「静かな大地」を遠く離れて
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2009年10月25日(日) メチエの誘惑

講談社選書メチエがいい。殊に山崎比呂志さんという編集者の方の手がけた本はツボにハマる。できれば
この本に最近の研究成果も添えて一般向けにリライトして出版してもらえないものだろうか。

■内藤みどり『西突厥史の研究』(早稲田大学出版部 1988)
 古代トルコ人が6〜8世紀にかけて中央アジアのほぼ全域を支配し、中国人によって西突厥と
 呼ばれていた時代を検証する。中国・東ローマ・イスラム史料等を博捜した本格的研究。

どっちにしてもネット上のツブヤキにすぎないのだが、著者の内藤みどりさんという方にいきなり一般向け
の本を書いて欲しいとお願いしても困るだけだろうし、青木健『ゾロアスター教』のように、一見とっつき
にくそうに見えるテーマを読みやすくて面白い本にすることにかけて山崎さんが抜きん出た仕事をなさって
いるという印象を強くしているからだ。最近の玉木俊明『近代ヨーロッパの誕生 オランダからイギリスへ』
も今読んでいるところだが、すばらしい。数年前から新書というジャンルがおかしなものになってしまって
(それはそれで楽しんでいるのだが)元来の「わかりやすくて知的体力の増進に役立つ」という機能を喪失
してしまった今では、講談社選書メチエ、とりわけ山崎比呂志さんが担当されたものを楽しみにしている。

■栗本慎一郎『シルクロードの経済人類学 日本とキルギスを繋ぐ文化の謎』(東京農大出版会)より
 皇家の動きが複雑で、領域も影響も錯綜していた西突厥の歴史を詳しく確定することは、今日の学問的
 成果をすべて動員してもほとんど不可能に等しい。けれども、もし関心があるなら世界最高の研究書が
 日本にはある。中国のものだけでなく、フランスの権威シャバンヌをはじめとした西側の史料もすべて
 検討して書き上げられた内藤みどり氏の『西突厥史の研究』(早稲田大学出版部 一九八八)である。ただ、
 唯一、カザールとの関係がほとんど検討されていないのが残念だが、それは仕方がない。

栗本さんも上のようにおっしゃっているが続けて「この最高の研究書においても、相当の予備知識がないと
一般の読者には記述の主要点がわからないという問題は発生しうる。」と書かれている。第一、版元品切れ、
近場の図書館にもない。アマゾンでは古書に途方もない高値がついている。・・・ということは潜在需要が
あるということでもある。天馬空を駆ける式の栗本師の著書に魅了されつつ、もっと着実かつ読みやすい本
で近年注目されるユーラシアの歴史に分け入りたい、という読者は多いに違いない。唐代の中国史と西域と
の関係は人気のあるテーマだし、この古代の騎馬民族の歴史が、どこかで澁谷由里『馬賊で見る「満洲」』
と呼応しないとも限らない。優れた研究者の成果を広く一般の読書人に伝える良い仕事になると思う。

えーと、あとほかに、「ジョルダーノ・ブルーノ 多元宇宙の幻視者」「受肉論 キリスト教の根源を繙く」
「牧志朝忠と島津斉彬 幕末インテリジェンス戦争」「徳川宗春 尾張ピクチャレスク事始」「ローウェル
 明治と火星とボストニアン」「はじめての暗黙知 マイケル・ポランニーと人格的知」「日蓮 法華経で
読み解く日本近代の難問」「榎本武揚 もうひとつの明治」・・・なんてのもよろしくお願いします♪


2009年10月19日(月) 草原の道

およそ100年という時代の物差を意識することが最近多い。人類の南極点初到達のあと例の1913年の
太陽黒点ゼロの年があって翌1914年が第一次世界大戦の勃発。「神の住む白き大地」に足を踏み入れて
ロクなことが起こるわけがない・・・というのは話が逆で「根っこが腐っている」欧州文明の拡大欲こそが
極点到達などというプロジェクトを下支えしたのだとも言える。日露戦争に勝って韓国併合を強行しようと
いう日本でこそ白瀬隊の「壮挙」は目論まれたのだし、戦後、サンフランシスコ講和条約には日本の南極に
関する利権の放棄が盛り込まれたりもしたという。ここからは、もはや「2016年」まで地続きだろう。

