(仮)耽奇館主人の日記
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2005年12月31日(土) 今年最後の挨拶。

今年も色々ありました。
これから鐘つきの準備です。
百八。
去年は一回間違って多くついちまったなー。
リゲイン飲んで気合い入れないと。
それでは皆様、ごきげんよう、よいお年を!
今日はここまで。


2005年12月30日(金) ドグラ・マグラを思い出しながら。

剛さんの依頼で、柴田秀司さんとお会いした。
彼の血縁者で、映画「ドグラ・マグラ」の制作をしていた人である。
私にとって、映画「ドグラ・マグラ」と言えば。
真剣に映画への道を志したきっかけとなった、人生のターニングポイントとなった作品である。
はっきり言って、原作の崇拝者としては、松本俊夫監督の映画が悔しかったからだ。
オレならこう撮る!
しかし、今のオレではまだまだだ、しっかり勉強して力を蓄えねば!
そう思って、早や幾年。
それが今日、よもや、映画「ドグラ・マグラ」そのものの生き証人たる柴田秀司さんと出会うとは。
映画の話ではなく、ちょっとしたきっかけでお会いしたのだが、この縁の奇怪ぶりは、私の守護霊でも予想はつかなかったであろう。
思い出す・・・
今は亡きミステリの評論家の中島河太郎先生に映画版の感想を手紙に書いて送ったこと。
桂枝雀師匠の笑い方が好きになって、枝雀落語の愛好家になったこと。
人形作家のホリ・ヒロシを初めて知ったこと。
その他もろもろ。
この映画作品を観て、私が一番最初に行ったことは、「足りないシーン」を頭の中で補って、付け足したことだ。
松本俊夫監督のそれは、あまりにもお坊ちゃま的で、夢野久作特有の泥臭さが足りなかったので、匂い立つような泥臭さをまんべんなくそこら中に塗りたくったのだ。
お話を伺って、一番ショックだったのは、最初はあのアホダラ経のシーンが予定されていなかったことである。
アホダラ経なくして、何のドグラ・マグラなのか。
それで松本俊夫監督のねらいがだんだん分かったような気がした。
恐らく、彼はあくまでもビジュアル的に、ドグラ・マグラを料理したかったのではないだろうか。
最後の、松田洋治演じる一郎が、迷宮のような廃墟を駆けるシーンなんかは、いかにも松本俊夫的だ。
しかし、ドグラ・マグラの真髄とは、泥臭さの中から沸き起こるような、猥雑なまでの言葉の「祭り」である。
ビジュアルよりも、言葉の紡ぎ出す、過剰なまでのパワフルさ。
あの横溝正史も、晩年、ドグラ・マグラを読み返して、危うく首をくくりかけたと告白しているくらいなのだ。
私も実は、中学一年の時に初めて読破した際、本当に狂ったかと思ったくらい、「あてられてしまった」。
夏の時の感覚を思い出すがいい。
真っ白に輝く陽光に照らされて、地べたから土の濃い匂いとともに、地霊のような熱気が陽炎となってゆらめき、たちのぼる。
私にとって、ドグラ・マグラはまさしくそんな感じであった。
ああいう世界を映画化するということ自体、無謀な冒険で、観る前は非常に不安だったわけだが、松本俊夫監督が「捨石」となってくれたおかげで、私は色々なものを学べた。
柴田秀司さんも、やりたかったことは色々あったという。
でも当時は実現出来なかった。
ならば、これから「完全版」を作ればいいのだ。
私は、ドグラ・マグラと並ぶ奇書とうたわれる小栗虫太郎の「黒死館殺人事件」をシナリオにおこした自信があるし、映画の骨格となる、脚本づくりにおいては誰にも負けない、狂気じみた「宝物」を頭に抱え持っている。
撮るならば、徹底的にやる。
それは今、私がかかわっている映画作品や他の企画の段階においても貫いている、狂気じみた「宝物」への忠誠心なのだ。
即ち、私自身のプライドである。
映画に対する愛情ゆえのプライド。
このように、あらためて、「映画愛」を柴田秀司さんとお互い確かめ合った、実に熱い夜だった。
今日はここまで。







