢山いる理髪店、というのも見たことはあるのだけれど。この時代、こんな様子で生き残っていけるのだろうか、と思うような店も多い。首を傾げつつも、理髪店を利用しないわたしは、それらの店を横目に見つつ通り過ぎていくしかないのだが。


秋深まる
2001年10月26日(金)

秋だなぁ..と、最近人が着てる洋服を見て思うようになりました。色が深い。あたたかな色味が多い。ボルドーとかブラウンとか、もとからそういう感じの色も勿論、そうでない、たとえば白やグレーや黒や紺も、生地や質感があたたかい感じ。

近頃のわたしはといえば、まだ半袖がつまってるたんすから、すこしだけ入ってる長袖を出し、ワードローブにかけっぱなしになってる上着をたして外出していたので、あまり「秋!」という感じではなかったのだけれど。

今日、ようやく夏物をしまい、秋・冬ものを出しました。うん、やっぱり感じが違うな、と、新しく出した服を着て思っています。遅まきながら、やっと秋の中に入っていける気分です。


ごみじゃないでしょう
2001年10月25日(木)

先日の夜、買い物に出かけていたとき、植え込みに異様な雰囲気の紙くずがたくさん散っているのを見つけた。よく見たら、それは給与明細とか、手紙とか、請求書とか、そういった類のものだった。銀行の通帳まであった。しかもなんだかぼろぼろで、汚い。泥棒にでもあったのか、いじめにでもあっているのか、わからないがとにかく雰囲気的にも気持ちの悪い光景だった。

住所や名前も書いてあるので、まとめてそのひとに送るべきなのかな..と思わないでもなかったが、急いでいたし、夫も関わらないよう言っているし、というわけで用事をすませて帰ったが。

あれはなんだったのだろう。彼は大丈夫だったのだろうか。


ごみ捨て場その2
2001年10月24日(水)

歩いていたら、張り紙が目にとまった。<警告。ここはごみ捨て場ではありません。ごみを捨てないで下さい>注意でなく、警告ですか..。なんとなく気になって、その場所を眺めてみた。なるほど、ごみ捨て場っぽい。ちょうどかどがあって、ごみをおきやすそうなスペースがある。しかもその紙も、なんとなく「収集日は何曜日です」とか書いてある紙を思わせるような位置にはってある。ぼーっとしてたらここに捨ててしまうかもしれない。

家に帰る途中、自分の地域のごみ捨て場を見た。イチョウの木の下に、何の張り紙も注意書きもなく、ごみが捨てられ、収拾される。うーん、向こうのほうがよほどごみ捨て場らしかったね、と思う。わたしはごみをここに置けといわれた場所に置くし、置くなといわれた場所には置かないけれど。らしさ、らしくなさ、というのはあるものだな、と思った。見かけだけで判断してはいけないのだろうけれど、まずは見かけで判断することが多いわけだから、できればそれらしくしたほうがいいのだろう。そんなことを思いながら家に帰った。




ポケットの中に
2001年10月19日(金)

寒くなりましたね。わたしは寒いのは好きですが、寒さに耐えるのは好きではないので、すぐに着込んでしまうほうです。というわけで、もう厚手の上着をワードローブから引っ張ってきました。

寒がりですが、手袋をもっていないので、当然ポケットに手を入れます。小さい頃、転んだときどうするの、と言われた記憶がありますが、もう大人なのでなんとかなるでしょう。

毎年気づくのですが、ときどきポケットの中に何かが入っていることがあります。クリーニングに出したものがほとんどなので、あったら本当はおかしいのですが。もってかえってからちょっと肌寒い日に羽織ったりしたのかな。

中味はふだん、いろいろ無意識にぽいぽいいれているのでしょう。買い物メモだったり、レシートだったり、何かの半券だったり、たたまれたパンフレットだったり、します。ほとんど使われていない状態のハンカチやポケットティッシュがあることもあります。

あー、去年もわたしは生きてたのね、と、当時を思いだしながら、整理して、今年も使います。おそらくそのくせは、改まることなく。今日も、確認してから腕を通すのです。




ごみ捨て場
2001年10月18日(木)