ネーション・ステートがグレートゲームに勤しむのは、まるっきり過去の蛮風でもなんでもなくて、今ここ
のリアリティそのものである。アフガニスタンも東トルキスタンもインド洋の給油も普天間基地も当たり前
につながっていることを実感できないのは歴史健忘症のせいだ、と断じれば「静かな大地を遠く離れて」の
語り口になるだろうか。まずパンチのある本を挙げておこう。

■海野弘『陰謀と幻想の大アジア』(平凡社)
 満州国、ウラル・アルタイ民族、騎馬民族説、大アジア主義、ユダヤと反ユダヤ、回教コネクション、
 モンゴル、シルクロード、大東亜共栄圏をキーワードに、石原莞爾、江上波夫、内田良平、大川周明、
 孫文、三笠宮、出口王仁三郎、井筒俊彦、徳王、梅棹忠夫、大谷光瑞らが織りなす異貌のアジア近代史。

この本は異常に面白かった。キレイに「なかったこと」化されているミッシングリンクが網羅されている。
かつて南極に列強の視線が集まったのとパラレルに、ユーラシア大陸の中央部もまた争奪戦の対象となった。
日本が「立派に」そのゲームのプレーヤーの一角を占めて堂々戦っていたことがわかる。海野氏は戦前の
古書を渉猟しながら、モンゴルやイスラム、ユダヤに関する学術書が多数出版されていたことに注目し、
学術と政治の危うい関係を繙いていく。戦前の情報戦の俊秀たちが如何に大陸に食い込もうとしていたか、
その細目を追うことによって、国家という獰猛なイキモノの息吹が身に迫って感じられる。

この大陸への原罪を見事に忘却したかに見えるのが戦後の日本というわけである。シルクロードと言えば
魅惑の世界遺産と探検の歴史ロマンあふれる地、などというのはテレビと旅行パンフレットの見すぎで作ら
れるお気楽な脳内パノラマだ。砂漠をラクダが歩き、喜多郎の音楽が流れるTVのフレームで切り取られた
シルクロードは、中華人民共和国政府の見せたいイメージと日本人が見たい妄想との化合物であって、あれ
はあれで時代の作品として面白いものだったと思う。モーリー・ロバートソン氏の報告でバイアスを正そう。

■モーリー・ロバートソンのウイグル旅行記 http://www.webdice.jp/dice/series/18/ Vol.3より
 マイノリティに対する問題は、ウイグルでも中国でも、そして日本でも似たようなことが違う形で
 起きている普遍的なものだということだ。農業が盛んなウイグルだが、その点で言えば中国の農村
 地帯の貧困問題も深刻。視野を拡げて、中国の経済構造の不平等などにも目を向ける。
 日本は過渡期で、少子高齢化などの問題を抱えるが、見つめたくないものを見つめ、模索を続ける。
 「政府がやる」という思考から脱皮し、自分でものを考え、自分でものを考え表現することが
 できない中国について考えることが、今日本にいる私たちにできることではないか。

ことは、中国と日本の間に横たわる歴史的な過去の清算、どころの話ではないのだなと緊迫感をもたらして
くれるのが副島隆彦氏の近著。ますます預言者めいている氏が大注目しているのが、まさにユーラシア大陸
の真ん中、中央アジア地域だったりするのである。

■副島隆彦『あと5年で中国が世界を制覇する』(ビジネス社)より(引用 P.156〜157)
 「シルクロードの現代的復活」ということが、現在の中国の西部への巨大な拡大を考えると、これからの
 世界史(ワールドヒストリー)の躍動を洞察するうえでもの凄く重要だ。(中略)
 だから北京や上海と日本との関係という小さな視点でものを見ている中国論は、もう古い中国理論だ。
 だから私は、新疆ウイグル自治区という「奥地」のさらにその向こうの、というか、ユーラシアのヘソ
 (中心地)であり、“世界の屋根”である中央アジア、就中、カザフスタンという安定大国に急いで行った。
 ここにやがて、「新しい世界銀行(ニュー・ワールドバンク)」が建設されるだろう。
 (引用終わり)