2005年12月29日(木) 花咲くマンドラゴラのこと。

十六歳の誕生日おめでとう、紅蜘蛛お嬢様。




今日はこの日を記念して、君がなにゆえにギロチンを偏愛するのかを考えてみたよ。

答えは簡単、

君がマンドラゴラだからさ。

あるいはアルラウネ。

ギロチンの血だまり、または罪人の精液などの体液が染み込んだ土中から、花を咲かせるもの。




実際、君は十六歳になった今、その叫び声を聞く者を殺すに値する魔力を秘めるようになった。

だから、扱い方はより慎重にしないとな。

でも、私は幸い、耳が悪い。

遠慮なく引っこ抜いてやるぜ。

優しく、かつ、残酷に。

ニヤッ。

今日はここまで。


2005年12月25日(日) クリスマスにデ・ラ・メアを。

イギリスにおけるクリスマスの伝統といえば、当日記では度々紹介しているように、怪談を話し合って聖夜を過ごすという習わしがある。
昔、文通をしていたロンドンの日本人の女の子によると、ミスティーナイトといって、彼女は日本代表として「雪女」の話を語ったそうである。怖いというより、ファンタスティックな話として好評を得たそうだが。
で、私も、子供たちにプレゼントを配り終えた後、ささやかな自由時間の間、屋根裏の書斎から怪談の本を下ろして読みふけることにした。
もう、目新しい怪談は、私の前にはないのだが、いつまでも新鮮さを失わない極上の怪談は存在する。それを気分次第で何回も読み返しては、悦に入るわけだ。
今回は、ウォルター・デ・ラ・メア。英国の幻想小説に詳しい人なら、その名は当然耳にしているだろう。
デ・ラ・メアの語り口の特色は何といっても、「朦朧法」にある。即ち、はっきりとは言わずに、わざとぼかして、読者の想像力を膨らまして恐怖をあおるというやつだ。
「失踪」という短編があるが、これは殺人という言葉が一度も出てこない犯罪小説で、なかなか薄気味悪い読後感を与えてくれた。
「謎」も、子供たちが次々と消えていくのを淡々と語る内容で、そのメルヘン的な空気とは裏腹に、痙攣的な寒気を感じる恐るべき名編である。
そして、長編「リターン(我が国では邦題だが、あえて原題)」。
これは墓の上で居眠りをした主人公が、帰宅すると、自分の顔が見たこともない男の顔になっているという出だしで、私が知る限り、最高の幽霊物語である。
覚えている限りで申し訳ないが、「幽霊は人の心の中に素早く入り込んで、鉛のように沈み込んでしまう」というくだりが、妖しく、美しい表現だったので、私はデ・ラ・メアを深く敬愛している次第である。
今回、読み返したのは、「シートンのおばさん」。
これは初めて読んだのが小学三年生だから、一体どれくらい読み返したことだろう。
しかも、歳を重ねるごとに、読後感がそれぞれ違ってくる。
どんな内容かというと、それほど親しくもない学友に誘われて、彼のおばさんと二人暮しの家で過ごすことになった主人公が、悪魔と同盟を組んでると称されるおばさんの影に怯えるという話だ。
しかし。
話はそれほど単純ではない。おばさんがほんとうに、悪魔と組んでいたのかははっきりとしていないし、学友の淋しさからくる作り話かもしれない書き方なので、私には怪談の範疇を超えた、純文学として読めた。
「シートンのおばさん」は、淋しさからくる自分自身の影に怯える物語なのだ。
あらゆる小説の中で、それぞれ月の光の美しさを表現している名作は数え切れないが、私にとっては、「シートンのおばさん」ほど月が美しく読めた作品はない。
私なりに・・・少年時代からの愉しみを反芻出来て、それなりにいいクリスマスであった。
今日はここまで。