夫が契約している駐車場は、ごみ捨て場のそばだ。このごみ捨て場、というのが、なんというかいつも散らかっていてかなり汚い。多少乱れてる程度なら、片付けようかな、という気にもなるが、いつ見てもどこから手をつけたら言いかわからない状態なのだ。見ているとなんだか悲しくなってくる。たまーに綺麗になるのだが、すぐそういう状態になってしまう。

最近は、さらに手の施しようがなくなってきた気がする。まず、皮の破けたソファがいけない。このあたりでは粗大ゴミの回収が有料になったのだが、手続きをしていないらしく、もっていってもらえない。そこにいつしか壊れた自転車がささっていた。そのうえにだんだん普通のごみや、あげくのはてには燃えないごみであるカンや、資源ごみのペットボトルまで置かれている。その周りにあるビニールの袋も、口を閉じていなかったり、破れていたりと、まあなんだかもう諦められているというか、みんななげやりになっているというか、全体的に救いがない。からすまでよく来る。そこら一体雰囲気が悪い。

その場所を通るのがどことなく気分が悪いが、使う人はそうでもないのだろうか?




ちらし・2
2001年10月17日(水)

ある日、大学生くらいの男の子が、ポストにひょいひょいひょい、と何か名刺くらいのサイズの紙を入れていた。「?」なんだろ、と思ったが、その男の子の雰囲気は、とてもかっこいいというわけではないが、そんなにかっこわるいということもない、要するにごく普通の子だったので、何も気にせず通り過ぎた。

家に帰って、自分の住んでる場所のポストをのぞいて、やっとわかった。風俗関係のちらしだ。しかしあの男の子、微塵もうさんくささとか後ろめたさとかなかったなぁ。むしろ自然で楽しそうに仕事をしていた。べつだんこそこそしろというわけでもないが、健やかで、単純に働いていた感じ。

まあ、べつにいいけどね、と、一応眺めてからごみに捨てた。


ちらし・1
2001年10月16日(火)

チラシの中に、お手製、というのかな、手書きイラストと直筆のメッセージの入っているものがあった。なんだろう、と思ったら、生命保険の外交員のものだ。「10月から担当になる○○です。早く皆様にいい商品を提供できるよう、頑張っていきたいと思います」みたいな内容だった。

保険とかも夫が管理しているので、わたしは関係ないな、と思い、廃品回収の袋の中に入れた。ただ、すこしだけ心が痛んだ。きっといろいろ考えて、作ったんだろうな。これからも、大変なんだろうな。うまくいかないとは限らないけれど、そんなに簡単ではないだろう。

新卒のとき、生命保険の会社だけは女子大生にも熱心だった印象がある。もしかしたら、彼女はわたしだったかもしれない。違うか、わたしが彼女だったかもしれない。何の力にもなれないけれど、頑張ってね、と思う。

こんなことを考えるから勧誘をなかなか断れないのだろうか。


秋の夜長に
2001年10月15日(月)

空を見ながら、秋だなぁ、と思う。日がだんだん短くなって、暗くなるのが早くなって。秋の夜長に、というと読書が思い浮かぶ。ただ、わたしは年がら年中本を読んでいるので、べつだん秋に限定しなくてもいいんだよね、と思う。

とするとメールとかネットとかだろうか。でもそれも日常的にしていることだし。少し時間がかかり、たまにしかしないもの、というと、雑誌のスクラップかな。この時期、紅葉特集とかをわさわさ買い込んでしまうし。

こういうとき、手芸の得意な人とかは、服や小物を作ったり、編物や刺しゅうをしたりするのかな。とりあえずわたしはそういうタイプではないのだけれど。

あれこれと思いをめぐらせながら、そうか、考え事とか、もの思いにふけるのもいいかもしれない、と思った。必ずしも文字にして残さなくても、形にならなくても。ぼんやりと、毛布にくるまって、あたたかいハーブティなどを飲みながら、想像の世界をさまようのも、また一興、と。