やけにここだけ引用の手順を踏んでいるのは、クウォートの仕方をちゃんとしないと怒られそうだから♪
それはそうと、世界の経済の安定を前提にして食いつなぎ得ている日本国の責任ある大人は、ウカウカして
いてはイケナイ状況であるようだ。ええと、ややこしいけど『陰謀と幻想の大アジア』からの読書感想文と
しては、戦前にやったこと&やろうとしたこと、さらにそれがいま現在の国際政治や経済とどうリンクする
のかということを、まずは虚心坦懐に「知る」ことから努力しないと自閉症は治らない、ということかも。
これからどういう態度で世界とつきあって行くか考えるのに、必要なカードが隠されているのはマズかろう。

■佐藤優「対ロシア情報戦略の虚々実々」(『文藝春秋 臨時増刊「坂の上の雲」と司馬遼太郎』)より
 日本の情報作戦でロシア人がいち早く警戒感をもった理由は、実は初代駐露公使の榎本武揚の活動による
 ところが大きいと思います。最近『榎本武揚シベリア日記』(講談社学術文庫)という本が出ましたけど
 榎本は諜報旅行をしている。(後段からの抜粋)榎本武揚、福島安正、広瀬武夫が動くことができたのは、
 ロシアにとって有害でない人物という印象を与えることができたからでしょう。いったんそうなると、
 ロシア側に不利になることでも平気で認めるところがありますね。

座談会で佐藤優さんが「静かな大地を遠く離れて」の視点として見逃せない重要なことを二つ発言している。
一つは榎本武揚の名前を挙げていること。これは佐々木譲さんの名作『武揚伝』ファンにも朗報である。
(これについては『近代日本の万能人 榎本武揚』で佐藤氏を担ぎ出した藤原書店の功績が大きい。)

佐藤優氏と榎本武揚には運命的なまでの共通点がいくつかある。語学に卓越した最良の官僚であったこと、
日露国境交渉の歴史に大きな足跡を残したこと、「国家の罠」ゆえ罪なくして獄中に入るも意気軒昂に実務的
な日々を過ごしたこと、そして国家元首級の人物に愛される人間的な魅力を持ち合わせていたこと、である。
いつか佐藤氏には、ご縁を大切にしていただき榎本武揚の後半生を題材にした本を書いて欲しいものである。
今夜はメモにとどめるが他に同時代ではアーネスト・サトウ、それに牧志朝忠と佐藤優との相似も興味深い。

二つ目のポイント。榎本のシベリア諜報旅行に注意を促している点。 色川大吉『近代国家の出発』の冒頭に
この「絵になる」シベリア旅行が描かれていて、映画のような、叙事詩のような、出色の導入となっている。

■色川大吉『近代国家の出発』(中公文庫『日本の歴史21』)より
 榎本は扉をしめて瞑目し、想いに耽る。
  涅陳城外雪花飛ぶ 満目の山河 已に秋にあらず 明日黒龍江畔の路 長流我と共に東に帰る 
 帰ってゆく先は内乱の余燼なおくすぶる島国日本である。この広大なユーラシア大陸の絶東、ようやく
 文明の夜明けを迎えようとしている感慨無量の山河である。モスクワを発って、一日々々馬車(タランタス)
 が東へ向かうごとに、文明から遠ざかってゆく感があった。そして、ザ・バイカルを越え、東にさらに馬車
 を進めるごとに、文明に近づく想いがかれに迫ったであろうか。

榎本はシベリアの曠野を馬車で疾駆し、西南戦争後の動乱の明治日本へと急ぎ帰還した。このシベリア旅行
に注目しようとするのは、しかしその詳細や明治の史劇に分け入っていくためではない。ユーラシア大陸を
横断した事実にこそ目を向けたいのだ。サンクトペテルブルグから極東ウラジオストックまで途方もない
距離のように感じるが海路で後年バルチック艦隊が回航したルートに比べれば遥かに近い。メルカトル図法
ではなく地球の球面に近い図法で描かれたユーラシア大陸の地図を参照して欲しい。さらに距離感は縮まる。

