Espressoを飲みながら

2004年07月28日(水) 思い出・・・

 過去は、思い出は、巨大な山のようにも、捉えどころのない雲のようであるかもしれない。もしぼおっと夢を見続けていたら。目を覚ましていれば、思い出には何の拘束力もない。意図的に選ぶもの以外には。

 時として、昔のほうが今よりも生き生きとして、現実的にすら見えることがあるかもしれないけど・・・。それでも今、息をして、今、生きている。この地点から、なにかが動き出す。ここ以外に、スタート地点なんかないんだ。

 



2004年07月21日(水) Communication

 時に、人と人との間のコミュニケーションは難しい。伝えたいことがあって、言葉を選んで、でも言葉を選ぶともう最初に思っていたようなコミュニケーションからは遠ざかってしまっていたりして。私達が翻訳したり通訳したりするのは、英語を日本語にしたり日本語を英語にしたりする時だけではないのだ。自分の内面では言語の一種として機能しているフィーリングを、フィーリングそれ自体として直接的に他者に伝えることはできないために日本語なり英語なり何かの言語、あるいは身振り、手振りなどに変換して伝えようとすること自体がすでに翻訳であったり通訳であったりする。

 そして、その翻訳作業はしばしば難航し、稀に上手く行く。本当に、稀に。

 何かが伝わるまで、しゃべり続けなければならない。何かが伝わるまで、歩き続けなければならない。全てを投げ出すのもいいが、投げ出した後には、なおもそこに何かが為されうる可能性のある”場”が残るであろう。そしてあなたはそこで再びなにかを感じ、見いだし、そこにいる誰かになんとかしてそれを伝えようとして・・・

 終わりのない翻訳作業、終わりのない通訳があなたの人生の中で続くのである。



2004年07月13日(火) カフェ・コレット

 すっかり行き着けのカフェの一つとなってしまった、なんばパークスのAl Avisで、すっかりお気に入りになってしまった、カフェ・コレットを飲んでいた。

カフェ・コレットとはエスプレッソに少量の蒸留酒を加えたもの。ここのカフェでは、エスプレッソの入ったカップと、蒸留酒の入った小さなグラスが銀色のプレートの上に置かれた状態ででてくる。蒸留酒だから、言うまでもなくアルコール度数は高い。エスプレッソもやはり苦味の強い珈琲である。ただし、カフェインの含有量はドリップでいれた珈琲よりも少ないのだが。とにかく、刺激の強いもの同士の掛け合わせがカフェ・コレットなのだ。

 冬のイタリアをバイクでツーリングされていた方の話によると、寒い夜にバルに入り、このカフェ・コレットをくいっと飲んで冷えた体を温め、飲み終わったらすぐに店を出て、再びバイクにまたがり走り去るのが格別なんだそうだ。「それって飲酒運転では?」とも思ったが、たかがカフェ・コレット一杯分のアルコールだなんて、そんな細かいことを気にしながら生きるのは法律に適ってはいてもイタリア的では有り得ないのかもしれない。本当のところは知らないけれども。

 そんな話を思い出しながらも、今日私がカフェ・コレットを飲んだのは単にその味が好きだからである。極端な苦味、極端なアルコール度数、私は極端なものが好きなのかもしれない。あるいは、酔わせながら覚醒させるような相反する二面性を備えたところが。


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空遊 [MAIL]

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