「アーサーがいないとすると、さぞお寂しいことでしょうね、ミス・シートン?」
「わたしは今までに一度も寂しかったことはありません」とおばさんはにがにがしげにいった。
「生身のものを友達だとは思っておりませんよ。ねえ、スミザーズさん、あなたもわたしぐらいの歳になったら(いや、とんでもない)、人生も、今お考えになっているらしいものとはひどくちがったものだということがおわかりになるでしょうよ。そうなったら、もう友達などお求めになりませんよ、きっとです。そういう生活をあなたは押しつけられますのよ」


2005年12月24日(土) イスールのこと。

クリスマスイブの予定が流れたので、いつものように、お寺に寄って、火鉢を囲いながらみかんを食べつつ、本を読んだ。
ちょっと泣きたい気分というか、それを超越した、刺激を味わいたかったので、レオポルド・ルゴーネスの「塩の像」(国書刊行会・バベルの図書館)に収録されている、「イスール」を丁寧に読み返した。
イスールについて語る前に、ルゴーネスについて簡単に説明しよう。
一言、ボルヘスが師と仰ぐ知られざる才能豊かな文人で、ボルヘスが世に紹介するまでは文字通り、南米の僻地に封印されていた存在だった。
私が初めてルゴーネスと出会ったのは、中学の時に読んだ、「南米怪談集」というオムニバスで、「火の雨」という短編だった。
世界の終末を描いていながら、キリコの絵画のような静けさと寂しさをかもし出していた興味深い内容だったので、それ以来ずっとコレクションの対象にしていた。
南米には、「火山を運ぶ男」(月刊ペン社)のジュール・シュペルヴィエルをはじめ、まだまだ、想像力豊かな作家たちがひしめいているのである。
で、私が特に偏愛している、ルゴーネスの「イスール」。
これは、猿が喋らないのは、かつて喋れたはずの猿がなんらかの理由で喋れなくなったという仮説に基づいて、サーカスから買い取った、イスールという猿に喋り方を根気よく教えるという物語である。
まるで、スウィフトの「ガリバー旅行記」のラピュタに常駐しているマッドサイエンティストの一人のような振る舞いなのだが、何か凄まじい、狂気じみた人間性を感じさせてくれて、物語のクライマックスに訪れる、衝撃的な結末に私はいつも魂を射抜かれて、涙を流してしまう。
ルゴーネスはもちろん、猿が本当に喋れるようになると思ってあの物語を書いたわけではない。
主人公を通して、人間自体の熱意、根気、愛情のファナティシズムを描くことで、「報われた」と思える瞬間を実際に「思い浮かべられる」人間の悲しさ、おかしさ、空しさを描いたのだと、私は思っている。
ラストで、本当に、猿が喋るのだが、私が思わず涙したのは、その喋った内容であった。
どんな内容であったかは、これから興味を持って読む読者のために、明らかにはしない。
現在のチンパンジーは、志村けんのテレビを見ても分かるように、訓練次第では色々な芸を教え込むことが出来るようだが、イスールのように「自我」を高める個体は果たして登場しうるだろうか?
手話で意思を伝えるゴリラ、チンパンジーの話は耳にするが、実際に思考を伝えることの出来るものは?
そうやって、熱っぽく猿と向かい合ってみて、我々はいつ悟るのだろう、我々人間は、猿にまで自己を投影しないと、淋しくて仕方のない生き物なのだと。
そして、猿は実際には、所詮、鏡を見るように猿真似しているだけなのだと。
今日はここまで。