■シルクロード上空からのユーラシア http://dsr.nii.ac.jp/geography/blue-marble/globe-20.gif

ユーラシア大陸の北方を東西に走る「草原の道」こそ、本来、人類の文明のメイン・ストリームであった、
というのが近年の栗本慎一郎氏の研究テーマだ。コーカサスやメソポタミア、イランなど文明の先進地から
の、人や物の移動を含むダイレクトな影響が、日本列島の歴史をも創ってきたのだという。

■栗本慎一郎『シルクロードの経済人類学 日本とキルギスを繋ぐ文化の謎』(東京農大出版会)より
 この「最新」の渡来王族蘇我氏が五世紀末にいたる北ユーラシアの政治や宗教の具体的知識を持って
 外交も内政も執り行おうとしたというのが私の推論である。つまり飛鳥に見られる多くのユーラシアや
 ペルシア文化の痕跡や影響は偶然的なものではなく意識的な導入の結果だということだ。また聖徳太子
 が行った(という)法治国家への整備事業や中国に対しあえて同格性を強調した外交、国内反対派を
 押し切っての弥勒仏教の導入(同時の聖方位の導入)なども意識的なものだった。これらが大化の改新
 によって頓挫するのは、おそらく「やりすぎ」あるいは「スピードが早すぎる」という反対の結果だろう。

斉明天皇時代の阿部比羅夫の沈黙交易に言及していたのも『パンツを脱いだロシア人』に渤海使節に関する
イラストと説明が唐突に、かつ印象的に入っていたのも、すべてこうした関心の重力圏でのことだったのだ。
だが日本神話の重要な要素が北ユーラシア由来だということは、今年出た下の本を覗いてみても、あながち
栗本氏一流の人並みはずれた天才的な直観というわけではなく、むしろ定説と言ってもいいことであるらしい。

■溝口睦子『アマテラスの誕生 古代王権の源流を探る』(岩波新書)
 戦前の日本で、有史以来の「国家神」「皇祖神」として奉じられた「アマテラス」。しかしヤマト王権
 の時代に国家神とされたのは、実は今やほとんど知る人のない太陽神「タカミムスヒ」だった。
 この交代劇はなぜ起こったのか、また、古代天皇制に意味するものは何か。広く北方ユーラシアとの
 関係を視野に、古代史の謎に迫る。

江上波夫の騎馬民族説などと栗本氏の説の決定的といっていい相違点は、渡辺豊和氏の所説を援用しつつ
蘇我氏を含む北ユーラシア勢力が日本列島に入ってきたルートを、朝鮮半島から九州経由ではなく、それに
拮抗あるいは凌駕する形で、北日本(東北、北海道)から関東、北陸を経て畿内、奈良へという逆コースで
捉えた点である。

■遠野テレビ ケーブルテレビ 2008年11月11日放送 栗本慎一郎氏講演会
 先週金曜日、NPO日本里山協会が主催する栗本慎一郎さんの講演会が開かれました。講師の栗本さんは、
 経済人類学者として、現在、東京農業大学の教授を務め、経済人類学をフィールドワークとして近年では
 古代日本とユーラシアの繋がりを発掘調査などで実証的に追求しています。
 講演会では「ユーラシア騎馬遊牧民に繋がる遠野の馬文化」をテーマに古くからある遠野の馬文化は
 どのように育まれたのか経済人類学を背景にユーラシア騎馬遊牧民との繋がりについても話していました。

言われてみれば確かに渤海との交通は日本海を通っていたし、中世の十三湊の安東氏も
多いに活躍していたのだから、何も大陸とのルートは台風で難破の危険の多い東シナ海から玄界灘だけでは
ではない。日本列島は北に向かって大陸に開かれている、そしてオホーツク海に注ぐアムール河をさかのぼ
れば「草原の道」という文明のハイウェイに直結していたのだ。何とも視界の良い歴史観ではないか。