もしも火事か地震で
2001年10月14日(日)

小さい頃、火事が起きたら何を持っていこう、と考えたことがある。友達からの手紙や、自分の日記、お気に入りの本、大好きなものたちの、どれを連れて行けばいいのだろう、と。弟に話したら、「とりあえず金ジャン?」と、言われたような気がする。言われてみれば、なるほど、確かにあったほうがよさそうだ。それによく考えると、一番大事なのは命であって、家族全員が無事なら、それだけでもうとても有難いことなのかもしれない。

結婚して夫とふたりで暮らすようになって、考えてみた。今、火事が起きたら。うわー、ものすごくいやだ。子供の頃は気にしてなかったけれど、この家の家具のほとんどは、大人になってから、自分達のお金でそろえたものなのだ。わたしはかなりの駄目OLだったけれど、それでもなんとか頑張ってためて、あれこれ考えて買ったのだ。全部燃えた場合、もう一度そろえるだけのお金は、きっともう稼げないだろう。ああぁぁぁ。

ついでに地震、というのも考えてみた。子供の頃は、痛いのヤダ、苦しいのもヤダ、という単純なことしか思わなかったが。いま一番気になるのは..やはりPCだろうか。これは退職金をはたいて買ったもので、大事なデータはバックアップしてあるとはいえ、やはり愛着が強い。というか、根本的にに何であれ、どれも失われるのは惜しいものばかりだ。災害は、いつ起こるかわからない。わたしは特別な備えなど何もしていない。実際にあってからでは遅いのだが、考えてもうわぁぁあ、と、パニックな気分になるだけで、こんなことしか思いつかなかった。


もしもどちらかが先に
2001年10月13日(土)

ときどき夫と、どちらが先に死ぬだろう、とか、そのあとどうしよう、という話をすることがある。一緒に、というのは一番の憧れだが、そううまくいくとも思えないので。さて、わたしが先に死んだ場合、話はわりと簡単だ。夫は家事も万能だし、仕事もできるし、友人も多く、家族も普通にいるので、はじめは悲しくても、なんとか生きていけるだろう。再婚も夢ではないはず。

問題はわたしが残ってしまった場合だ。家事もあまりできず、仕事もパートだ。資格や特技もない上に社会性に乏しいので、今更正社員になれるとは到底思えない。実家はあるにはあるが、母親が出て行ってしまったので、あまり居心地のいい場所ではない。友人、というのも限りなくゼロに近い(話を聞いてくれる人くらいはいるかもしれないが)。夫は「まあ一年くらいは生命保険で生きていけるかもしれないけど、やっぱり実家に帰るしかないんじゃない?」という。現実問題そうせざるをえないだろう。しかし父が死んだらどうすればよいのだろう? 昔「いざとなったら水商売」と思っていたこともあったが、今はもう若くないし、そんなに甘いご時世でもないだろう。

それ以前に、わたしは夫が死んだ場合「喪主」とかいうのにならなくてはいけないのだろうか。嘆き悲しむだけで、ほとんど実務的なことはできないのではないかと思うのだが。気力体力に欠けるので、介護も、するよりはされるほうがいいだろう。あれこれ考えあわせると、わたしが先に弱ったり死んだりしたほうが、平和なのだろうな、とそのたびに思う。


ある日の光景・2
2001年10月12日(金)

たまに、電車で、小さい子と若い母親を見る。まだ赤ちゃんぽい、幼稚園には行ってないかな、くらいの年齢の子供は、長時間電車に乗るのが退屈なのか、不満なのか、よく泣く。声も大きい。わたしは子供が苦手だけれど、あまり嫌な顔をするのも、若い、申し訳なさそうな母親が可哀想かな、と思うので、できるだけ気にしないようにしている。が、時々、母子の近くで、話し掛けたり、笑いかけたりしている女性がいることにきづく。

