Memorandum


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2001年10月12日(金) 平和ボケとは言いたくないが…

私は「日本人は平和ボケ」という言い方をするのは嫌いです。
なぜならば、それはほかならぬこっちもそのボケた国の同じ住人なのですから、
まるで天に唾するようなものだからです。
でも最近の当事者意識の全く欠けた、危機感のなさには、
これが同じ市民社会の住人なのかといささか恐怖を覚えます。

アメリカというのは、日本の同盟国である事は別にしても、
少なくも民主主義を原理としている自由な市民国家であるという点では
日本と価値観を共有する国です。
でもその国がその価値観とは全く相容れない、むしろその価値観を破戒する事を目的に
したテロ集団によって攻撃された事に対して、全く他人事のような反応を多々目にします。
言うまでもなくテロリズムというのは、暴力とそれによる恐怖でもって歴史を動かし、
社会を支配しようとする集団です。
従って、例えその背景にいかなる事情があろうとも、
それを斟酌して妥協するいわれは全くないし、
彼らは市民社会の住人にとっては全く容認する事のできない相手です。

また、テロリズムというのは、何もアメリカのような大国にだけ噛みつくわけではありません。
現にビンラディン一味とタリバンが支配しているアフガニスタンでは、
それこそ無辜の市民が恐怖政治の支配の下、殺されたり拷問に合ったりしています。
従ってこういう集団に制裁を加え、彼らの意図するような恐怖支配によっては
何事も達成しなえい事を断固とした決意と行動によって示す事に、何の問題があるんでしょう?
にもかかわらず日本では、テロによって市民社会が破戒される事に危機感も全くなく、
自分達には関係ないかのように思っている人達がいるが不可思議です。
何もテロによって市民社会が脅かされる事は、決して遠い海の向うの他人事ではありません。
例えばオウムのサリン・テロは、あれは日本で起きたんではなかったんでしょうか?

こうした当事者意識の欠如を表しているのは、
感情的な大国嫌い=アメリカ憎悪と、エセヒューマニズムに基いた戦争反対論です。

勿論、アメリカが、彼らの自称するような「正義」なんてものが
ちゃんちゃら可笑しいシロモノである事はわかり切った事です。
覇権国家としてのアメリカが行って来た所業が、到底ご立派なものではあり得ない事は明白でしょう。
しかしそれを、あたかも倫理的な高邁な立場にいるが如くに批判する事に
何の意味があるのでしょうか?
アメリカの世界戦略の庇護下で
、そのおこぼれを頂戴しながらぬくぬくと平和と繁栄のぬるま湯に浸かって来た日本よりは、
アメリカの方がよりシビアな国益追求を行って来たというだけの話です。
別に私は、ぬるま湯に浸かって平和・繁栄を満喫して来た日本を悪いと言っているわけではありません。
ただ、あたかも中立国で世界情勢には全く無関係に今日まで来たかのような
夜郎自大的感覚でもって、倫理的に批判する立場が可能だと思っているのは
偽善だと指摘しているだけです。
現実的な国家戦略に関して、倫理を述べても始まりません。
アメリカはそれ相応のリスクを負いながらもシビアに国益を追求しているが、
でもそのアメリカに護られている日本にはそれがないっていう
情けない事実を単に示すだけです。

また、一見ヒューマニステックな戦争反対論こそ偽善を示す最たるものです。
戦争は誰でも嫌いです。言うまでもありませんが。
しかし市民社会が、その破戒者によって危機にひんしてる時に、
それを護らないで如何するんでしょうか?
人権や人命は、それを護る事を価値にするシステム(社会)があってこそ初めて護られています。
だからその社会がなくなってしまったら、そもそも人命もへちまもあり得ません。
それは狂信的指導者の命令一下、
民衆が殺害されているビンディン一味とタリバンの現状を見れば明白です。
従ってテロリズムの支配に屈服したら人命も人権もあり得ないのに、
ただ戦争によって人が死ぬという事にだけ着目して、全体を見ない事は
それによってより大きなものを失う危険性から目をそらして、
自己満足の正義に酔いしれているだけです。
でも、もし例えば何処かのアジアのテロ国家の指導者が、
「戦前の日帝の支配、及び戦後の米帝に加担しての資本主義的搾取は許せない、
日本人は皆殺しせよ」とでものたまって、新宿の都庁あたりに自爆テロを敢行した場合でも、
甘んじてそれを受けて、皆殺しされるんでしょうか?
多分そうなんでしょうね。
現にそういう事を明言している国会議員すらいるくらいです。
だからこそ恐ろしいのですが。


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