■LOHAS TALK  J-WAVEのHP http://www.j-wave.co.jp/blog/lohastalk/2007/02/より 
 経済人類学研究者の栗本慎一郎さんをお迎えして最終日はシルクロードについてのお話でした。
 栗本さんは昨年、「真のシルクロードを探る」という旅を計画なさいました。通常シルクロードといえば
 タクラマカン砂漠から天山山脈の西部を越えてタシケント〜ブハラ〜イラン高原東にいたる道筋を考えます。
 でも栗本さんの唱える真のシルクロードとはコーカサス、アルメニアやアゼルバイジャンまでのこと。
 真のシルクロードを実際歩くと草原や花がきれいな素晴らしい道なんですって。そう考えると、どうせ歩く
 なら楽しくてきれいな道、人はその先に天国みたいなもっと良いところがあるんじゃないかと思い、
 シルクロードを歩いたのでは…という推測が出来ます。

それにしても「タカミムスヒ」と言えば、栗本氏も昔から何度も言及してきた半村良の傑作『産霊山秘録』
の「ヒの一族」の祖に設定されていた神ではないか!『産霊山秘録』を、栗本氏の『シリウスの都 飛鳥―
日本古代王権の経済人類学的研究』を踏まえて再読すると、またさらに面白そうだ。天皇制を論じるならば
根底からしっかりと覚悟をもって論じなければいけない、というのは思えばずっと栗本氏の持論であった。

■栗本慎一郎「国家と天皇制の形成についてのメモ」(『流砂02』所収)より
 天皇制はほとんど間違いなく騎馬民族が帝国を作るときに採用した王制なのである。そしてその主要素は
 メソポタミアから(パレスチナをも経て)ユーラシアの北の草原を日本列島まで渡ってきた。途中北満州
 に大きな「踊り場」を設けたのだ。そしてその本質はどう考えても「専制」のためではなく、「連合」の
 ための王制である。農民主体の王権と違って、一方で女性の地位が高く、双分制の要素を持っている。
 ユーラシアにおける付帯的要素として巨大土盛り墳墓を作り、私が分析してきた聖方位を節々で重視し、
 ミトラ教的だったかもしれない太陽信仰(時に星辰信仰)の神官だった。
 多くの天皇制をめぐる謎が解けてくるはずである。

1999年10月29日、脳梗塞に倒れられて以後の10年、なおしばらくは現役の代議士でもありつつ、
またシンクリールを開発しながらの闘病生活もしつつ、北方ユーラシアの風が吹き渡る古代日本、ひいては
交易と文明交流の主舞台である中央アジアの遊牧帝国の研究を進めてこられたのだ。近代ヨーロッパ文明の
背後にも、歴史の織物の図柄の中に編み込まれた遊牧帝国カザールの影が広がっている。その図柄はまた、
日本の国家形成の本質にまつわる神話の再解釈、再発見の契機をも、現在のわれわれに示唆している。

■栗本慎一郎『パンツを脱いだサル』(現代書館)より
 カザールの華やかな首都イティルも、要塞都市サルケル(現ボルゴグラード、旧スターリングラード近辺
 のチャムリンスク湖内)も水利工事の名を借りて水没させられている。(中略)
 ロシアーポーランド問題に生半可の学者の数倍もの密度をもって研究していた元モスクワ大学講師(同じく
 元栗本自由大学講師)の佐藤優氏(元外務省)は、「ロシアの隠れユダヤ人の政治家」の仕業だと私に示唆
 した。同氏は本業が外交官であって、のちに鈴木宗男事件に連座して外務省を辞めさせられるが、その直接
 の理由はロシア問題ではなくイスラエル問題だったことを想起するべきだ。ユダヤ人の多いロシア政治界は、
 イスラエルと強いコネクションを持っていたのである。カザール帝国の首都は、今日のウクライナであり
 ロシア革命後のソ連であったから当然だろう。(※引用者注 佐藤氏の履歴については引用のまま)