2005年12月16日(金) ナジャの思い出のこと。

私が可愛がってる少年少女たちの中の、魔女ヴィイという一番(色々な意味で)特殊な女の子が、アンドレ・ブルトンの「ナジャ」を読み始めたと報告してきた。
その前は、エミリー・ブロンテの「嵐が丘」を読了しているそうなのだが、あの熱っぽい恋愛ものの次に、「ナジャ」というのには、正直、ミスマッチというか、それ以上のシュールさを感じてしまった。
だが、オスカー・ワイルドが言うように、本とは運命的な出会いで読み進めるものだから、彼女にとって、キャシーの次にナジャが現れるのも、運命的なのだろう。
私が「ナジャ」を読んだのは、中学二年の冬だったと記憶している。
確か、ほとんど一人でやっていた、美術部の中で、ダリから興味を持ったシュルレアリスムを独学で勉強していた一環で、ブルトンの「シュルレアリスム宣言」を読んだ次だった。
当時の私のブルトンに対する印象は、はっきり言って、過激な、暴力沙汰も辞さない政治家かぶれという感じで、それは今もあまり変わらないが、小説だけはほんとうに「詩的な美しさ」に満ちていたので、彼の二面性、多面性にひどく混乱させられたものだ。
何しろ、「シュルレアリスム宣言」に引用されたエピソードによると、批判的な出版社か何かを仲間とともに襲い、殴り合いを展開したとあるし、そもそもブルトンが、ダリやアルトーとうまくいかなかったのは、政治的にも力をつけようとした「親分肌」なところがあったからだと想像に難くない逸話でてんこ盛りである。
そんなブルトンが唯一の純粋な魂で書き上げたと思しき「ナジャ」。
当時の家庭教師は、哲学に詳しい人で、ニーチェとか難しいぞーと連呼していたのだが、「ナジャ」に触れると、難しいなんてもんじゃない、オレにはさっぱりわけがわからんと言って口をつぐんでいた。
このように、何でもかんでも、難しい、わけがわからんと言うような人は、所詮、ほんとうに読んだとはいえないと私は思っている。
先入観念を抱いたままでは、著者その人個人の内部風景を追体験出来るわけがないからだ。
「ナジャ」は、まさしく、追体験する小説である。
連続するイメージ、エピソード、ランドスケープ、自己幻像などなどを、自分自身も「体験」する。
そのためには、先入観念も含めた自己というものを、きれいさっぱり忘れてしまう必要がある。
私は幸い、お寺で座禅をやっていたので、無我の境地で読むと著者の霊魂が体内に宿って、様々な事柄を教えてくれるという風に「分かっていた」。

・・・・・・

今。
私自身の人生で「追体験」されたナジャを思い出す度に、私はブルトンが目の当たりにしたであろう、パリの街を思い浮かべる。
残っている当時のパリの写真はどれも色あせているが、ブルトンの頭の中では、すでに当時のパリは色あせていたのだ。
輝くほどに美しい色を放っているもの、それがブルトンの中のナジャだった。
そういう意味で、小説としての「ナジャ」は、自己確立に未熟な少年少女には道標として、いい読み物になるはずだ。
昔も今も、自己というものを見つめて、現実を忘れてしまうほどに、自己と向き合っていると、現実はほんとうに色あせ、代わりに自己の内側から生まれ出たものが、眩しいくらいに輝くのだ。
輝けば輝くほど、それはもはや現実でしかなくなる。
そこから、自己を再構築していけば、少なくとも、人生に謎がまたひとつ増えるだろう。
それでいいのだ。
謎めいてこそ、人生は美しいのだから。
今日はここまで。


「そこにいるのは誰だ。ナジャ、君なのか?彼岸が、彼岸の全てが、この人生の中にあるというのは本当なのか?私には君の言うことが聞こえない。そこにいるのは誰だ。私一人しかいないのか?それはつまり、私自身なのだろうか?」


