にゃんことごはん
ごはん



 骨がある、とリュウは言うが、わたしには、骨と体は違うと思え

ニャンを見送った翌週、長野からリュウが来ました。
ニャンちゃんの供養と、恐らくは私を心配して、なのだと思います。

ふと私が、先日日記にも書いた「形がなくなると喪失感が増す」という話をしたら、驚くことに、リュウは違うと。「骨があるから」と。
居間で、最近購入したお気に入りの鉄板焼き器で、長野土産のキノコや野菜、安いときに購入して冷凍していた、ちょっと上質な肉などを焼きながら、ニャンの思い出話をしていたときでした。

すごく、びっくりしました。

リュウにとっては、骨も形、だったということが。

その意識の違いがどこからくるのか、私にはわかりません。

形とは何ぞや、ひいては、形と「在る」ということとの関わりとは何ぞや、そしてさらにいえば、「在る」ということとは何ぞや、というのは、学生時代に所属していた学科の命題でした。

猫という、だれもがある程度共通に思い描く形を基本にして造詣こそが、私にとってのニャンでした。たとえ命は宿っていなくとも、生前と同じ感触(もちろん温かみはないですし、柔らかさは失われていますが、毛並みは感じることができます)、同じ見た目(もちろん、生き生きとしていた瞳の光は失われ、かわいい声を聞くことも二度とかないませんが)、それがニャンでした。
でも、リュウは違うと言います。
リュウと私が認識していた「ニャン太郎」という存在は、ことほどさように隔たっていたのだ、と改めて思いました。

そのせいかどうか、リュウが帰った翌週、寝付いてしまいました。体力的にも精神的にも無理をしていたので、仕方がない面もあったと思います。
とはいえ、レンや茶々のお世話もあります。そんなこんなで、今年の10月は、けっこうヨレヨレでした。

今朝方、すぐに食べ過ぎてはゲロッパするレンが、あろうことか寝ている私の
足の上(ちょっと布団からはみ出していた)に吐いてくれたためにびっくりして5時前に起き、寝惚け眼でその始末をして、再度、布団にもぐりこんだ後、夢を見ました。
ショーちゃんによく似た猫を拾って、「え?これはショーちゃんじゃないか」「いやいや、ショーちゃんのお葬式は出したんだから、生きているはずがない」などとドタバタしている夢でした。

目が覚めてから、笑ってしまいました。
きっとショーちゃんが、心配して来てくれたんだ、と。
ニャンちゃんではなく、ショーちゃんが来るというあたりが、なんだからしくて。

ニャンちゃん、きっと自分も猫又になるまで長生きするつもりでいたのではないかしら。
それが適わなくて、悔しかったのかもしれません。
だからショーちゃんをけしかけてくれたのではないかと。

ばかばかしい話です。
そもそも夢の話ですから。

でも目覚めたとき、ちょっと幸せな気分でした。
そして、ちょっと立ち直りました。
ほんと、勝手なものです。
勝手に落ち込んで、勝手に立ち直って。
でも、また勝手に落ち込んで泣くのです。

お互いに仲がいいわけでもないレンと茶々は、それぞれ気分が向いたときに甘えに来ます。
どっかりと膝のそばに丸くなるレンと、私の肩をチョイチョイとひっかくようにしてかまえと催促する茶々。猫嫌い、ママloveなこの子達との生活は、さて、どうなることでしょう。

2017年10月29日(日)



 無題3

今日は、日中、少し汗ばむほどの気温になりました。
用事があったので出かけて、ついでにコンビニで遅い朝兼昼をすませました。
なんか午前中が駄目みたいです。
ずっとニャンを見守っていた時間帯だからかもしれません。
昨日、せっかく朝食用に用意した作り置きを食べる気にならず、といって、当然のことながら、作る気力もなく。
最近のコンビニのいくつかには、食事をするスペースがあります。
購入した小さめのパスタを暖めてもらって、やはりそこで購入したもずく酢とチキンの唐揚げで食事と相成った次第です。
帰宅したのは昼過ぎでした。

形、というのは不思議です。
たとえ死んでいても、そこに体があるときには、喪失感はまだ薄いのです。
ショーが亡くなった時、剥製にしてでも残したいと思いました。
しませんでしたけど。でも切実に思いました。形だけでいい、いてほしい、と。
魂がなければ意味がないとは比ゆ的な意味でよく言われますが、形も大事なのではないかと、思います。
体と言う形がなくなると、とたんにとてつもない喪失感に襲われるという経験を、何度もしていますから。