刊行時に『シルクロードの経済人類学』を一読した際、なんとも言えず感情を動かされたのは、本論からは
わき道にそれてカール・ポランニーに触れたところだった。彼は、本来シルクロード諸文明が経済人類学の
主なフィールドとなって然るべきはずの場所であるのに、自らの出自であるアシュケナージ・ユダヤ人の
問題に触れたくないがため、代わりにアフリカやメソポタミアを扱ったのだと栗本氏は読む。
ピーター・ドラッカーの『傍観者の時代』に描かれたカール・ポランニーの面影、それを受けて栗本氏が
『ブダペスト物語』を書いたこと、『パンツを脱いだサル』でのケストラーへの言及、それらが相俟って、
カール・ポランニーの「隠された意思」をいま書くに至った栗本氏の魂の軌跡が浮かび上がってくる・・・
人の想念というものは、かくも頼りなく、かくも力強い何かに拠りながら受け渡されていくものであるのか。

■日野啓三『ユーラシアの風景』(ユーラシア旅行社出版部)
 この十年で、私は幾度もの「死に至りかねない病」を経験し、その思いをいっそう強くしました。だから
 私は自分の使命として考えることを放棄したりしない。いろいろなことが気になってしかたがない。気に
 なって調べて考えたりしている。そうしているうちに、昔から人間は同じようなことを続けてきたのだと
 いう思いに至る。そうした人間の精神に私はとても共感を覚えています。きっと何か目に見えない力が私
 を下支えして、私をそのように仕向けているのです。滅びの可能性を孕みながらこれまで人間はしなやか
 に生きてきたし、これからもそうできるはずです。

「草の言葉」の使い手たちが、大陸を東へ西へと受け渡してきた何か目に見えないものに耳を澄ますこと。
遠い過去が遥かな未来へとつながるルートを流砂の中に探しつづけること。


2009年10月07日(水) 札幌

「静かな大地を遠く離れて」を書きたいと思うことは時々あるけれど、更新のハードルを自分で高く設定
してしまっているキライがあってなかなか文章にならない。でもこれは見過ごすわけにはいかないだろう。

■私の読書日記(『週刊文春』2009年10月15日号)
 ぼくが生まれて育ったのは北海道である。梅雨がないことで知られるとおり、最も乾燥した土地だ。
 フランスを離れて日本に帰ろうかと思った時、同じ空気の中に住みたいと思って、札幌に決めた。
 ここの今日の湿度は六八パーセント。やっぱり乾いている。

そうきたか、と虚を突かれたと同時に、何かが収まるところに収まったという感じもある。少なくとも
このニュースは2006年秋の北海道立文学館の企画展の記憶を呼び起こして明るい気分にしてくれる。
タイミング的に政権交代と相前後しているので、政治的な議論の盛んそうなフランスのお友達の中には、
ムッシュ・イケザワは前政権が支配する日本から政治亡命していたのだと思っている人もいたりして。
「絶対に今の日本に住みたくない」と氏が思っているわけでもないと思うことは、ちょっと救いになる。

札幌は人口比に対して書店が充実している、というのが3年前の滞在時の実感だった。この時代に狭い
都心に大型書店が林立(は大げさだが)しているのはすごい。以前住んでいた名古屋と比べると差が
際立っている。氏がネットではないリアル書店で「狩猟的な本選び」に興ずるのにも充分な環境である。
つい最近3年前の滞在で買いこんだ北海道関連の本の一冊を書棚から引っぱり出して読んだところだった。

佐藤忠悦『南極に立った樺太アイヌ 白瀬南極探検隊秘話』(ユーラシアブックレット)が、その本だ。
山辺安之助と白瀬中尉を主人公としたノンフィクションで、薄いブックレットながら読み応えがある。
極地探検が盛んだったのは今からちょうど100年ほど前。ピアリーの北極点到達が1909年、南極点の
到達はアムンゼン隊の1911年である。極点には到達できなかったが白瀬隊が1912年。日露戦争後
から第一次世界大戦に至る前、探検への情熱や名誉と諸帝国の領土的野心とが綯い交ぜになった時代の話だ。
もちろん、この本に手を伸ばしたのは「氷山の南」の連載がはじまったからである。

■新連載小説「氷山の南」がスタート! 作家の言葉
 「若い主人公が冒険にいどむ。彼は南極海の氷山を運ぶという大がかりなプロジェクトに
 こっそり潜り込み、氷海を行く船の上でとんでもない試練に出会う。
 船の人々は国籍も宗教もさまざまで、反目も多く、ずいぶん怪しい奴(やつ)もいる。
 そこに不思議な信仰を持つグループが登場して……。
 純白の巨大な氷山を仰ぎ見る体験を共有していただきたい」

