「静かな大地」を遠く離れて
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2006年12月21日(木) 気を確かに持つためのメモ


■佐藤優『国家の自縛』より
 「汝の敵を愛せ」っていう言葉が『聖書』にあるんですが、 汝の敵っていうのは
 みんな憎いんですよ。敵を憎んで憎しみの心があると正確な判断ができますか。
 判断を間違えるんです。判断を間違えるとおかしな行動をとるんです。
 憎しみは人の目を曇らせます。
 だから自分のために汝の敵を愛さないといけないんです。 汝の敵を愛するって
 いうぐらいの気分でいるとちょうどバランスがとれ、物事が見えると。
 そこで判断したほうが得ですよということを『聖書』の中では言っているんですね。

■茂木健一郎 クオリア日記 2006/12/09「白魔術」より
 ボクは白魔術の人間でいたいと思う。モーツァルトのように、あくまでも
 ポジティヴな感情、志向性を発して行きたいと考える。(中略)
 もちろん、誰にでもうらみや、ねたみ、嫉妬といったネガティヴな感情はある。
 ただそれをそのまま出してしまっては、本人にとっても世間にとっても迷惑な
 だけなのであって、それを魂の錬金術によりポジティヴな感情へと転化して、
 初めて表現者としてこの世になにがしかのメリットを与えることができる。
 http://kenmogi.cocolog-nifty.com/qualia/2006/12/post_693c.html

■小熊英二『相関社会科学』第9号より
 私にとって、自分の著作が読者にとって「感動」的であるか、「美しい」もの
 たりえているか否かのほうが、研究者間での差異や斬新さを競うことよりも
 関心がある。だが既存の世界の言説秩序に沿った人情話を書くだけでは、
 読者は「感動」はしても「美しい」とまでは感じないだろう。
 「美しい」と感じてもらうためには、読者に世界の存立構造そのものを疑わせ、
 認識を変容させるだけの衝迫力と分析を伴った研究でなくてはならない。
 http://web.sfc.keio.ac.jp/~oguma/top.html

■栗本慎一郎『立ち腐れる日本』(西部との対談)での発言より
 人は生まれたままでは知識は深まっていきませんから、そういう意識や感覚を深め、
 ピュアにしていく責務があると思うんです。

■日野啓三「新しいヒューマニズム」『ユーラシアの風景』より
 この現実を嫌だと感じ、この現実から逃れたいと切実に思い、苦しみ、その激しい
 痛みに耐えながら状況を少しでも前に進ませようとする意志を人間が持っていること
 が尊いのです。(中略)
 まだまだ色々なことを見て、勉強して、考えなければなりません。私はこのように
 長く生きてきて、今ごろになってわかってきたこともたくさんあるので、そこから
 何かをはじめていけるような気がします。静かに悟ってしまってはだめです。人間
 はまだ人間になりきっていません。私はまだ私になりきっていません。不完全で
 あることは、可能性に満ちていることです。私達には、まだまだ生きる意味や、
 やるべき仕事が残されています。今日の話を終えたところからも、何かが新しく
 なっていきます。きっとそうであると私は思っています。


2006年12月10日(日) 気を確かに持つ

テレビで「オーラの泉」を見ていたら美輪明宏様が世にはびこる“不真面目”を痛罵なさっていた。
今の世で「気を確かに持つ」とは、どういうことだろうか、ということをボンヤリと考えている。
年の瀬を迎えて、ますます行く末に展望が持てない世相のせいもあるだろうか。

■梨木香歩『家守綺譚』「山椒」より
 気を確かに持てと云われて、確かに持てるものだったら、世の中の騒動の種は粗方消失
 するだろう。此方が持とうと思っても、気の方でその気がなかったら詮ないことなのだ、
 無益なことを云う、と思ったが、心のどこか、それで落ち着いた気もした。

『家守綺譚』の主人公、物書きの綿貫征四郎がボヤく通り、気を確かに持つのはなかなか難しい。
作中の時代設定から百年すこし経った現在、その難しさはますます、度を深めているように思える。
「おまえは人の世の行く末を信じられるのか」 と高堂が突きつけた難問に答えるべくもないまま…。
「気を確かに持つ」というと、何だか思い出すエピソードが梨木さんのエッセイの中にある。

■梨木香歩『ぐるりのこと』「群れの境界から」より
 正月の映画館で、何となく『ラスト・サムライ』を観ることになり、暗い観客席の人となった。
 『モヒカン族の最後』、というのもあったなあ、これでもかというように叙情豊かに美しく
 謳い上げる、この持ち上げ方が、あの映画に似てるなあ…それにしても、どうしたことだろう、
 この重厚さを衒った薄っぺらさは、と、あっけにとられているうちに、すすり泣きの声が周囲、
 あちらこちらから聞こえ始め、なんだか昔、油断してカルト集団の集会に紛れ込んだときの
 ような、半信半疑の心持ちになった。泣いている一人一人の肩を両手で掴んで、しっかりしろ、
 と揺さ振りたい。さもなくば逃げ出したい。けれどちょっと待て、何がどうおかしくて、私を
 こんな気持ちにさせるのか。

エッセイはこのあと『葉隠』から「西郷隆盛」的なるもの、そして「群れ」の問題を考察してゆく。
梨木さんは、他の観客の肩を揺さ振りながら「気を確かに持て!」と言いたかったのだろう。
そして矛先は、「気を確かに持つ」ってどういうことだったっけ?…というところに返ってゆく。

そんな中で、これぞ「気を確かに持つ」という言葉の用例だ、と言いたくなるような人物がいる。
『国家の罠』発刊以来、日本の言論を席巻しつつある佐藤優、その人だ。
相次いで出ている新刊の中でも、最も歴史的な息の長い著作のひとつになるであろう『獄中記』は、
実際の獄中ノートと弁護団への手紙から構成されていて、圧倒的な臨場感で読み応えがある。