ニャンはリュウが小学校2年生の年末に我が家にやってきました。
推定、2ヶ月半ぐらい。
猫は生後1年で人間で言うところの成人だそうです。その後は、1年に4歳ずつ年をとると聞きました。
では、その最初の1年は人間で言うと、どれぐらいの年齢になるのでしょうか?
メスは生後半年で発情期が来て妊娠したりもするそうで、そう考えると成人が20歳としてもその半分の10歳では、少し発情妊娠は早いようにも思います。

なんとなくニャンは、リュウと同じぐらいの年頃だったのでは、と思っています。
ところが成長の遅い人間と異なり、ニャンはどんどん成長します。すぐにリュウより大人になります。
そう思うのは、ニャンがリュウのことを、弟分だと思っていた節があるからです。弟だから、リュウに何をされても「仕方ないなぁ」と受け入れている、そんな感じです。
私に甘えるのとは別の情を、リュウに抱いていたニャンは、ある意味、子育てという場面で私の戦友だったのかもしれません。

ニャンのもう一人(一匹?)の弟分がショーでした。
ショーは、学年があがって帰宅が遅くなるリュウの代わりに、ニャンが寂しくないように、と探し、私と運命の出会い(笑、でも本気)をして迎えた仔でした。

ショーが来た日、とりあえず、奥の和室をショーの部屋にして、少しずつ慣らしていこうとリュウと話しました。
が、帰宅後、10数分でその目論見は瓦解したのです。
ご機嫌で廊下を歩いていたニャンが、突然和室に突進し(出入り口の襖は閉めていました)、そこでにゃーにゃー鳴きだし、ふすまを引っかき、とうとう開けてしまい、ショーちゃんが飛び出し、ニャンちゃんがおっかけ。
阿鼻叫喚にはなりませんでした。
しばらくじゃれているんだか、もみあっているんだかの2匹でしたが、なぜか、寄り添って落ち着いてしまったのです。
当時、我が家にケージがなく、ケージもないのに新入り猫を迎えた私も猫飼い初心者でした。

ニャンはいつもショーに寄り添うようになりました。
「おいらの立場、なくなった?」とリュウがぼやいたものですが、リュウが玩具を振って、ニャンとショーが競って狩をするという光景が、我が家の日々の行事となりました。
ショーは、ニャンよりもずっとマイペースで、わが道を行く、というタイプの仔でした。ときどきニャンの寵愛がうっとおしくなると、私の仕事部屋に逃げてきました。私のトレーナーの裾に包まったりして。
不思議なものでニャンは、私のことを疑いはせず「おかしいなぁ、この部屋に逃げたはずなのに」という雰囲気でうろうろして、部屋を出て行くのでした。

私も当たり前ですが今より若く、リュウも子どもで、ニャンもショーも元気だったあの時代、とても幸福できらきら輝いていた日々だったと思います。
そのときも大変なことや悩みはありましたが、でも振り返ると眩しい、そんな感じ。

そんな時代をニャンと共有していたんだなぁ、と思います。

そういえば火葬のあと、「ニャン太郎くんというのは、ありそうでなかなかない名前ですね」と言われました。
猫がくる、と大喜びしたリュウが「絶対、名前は僕がつける」と言い張って、母なる私はどんな素敵な名前を考えてくれるのだろうとわくわくしていたら、「命名・ニャン太郎」
え、と思いました。ええ? ニャン太郎?
でも息子は胸を張って宣言してますし、私も「いいよ」と言った手前、それを取り消すことはできません。

かくして、ニャン太郎として我が家の一員となったニャン。
18年を生きて、死んでいったニャン。
ありがとう、我が家に来てくれて。
君のおかげで、この18年、とてもとても楽しかったし、嬉しかったし、幸せだったよ。
20年でも25年でも生きてくれて、尻尾が二つに分かれても、全然、問題なかったんだけどなぁ。それだけが、ちょっと残念。
でも、ありがとう。

2017年10月09日(月)



 無題2

今日は、秋晴れでした。

捨てられ猫だったために正確な生まれ日はわからないのですが、拾った方が獣医さんに連れて行ったときに、今ぐらいの季節に生まれたらしい、といわれたニャン。
同じ季節に見送ることになりました。

帰宅して、陽のさす居間にニャンがいないことがたまらなくつらくて、また外に出て、近所のカフェでご飯を食べました。サンドイッチが半分しか食べられなくて、こっそりハンカチに包んで持ち帰りました。

