気が向けば・・・。


この今の瞬間に過去も未来も入ってるらしいし(何時でも)この小っさな頭蓋の内に宇宙も入ってるらしいし(誰でも)
だから、ひょっとしてこの矛盾に溢れた日記も、何時かの誰かに繋がったりするかも、って思ったから
少しだけ秘密度を緩めました。



子ども虐待防止「オレンジリボン運動」

2005年10月30日(日) 七五三の季節

今年は娘の七五三。(満年齢の七歳で祝うことにした。数えだと去年だけど、背がちっちゃいし髪も少ないから、ちょっとでも成長してからやろうということで。同級生はたいてい去年までに済ませているので、うちは今年だと言うと「そうなんだー」とちょっと意外な顔をされる)
まずこの日曜日は、母方実家関係での、写真やさんでの撮影イベント。
着物は私の祖母が昔買ってくれたもので、私も七歳のときに着たもの。結構、綺麗。
足袋などは母が揃えてくれていた。
写真屋さんは私の実家の近くのお店。
その予約から何から全て母がやってくれ、そのあとのお昼の親戚一同ランチも母がごちそうしてくれるという、
なんともありがたいことになった。
申し訳ないよって言ったら「いいの、着物を買ってあげるかわりに、せめてと思って。」って・・・。
ものすごく助かる。けど、ずいぶんお金を使わせてしまった。いいのかなあ。
でも、ここは甘えさせてもらうことにしよう。

朝10時に入り、メイク・髪結い。娘は天然パーマだからアップに手間がかからない。
仕度してもらっている間が、これがなかなか可愛いんだ。
頭が終われば着付け。
腰上げなど、スタッフの人の手順を、しっかり見ている娘。
なかなか立派に仕上がっていく。
帯の飾り結びがランドセル並に大きく見える。
着物を着る、ということが、こんなに大仕事だとは。
でもその儀式によって「何か、特別なんだな」ということが、充分彼女の胸に焼きついたんじゃないかな。

いよいよ撮影にあたり、事前に娘に言っておいた。「頭の中で、ものすごく可笑しいことを思い出しておいて、でもその笑いをこらえて普通にしていれば、ちょうどいいからね」
最初のうちはそれを忘れていなかったようだけれど、何枚もシャッターを切られるたびに疲れが出てきたようだ。
参観している伯母さんたちが声援を送りすぎてカメラの人に「シーッ」と言われちゃうほどだったのが笑えた。

やっと一役済んで、お昼ごはんには息子と夫も合流して、みんなで「イタリアン懐石」なるコース料理を頂いた。
みんながご機嫌でほんとうに良かった。
とにかく今日はうちの子はアイドルなので、締めにお礼を言う段になって、どうしても恥ずかしいのか小さい声になってしまう。
親としては、もっと歯切れよく元気よく「今日はありがとうございました!」って発声してほしいのだけれど、
そういえば昔私も小さい声でしか言えてなかったような気がする。
成長に従って、気後れがなくなってだんだんに大きな声で言えるようになってくれればいいのだけれど。
いや、きっと言えるようになると思う。うちの子に関しては、場慣れするにしたがって、きっとそういう成長をしてくれるだろうと信じられる。
何を根拠に、と言われると、うまく説明はできないけれど、なんだか、大丈夫なように思える。

で、来週は、今度は家の近くの美容院でメイク・着付けをして、神社にお参りし、夫の両親に着物姿を披露して、お昼を一緒に食べる予定。
なんとか風邪もひかないで頑張ってもらいたい。



2005年10月23日(日) 久しぶり

土曜日に娘の幼稚園時代の同窓会で、久しぶりに懐かしい子達&人々に逢った。
2年たっても、変わらないような、変わったような、でも変わらないような。
その場に一旦入ってしまえば娘もすっかり昔に戻ってしまうし、
私もふるさとに帰省したかのような気分だ。

かつての担任の先生で退職された方は、今はそれぞれに家庭を持って、
大家族のお嫁さんだったり、、老人介護で頑張ってたり、でも園に戻れば、先生だ。
先生と保護者がここまでしゃべりやすい環境って、今思えばそこが最後だったのかもしれない。貴重な環境だった。

親同志も小学校ではここまで親しくはなりにくい。
懐かしく、もう届かない日々のことをつらつらと思い返すと、一見ムダに思える必要以上なエネルギーを毎日使って過ごしていたなあと感じる。
2年前のことだけれど、若かったんだなー。
自転車も磨り減るほど乗って子供と荷物を運んで園と自宅とおともだちのうちの間を走り回り、いつもうっすら日焼けしていて、
卒園のころなんて、謝恩会の出し物の準備にあれほど熱中して、いったい何だったのだろう。
しかもそんなときに上の子の学校の委員だとか役員だとか立て続けに夫に内緒にしてまでやってさ・・・・・。
確かに充実していた。いろんな人と関わって、必然的に子供もいろんな場所に連れ出され、いろんな子と遊べて、
二人きりで煮詰まることはなかった。けど、子供と私は、ゆっくり話ができたのかな?
ちょっと家にひきこもってみると、案外それも良いことがわかる。バランスが大事だと思う。
もうこの先は静かに縁側(無いけど)で将棋(できないけど)でもさしながらお茶でも飲んで、
少しちゃんと家にいて、気持ちに余裕作ってゆっくりママをやって、ゆっくりに飽きたころ、
またぞろ○○委員(ただし委員長にはならない)か○○係を来年あたり引き受けておいて、
校外委員の順番がいつ回ってくるのか見極めつつ、6年生ではできるだけ暇な身分にならなきゃと計画中。