■佐藤優『獄中記』「【弁護団への手紙】14」より
 私は拘置所での生活がかなり長くなると予測しています。長期戦に備えた心身の準備
 を行う必要があると考えています。
 拘置所の中では、取り調べ以外にも、健康管理、精神的安定の維持等いくつもの
 試練があります。この中で最も重要なのは人間としての尊厳を維持し続けることです。
 いわゆる「プライドを高くもつ」ということではなく、人間的思いやりをもち、
 憎悪や嫉妬に基づいた人間性崩壊を防ぐことです。その意味で、拘置所生活は、
 自分の内面との闘いでもあります。

優秀な外務官僚として辣腕を振るった佐藤氏のバックグラウンドにあるのは、専攻の神学や哲学の
分厚い教養であり、そのことが氏の置かれた特異な状況を、さらに特異な興味深いものにしている。

かつて栗本慎一郎師が『縄文式頭脳革命』で「優秀度テスト」なるものを提起したことがある。
「これはあくまでも現在の社会において、現実のインテリジェンス度であり、現実に役に立つ
優秀度を形成する要素である」と前置きしつつ、木下富雄教授(心理学)が挙げる「かしこさ」の
5つの要素を紹介し、さらに2つの要素をつけ加えた。

1.大局的思考
2.状況適応する能力 
3.相対化の能力 
4.内面的世界の広がり
5.感情の抑制力
6.問題がなんであって、どこにあるかを指摘し、説明する力
7.エネルギッシュであること

それぞれの子細は原著にあたっていただきたいが、これらの要素すべてにおいて佐藤優氏の
「優秀度」がズバ抜けていることは、『国家の罠』を読んだだけでも異論が出ないのではないか。
池澤夏樹氏も注目すべき論客として佐藤氏に言及しているし、故・米原万里さんの追悼の会では
同席してそれぞれ追悼の辞を述べられたらしい。ちなみに米原さんの『魔女の1ダース』には、
若き日の佐藤氏と思しき人物が、仮名ではあるが登場する。

「内在的ロジック」「ゲームのルール」など、著書に頻出する“佐藤用語”は感染力があるし、
「ケインズ型とハイエク型」「排外的ナショナリズム」など“見取り図”を描くのも滅法上手い。
要するに話が面白い。だから説得力がある。気がついたら応援団の気分になっている。
彼が「外務省起訴休職職員」の身分のまま“物書き”になったのは、歴史の悪戯のせいではあるが、
思想的立場以前に彼の知の「方法」にこそ日本人は驚嘆すべきだ、などと松岡正剛氏風の物言いも
してみたくなるのが、『獄中記』の醍醐味かもしれない。所与の条件の中で最大の成果を挙げる、
という精神的姿勢をとことん貫徹する過程が小気味良い。

■佐藤優『国家の自縛』より
 私は、「究極的な価値」は「究極以前の価値」という媒介項を通してのみ実現できると
 確信している。この媒介項はいろいろあるし、また時代と共に変遷する。産業社会が
 成立した後、ネーション(民族/国家)は、もっとも有力な媒介項であり、その状況は
 予見される未来、つまり、今日、この部屋に集っている人々が生きている時代において
 は変化しないだろう。従って、人類、平和、愛といった「究極的な価値」に至るためには、
 民族/国家という「究極以前の価値」に真摯に取り組むことが不可欠なのだと思う。

最近は手嶋龍一氏、魚住昭氏、柄谷行人氏 など対談の企画も消極的ではないようなので
今後、栗本慎一郎氏、中沢新一氏、古井由吉氏などとも対談してもらえると面白いと思う。
栗本氏とは永田町の闇から21世紀ユーラシア見取り図、さらに猫好き談義もできるだろうし、
中沢氏とは19世紀ロシア神秘思想から一神教と世界情勢、そして『太平記』と国体論まで、
古井氏とは中世ドイツやチェコの修道院の神秘体験論から近代の淵源を説き起こしていただく、
…と、まぁ自分で書いていながら、到底ついて行けそうにないのが難点ではありますが、
そこは佐藤氏の過剰なまでの「説明する力」の社会的還元に期待して、精力的に取り組んで
いただければ、現代日本への福音になろうというものだ。いずれにしても、世の需要は大きい。

さらに北方領土と鈴木宗男さんの話を佐々木譲さんに書いてもらう、というのは生々しすぎる
としても、“インテリジェンス・オフィサーとしての明治の榎本武揚”というサブキャラクター
が活躍する大河小説というのはあり得るのではないか、と勝手にリクエストしておきたい。
対露外交、獄中体験、国益に奉仕する官僚の内面といったところをキーワードに、明治中期の
北東アジアを舞台にした小説。2008年は北京オリンピック開催、榎本武揚没後100年。
もはや話題が佐藤氏から脱線しているが、この企画、ほんとに実現しないものだろうか(笑)

今日の“佐藤優特集”の締めくくりに駄目押ししたいのが、彼の上質なユーモアのセンス。
難儀な法廷闘争も遊び感覚、ユーモアをもって遂行しなければ上首尾を収めることはできない、
というのがモットーのようだ。“外務省のラスプーチン”だけに、雑誌などでは強面の写真が
使われがちだが、きっと話術に優れた魅力ある人物であると想像される。
NHK「プロフェッショナル 仕事の流儀」で 脳科学者の茂木健一郎氏がキャスターを務めて
いるが、この際、それにつづいて、“佐藤優キャスター”の「インテリジェンス 報道の罠」
という企画でどうだろうか? 日本が変わりそうな気がする。


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