我が家にとって、初めての猫でした。
うにゃうにゃと、おしゃべりしてはご機嫌で、居間を闊歩し、ダイニングチェアに潜んでは狩の真似事をして遊んでいました。
前にも日記にに書いたことがあると思うのですが、忘れられないのは、我が家に来た初日、居間のソファでリュウと私の間に座っていたニャンが眠ってしまい、そのままリュウも私も寝室に引っ込んでしまったら、目覚めたニャンが文句をいうように、うにゃーうにゃにゃと言いながら寝室のほうにやってきたこと。
まるで「僕に黙って、なんでこっちにいるんだよぉ」とでも言っているみたいで、それ以来、ニャンが寝ていても私たちが居間から寝室に移動するときには、ニャンに声をかけるようになったのです。

そんなニャンでしたが、我が家に次々やってくる新顔の面倒を見ていました。
ショーちゃんだけは、子猫のころに出会ったから、ニャンから近寄っていきましたが、ほかの猫に対しては「来る物拒まず」で、でも、面倒を見ていました。

ここ最近は体がしんどいのか、あまりほかの仔とも接触をもたず、と言って、敵対するわけでもなく、マイペースでのんびりとしていました。
というか、そう見えました。
でもニャンちゃんの肝臓は癌に冒されていました。
痛みはない、と言われました。そして、もう長くもない、と。

「ニャンちゃんはさぁ、猫又になってずっと生き続けると思っていたんだよね。でも、やっぱり猫だったんだ」とはリュウの言です。
そうです。ずっと居てくれると、どこかで私も思っていました。

火葬したあとのニャンの骨は、それは立派で綺麗でした。
「大事に育てたからこそですよ」と言われましたが、とんでもない、それは、ニャンのもって生まれた資質です。私はただ、その資質に助けられ、その資質を愛しただけ。

もうニャンちゃんはここにはいない、というだけで、明るい秋晴れの日、家にいたくないヘタレの私には、土下座して平伏す以外ないのかも。
でもそれでは、ニャンちゃんも成仏しきれないでしょうから、頑張ります。
とりあえず、ハンカチに包んで持ち帰ったサンドイッチを食べ、それから猛然と、料理しました。

餓死しないですみそうです。
食は大事。

2017年10月08日(日)



 無題

ニャン太郎、永眠。

本日正午。

たぶん18歳前後。

夜間救急に駆け込んだ9月21日から2週間ちょっと、頑張ってくれていたニャンが力尽きました。

ニャンがいなければ、その後の猫たちがうちに来ることはありませんでした。

頭がよく、面倒見がよく、甘ったれで、お客様にも愛想よくて、犬っぽいのに、でも、とてつもなく猫らしい猫でした。

先日も、食欲がないのは、もしかして腹水がたまっているか、肝臓の腫瘍から出血しているか、で、予定外の超音波検査となり、その機材がおいてある部屋が開くまで、しばらく待ってから、部屋に入ったときの「散々待たされた挙句、なんだここは?」的な顔が、先生と私のツボにはまって、思わず顔を見合わせたものでした。
検査の結果は、特に問題なく、少しだけ腹水がたまってはいるものの、早急に対処する必要のあるものではない、ということで、一日おきの点滴と次の木曜日に検査、その結果のよって通院の感覚を決めましょうと言う話をしたタイミングで、ニャンが「ふぅ」とため息をついたのです。先生も私も笑いを堪えながら、また顔を見合わせたものでした。

今日の明け方から、ぼうっと寝ているばかりになり、もしかして病院にいけば、多少は永らえるかもしれない、いや、この状態のニャンをキャリーに寝かせ移動することのほうが、酷なのではないか、と葛藤しつつ、ずっと寄り添っていました。
時々、苦しそうにするときは体をさすって、そうでないときは子どもをあやすようにポンポンと。ずっとそうしていました。

最後、苦しそうにカハッと息を吐き、体をそらせたとき、思わず抱き上げていました。ニャンはもう一度、カハッと息を吐き、足を伸ばしました。2度ほど、それを繰り返した後、軽くなっても芯のあった体から、ぐんにゃりと力が抜けていきました。

逝ってしまった、と思いました。

頑張って頑張って、生きてくれたことが、ほんとうに嬉しい。
ありがとう。

でも、さびしい。
18年ともに生きてきただけに。
最初の猫だっただけに。

でもやっぱり、ありがとう。
ニャンちゃん。

2017年10月07日(土)
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