2005年10月08日(土) もっとブドウ糖をとればいいのかな。

目下の「趣味」(などというのも気が引けるほどのレベルだけれど)は。ここ十数年ほどは、テレビドラマ鑑賞ぐらいだ。
どうして、ドラマ鑑賞というととたんに後ろめたい気分になるのだろう。これがビーズアクセサリー作りだとかパンを焼くことだとかだと、なんだか夫子供の前で堂々としていられるように思う。隠れキリシタン状態だ。だいたいユースケさんのファンだというだけでも隠れキリシタンものなのに。

その鑑賞感想を、最近はPCに向かってテキストに書き溜める作業を、夜中とか、明け方独りで起きてやっていたりする。
日中は子供中心家族中心で過ぎてしまうから、どうしてもこの、お肌にとってもっとも重要な時間帯などに、この個人的な作業をすることになる。

するととたんに体に異変が起きる。まずおでこに細かい吹き出物が表れる。それから妙にお腹が空く。
そして、昼間は頭がぼーっとする。これを解消するには、子供が学校に行っている間に、軽く寝てみることだと思うけれど、それが勿体無くてできない。

頭の中に、ドラマの主人公たちは、あたかも実在する人間のように(それ以上に)それぞれ人生を伴って生き生きと住んでしまっていて、私に影響を与えている。
子供のころは、漫画のキャラクターが、その役割だった。私は、狭く深くのめりこんでは、彼らの人生を味わいつくしてしまう。

息子や娘と話をしていると、どうやらこの子らにも、頭の中にそんな存在がいるみたいだ。歴史の人物だったり、少女マンガ雑誌「ちゃお」に出てくるキャラだったり。
どうか、リアルでもヴァーチャルでも、たくさん素敵な人物に出会って欲しいと思いつつ、ところで私という親は、この子たちの脳の中にそんなふうにしっかりした存在感を伴っているだろうかと思うと、ちょっと心もとない気がする。子供に教わってばかりの自分だ。

息子の中学の中間テストが近い。時事問題や歴史なんかの社会科の知識は既に私を超えている。わからないところを訊かれたら私も教えたりしてはいるけれど、もっぱら口頭問題を出して手伝ってやるくらいだ。理数系はお手上げだ。土日の間にパパがしっかり教えてくれているから任せてしまう。その間、娘にチャレンジの「はってんワーク」を教えていたら、この日はたまたま算数が難しくて、一度では解けなかった。別に厳しく教えたわけではないのに、娘が悔しがって涙を流し、私は慌ててなだめたんだけど、
私って、こんなふうに、わからない問題があったら悔しくて泣いたりなんて、しなかったな。
わからないときは「わからないけど、いいや」って、開き直ってそのまま停止してたんじゃなかったかな。
子供のほうがよほど努力してるよ。

せめて家事をまともにやろうかと思うと、「趣味」は夜中になっちゃうし、そうするとまたお肌にコラーゲンが足りなくなるし、脳が限界まで回るとお腹空くし。
みんなどうやっていろいろ両立してるんだろうな。



2005年10月05日(水) 立読書感想文(同窓会の気恥ずかしさを説くみうらじゅん)

うっかり長々と立ち読みしてしまって、買おうか迷った末に買えなかった本がある。

「正しい保健体育」 みうらじゅん・著 理論社
http://books.yahoo.co.jp/book_detail/31477617

思春期からずっと続く男子の「本業」を、いかにまっとうするか、
「恥ずかしさ」のセンスこそ大事なことである、
義務教育にないことは一人で「自分塾」の活動(親が家に不在の間のちょっとした時間など)で補うべし、
二十歳までは童貞でいるのがいい、妄想をたくさんすることが大切、
女性はすごい存在なのでどうしても男性にはかなわない、そんな女性を大切にしよう、
愛とはシモの世話ができること・家族のウンコがつかめること、台所の三角コーナーをさわれるようになることが子育ての条件、
・・・等、意外と好感の持てる言葉もあって、一見教科書のような、でもこんなことよくぞ書いたよというものだった。
本屋さんで私は笑いをこらえたり、隣の人の視線を気にしたり、
これを我が子にも読ませたいなと思ったり、いやそれはやっぱりちょっとな、と思ったり、
とにかく時間の許す限り立ち読みしてしまった。

以上、前置き。で、そこに書いてあるんだけど、
「同窓会」に出ることは、ヒトとして、「恥ずかしさ」を伴うものだ。
恥ずかしいと思わずに堂々と出られるのなら、それは「獣」だそうだ。

そうかーそうだったんだ・・・。
だから、こないだ、息子は、卒業したばかりの小学校クラス会に、気乗りしてなかったんだね。
「行けばいいじゃん。楽しんでくればいいのに」としか言えない私はデリカシーのない母親だったんだ。
その点、私は半獣かもしれない。
恥ずかしいのもよくわかる。居心地の悪さ。過去の自分を切って捨てたい感じ。
とても親しかった人も疎遠になった人も一堂に会して、名前も忘れかけてるのに思い出したような振りしたり。
けど、一方では歳のせいか、ずうずうしくなっていて、都合の悪いことはなかったことにしてしまえるし。

さて今月は娘の幼稚園の親子同窓会があるし、来月は私の学生時代のサークルの同窓会がある。
この特にサークルのほうは、出席に一大決心がものすごく要る。懐かしいは懐かしいんだけれど、
あんなにどっぷり漬かっていたサークルの日々も忘れて、先輩後輩の名前もかなり忘れている不義理。
若気の至りで、きっといやな思いをさせていたに違いない人にも、会ってしまうだろう気まずさ。
それでも、もし案内状送付リストに当時憧れの人とかの名前があって、その人が絶対に来るという保証があれば、まだしも・・・・。

まあ、この本を二時間も立ち読みしていられる時点で充分私は恥知らずだからいいんだけど。


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