密航少年の行動を追うプロローグは懐かしいターリクを思い出すし「20マイル四方で唯一のコーヒー豆」
の主人公の面影も感じる。ヘリコプターの操縦マニュアルが役に立つ展開もあるかもしれない。
が、何より目をひくのはムックリを携えたアイヌ系の少年という設定だろう。
海を見たことがなかったけれど、列車に乗ってオホーツクまで流氷を見に行ったというエピソードを読めば
はてさて厳密な距離計算はしていないけれど彼の故郷は十勝かはたまた二風谷だろうかなどと考えてしまう。
白瀬隊が到達した「大和雪原」に彼のムックリが響く場面もあったりするのだろうか。なかなか楽しみだ。
関係ないけれどこんなことなら、このお芝居を見逃すのではなかった(主演は今井朋彦さん)。

■「TERRA NOVA -テラ ノヴァ-」(2004年 文学座アトリエの会)
 20世紀初頭、地上に残された最後の知られざる地、南極。「人類初」の名誉と栄光と生命を賭けた
 壮絶なレース。探検史に残る熱き人間ドラマが、今、鮮烈に蘇る!神の住む白き大地に足を踏み入れた男達。
 1910年、スコット大佐はテラ・ノヴァ号に乗って南極探検に出発する。5人の英国隊は重い橇を引き、
 1年半後、苦難の末に南極点に到達。しかし、そこにはノルウェー国旗が立つ。失意の5人は帰路につくが・・。
 アムンゼンとの南極点初到達競争に破れ、極寒の大地に倒れたスコット隊の悲劇―
 その「世界最悪の旅」を通して、未踏の極地に挑む人間の誇りと苦悩を描いた問題劇です。

『氷山の南』で興味深いのは、2016年という近未来の設定であること。
連載が終わって単行本化されて文庫化されて新刊書としての賞味期限のサイクルを終えても何とか近未来、
というくらいの加減の時間設定だ。僕が子供の頃には小松左京『復活の日』や昭和基地からの衛星中継などで
南極を割とリアルに感じていたが、近年はかえって「環境問題」というカテゴリーの抽象的な背景としてしか
意識してこなかった。船と冒険という(挿絵のタッチのせいもあってか)昔の少年活劇小説めいた仕立てで
南極を描くことで、小説というジャンルの「おおもと」を再び生き直す試みになればおもしろい。

■高山宏「はじめっから詐欺」より(『かたち三昧』所収)
 『ロビンソン・クルーソー漂流記』(一七一九)を書いたダニエル・デフォーはその時代の典型的な相場師
 だった。この名作はある漂流船員の「冒険(アドベンチャー)」を名乗るが、この語、冒険と「詐欺」の
 両義を分かち持つ。当時大流行の「企画(プロジェクト)」もそうだ。ガリヴァーがしきりと「企画家
(プロジェクター)」と呼ばれたがっているのも同じである。

最初の小説とも言われる『ロビンソン・クルーソー』をはじめ、『ガリヴァー旅行記』や『宝島』『闇の奥』
『八十日間世界一周』など何れをとっても船と航海と未知なる世界の物語だし、『秘密の花園』『若草物語』の
ような物語にも貿易や植民地や戦争といった背景が登場人物の運命を左右している。
少年の日に物語を読み初めた作家にとって、小説という世界認識の道具(その多くは英国製)は船と海と島と
さまざまな国籍の登場人物が綾なすタペストリーなのだろう。
須賀敦子さんの書棚にも少年冒険小説が少なくなかったという。航海することと小説を読むこと、それが隣り
合っているような知の在り方の時代があったのだ。『エンデュアランス号漂流』を愛した星野道夫の気配も在る。
「純白の巨大な氷山を仰ぎ見る体験を共有していただきたい」という抱負からは、『白鯨』も連想される。
ますます『楽しい終末』が再読されるべき時代にあって「その先」を描いてくれる作品になることを期待しつつ
深まり行く札幌の秋、そして冬を思いながら連載を追って行こう。


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