おそらく子供を産み、育てたことのあるひとなのだろう、慈愛に満ちた微笑を浮かべ、いくつ?とか、どうしたの?等、優しい声と言葉で話し掛けている。子供が必ずしも泣きやむわけではないけれど、話し掛けられた母親は、大体ほっとした表情を浮かべる。わたしはその光景を見るたびに、ああ、ああいうおばさん(あるいはおばあさん)は素敵だな、と思う。

子供のいる生活には、大変さもあるだろう。子供のいない生活にも、よさはあるだろう。子供とうまくいくひともいればいかないひともいて、子供を産み育てる経験が、あまり向かないひともこの世にはいるだろう。わたしの母も、あまり母性的なタイプではなかった。でも、ああいった、何気なく声をかけたり、微笑みかけたりできるひとたちは、きっと子供を産み育てることで、ゆたかにしなやかに、やさしさを身に付けたのだろうと思うのだ。

わたしは、もう気力・体力が衰えているし、こどもを生んだり育てたりは、多分しない(あるいはできない)だろうと思う。だから、ああいうひとたちにはなれないし、なろうとも思っていない。でも、ああいうひとたちがこの世にいる、というのはいいな、と思う。場が和み、心があたたまるような気がするから。


ある会話
2001年10月11日(木)

夕方、自宅に電話がかかってきた。夫かな? と思ったら、不動産関係の営業らしきひとからだった。声が、自分と同年代くらいの雰囲気だった。以下、記憶にそって再現してみる(※実際向こうの人はもっとなめらかに、上手に喋っていた)。

「はい、もしもし」
「こちら○○と申しますが..失礼ですが、お嬢様ですか?奥様ですか?」
「あ、えっと、いちおう妻です」
「最近駅のすぐ近くに当社のマンションができまして、ぜひ一度ご覧頂けないかというご案内なんですけれども」
「あー・・えっと、そういう予定はないんで..」
「でも、いまいらっしゃるところは借りてらっしゃるんですよね? 会社の家賃補助とかありますか?」
「えーと..ごめんなさい、あったような気もしますがわからないです」
「? わからないですか?」
「ハイ、お金の管理は全部夫がしてるんです」
「ええぇっ?!」
(そんなに驚くようなことー?)
「えっと、でも、いずれはマンションとか、旦那様もお考えですよね」
「んー、そういう話もあんまり聞いたことないなー」
「でも、今お住まいの場所は、月×万くらいしますよね?」
「あれ? その半分くらいだったような..」
「え? でも、×DKでしたよね?」
「あ、ハイ。補助入れて、かもしれませんが」
「あー、そうですかー。でもですね、いつか見るだけでもですね。旦那様と、お立ちよりいただければ、よさがわかると思うんですね。また何か気が変わりましたら、いつでも新しくご紹介できますので。今後もよろしくお願いいたします」
「そうですね、今回は、お役に立てなくてどうもすみません」
「いえいえこちらこそ、お忙しいところを大変申し訳ありませんでした」

といった会話をしていたのですが..。わたしはどうもこういうのを断るのがへたで、いつも聞かれたまま話してしまうし、なかなか切れないのです。でも、今回のこのひとは、途中で話が脱線しても、とても好感の高い話し方で、なんというか仕事がとても楽しそうで、思わず頑張って下さいね! とか言いたくなってしまいました。しかしどこからそういう情報って流れてるのでしょう、家賃だの住んでる場所の間取りだの..。


ランドセルとリボン
2001年10月10日(水)

小学校低学年のとき、ふざけていたクラスメイト(男子)に、ランドセルをつぶされた。校庭の後ろ、体育館の横、ブランコやタイヤのあるあたりで。そのときわたしは、誰か友達を待っていて、本を読んでいて、ランドセルは近くに置いておいたのだ。わたしが何をしたっていうの? 本に集中していて、理由は全然わからなかった。

わたしは小さいころ、男の子によくいじめられていた。ぼうっとしていたせいかもしれない。本ばかり読んでいたのでクラスでも浮いていた。女の子達は、まあ、そういう子なのよね、と思っていたのか、とくにいじめられなかったし、一緒に登下校したり、遊ぶ子も何人かはいたので、とくに気にしてなかったけれど。このときばかりは本当に悲しかった。卒業するまで、背負うたびに悲しかった。

小学校高学年のとき、髪の毛をひとつにまとめて、母にリボンを結んでもらったことがある。きっかけはなんだったかわからないが、クラスメイトの男の子に、一番のお気に入りだった、桜色(白いすかし模様が入ってた)のリボンをひっぱられ、とられたことがある。髪はぐちゃぐちゃになるし、さんざんだ。帰る道々泣いたし、帰ってからも泣きつづけた。

わたしは、その男の子達に、かくべつ何かをした覚えはない。男の子達は、皆うるさくて乱暴で下品な、よくわからない生き物でしかなかったので、できるだけ関わらないようにしていたはずだ。わたしはぼーっと教室の片隅で本を読むことだけで満ち足りていたのに、どうしていちいち意地悪をしにくるのか、見当もつかなかった。

中学生になると、わたしはぐんぐん背が伸び、ほとんどの男の子は事実見下せるようになったし、成績もあがり、何より本だけでなくひととも喋るようになったせいか、とりあえずいじめられなくはなったが。わたしはこころのどこかで男子という存在がとてもいやになったらしく、自分で選べる高校・大学は、女子だけのところに行った。

こんな人間でも、成人する頃にはすこしずつ男の子を人間として見られるようになったし、その後一応縁あって、今は結婚もしてるので、世の中はありがたいところだけれど。今はもう、「男の子」のいいところも、「男の人」のいいところも、余裕をもって眺められるようになったけれど。でも、あの日のちいさなわたしがとても悲しかったことや、今でも思い出すと泣きたくなることは、たとえどんなに素敵なひとが優しくしてくれても、愛してくれても、消えることはないのだ。


さようなら遊園地
2001年10月02日(火)

向ヶ丘遊園が3月に閉園、という話を聞いた。今年はそういう、閉園の話をあちこちで聞いた年だったように思う。ワイルドブルーヨコハマ、行川アイランドなど。これからもどんどん増えていくのだろうか。悲しい。

向ヶ丘遊園には行ったことがないのだけれど、バラが素晴らしい、というのを聞いたことがあり、いつか行こう、行きたい、と思っていた。今年は絶対に行こうと思う。何が何でも行かなくては。

関東の、そういった施設の閉園の一因に、現在は一人勝ちの感がある、TDLの存在があるらしい。わたしは、TDLも嫌いではないが、大好き、というほどではないので、もしそのせいなら余計に悲しく思う。

どの施設も、その施設なりの良さがあったのだろうと思う。そしてそこに、大事な思い出や経験のあるひともいるのだろうと思う。何らかの施設がなくなる、というのは何でも悲しい。経営できなくなった事情は、それぞれなのだろうけれども。当事者が一番辛いのだろうと思うけれども。でも、遊園地がなくなる、というのは、通常より寂しさを感じさせる。あとはどう使われ、何になるのだろう。




さようなら長嶋監督
2001年10月01日(月)

わたしは野球のルールも、選手名もほとんどわからない。それでも、彼の顔と名前くらいはわかる。彼がどういう選手だったか、監督としてどうだったか、ということも実はよくわからない。CMとかで見て、なんとなく憎めない感じのひとだなぁ、程度は思ったことがあるけれど。

でも昨日の勇退セレモニーや今日の報道を見ていて、ああ、好きな人は本当に好きだったのだろうな、と思う。そういえば、父も彼を好いていた。若い頃は隣町の英雄、としてとても憧れていたといっていた。ふーん、としか思っていなかったけれど、ひとつの時代の終わり、憧れとの別れ、を味わっている人は、それなりにいるのかもしれない。

なんというか、采配がへんだとか、実は裏があったとか、そういう話も聞くのだけれど。でも、そういうのがあったとしても、どこか「寂しくなるなぁ」という気がする。わたしのような、野球がさっぱりわからない人間にも、なんとなく目を奪ってしまうような、存在感のようなものがあったから。




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