2005年12月12日(月) 生きながら、死を想え。

檀家の子供たち、若い男の子、女の子たちの話を聞いていると、「霊感がある」と告白する手は、コミュニケーションを取るいい手なのだそうだ。
例えば。
男の子が女の子に、「オレって霊感あるんだぜ」と囁くとか。
女の子が男の子に、「あたしには天使がついてんのよ」とのたまうとか。
私は低く笑って、ほんとうに、霊感がある人ってのはな、他人に自慢しない人なんだ。または、出来ない人でもあると言った。
「何故ならばだ、マジに霊感なんてもんがあってみろ、人生は果たしてバラ色に輝くと思うか?見えなくていいものが見えてしまうことの辛さを想像してみろよ」
「じゃあ、テレビに出てくる霊能者とかはみんな偽物なの?」
「そう、偽物だね。大体、テレビの放送コードに引っかからない程度の霊能者を用意する時点で、本物を呼ぶわけねえんだ」
「本物って、そんなに危ないの?」
「危険さ。まず、その人個人の人生は地獄なんだからな。オレは不幸にもそういう人を小さい頃から見て育ったからね」
ここで。
私自身の見てきた霊能者について語るのは野暮なので、フィクションを例に取り上げよう。
九十年代に流行った、「Xファイルシリーズ」のサードシーズンの中の、「休息」という話がそれである。
これは、死を予知する霊能者クライド・ブルックマンが自らの死を予知して、モルダーやスカリーに捜査の協力をしながら、死に近づいていくという内容なのだが、見ていて、ほんとうにブルックマンが気の毒で涙を流したくらいだ。
特に、同じ夢を見るというくだりが強烈だった。
チューリップ畑の中で、徐々に腐って、骨だけになり、土に還るという・・・。
望んでもいない「力」が備わってしまったことは、それだけで大いなる悲劇なのである。
鋭敏な感覚として、芸術にも仕事にも昇華しようがないなら、なおさら悲劇だ。
自分自身の呪われた「力」と一生向き合うことの地獄。
そんなことは、とてもじゃないが、恥ずかしくって他人には言えやしない。
それゆえに、私はその人にこう言われたことがある。

「あんたはいいね、補聴器をつければ聴こえるんだから。あたしはどうやったって、人並みになれないんだ」

・・・・・・

確かに、「霊感」は、時と場合によっては、羨むべき能力かもしれない。
人の役に立ったり、自分の役に立ったりする能力なら、なおさらだろう。
だが、私が見た限りでは、本物の霊能力とは、実際なんの役にも立っていなかった。
まるで・・・
自然の災害のようだった。そう、落雷のような。
人を怯えさせ、自分をも怯えさせる。
その中で、死ぬべき時に死ぬまで、ずっと生き続ける。
そういう人も確かにどこかで生きて、かつて、私の傍に生きていたのだ。
そんなわけで、私は霊能力がないことを心の底から感謝し、耳が聴こえない代わりに、残りの感覚が鋭くなったという人並みの発達を心から喜ぶ。
で、むやみに、気軽に、「霊感」を口にする輩を、心の奥底からあざ笑い、嫌悪する。
今日はここまで。










2005年12月07日(水) 闇胎道のこと。

私のことをよく知らない人たちの中の、とびきり安直な輩は、私がお寺の息子だからという理由で、悪霊などを祓う霊能を有していると思い込んでる。その理屈で言うなら、中国人はみんなカンフーの使い手だと言わんばかりだ。呆れたことに、半年に一度は、至極真面目くさった文体で心霊現象の相談のメールを寄越したり、果ては直接お寺に来たりするのがいる。
当然、私は鼻で笑って、追い返すのを常とする。
ここではっきり申し上げよう、私は確かに神秘的なことは大好きだが、一度たりともそれを現実のものとして信じたことはないのである。頭から信じ込んでいるんじゃあ、どうかと思うぜ、全く。
すべての神秘的な事柄は、ほんとうに、それが好きか嫌いかというだけで、真面目に信じたり、語ったり、祭り上げたりするものではない。
そもそも、オカルト、即ち、隠秘学は、その字面が表しているように、人間の心の中だけの学問なのである。
呪文を唱えれば、鬼や悪魔、死人を呼び寄せるだなんて、確かにほんとうに出来れば素晴らしいことだろう。
その素晴らしさを思い浮かべられる豊かな心を育てること。
実は、それがオカルトの奥義と言っても過言ではない。
というわけで、雰囲気作りとしてのお祓いなら、いつでも受け付けます。
簡単だよ、得体のしれねえ文句を並べ立てられるより、得体のしれる雰囲気での方がよっぽど心の手術になるんでね。
例えば、以前、旧い日記にも書いた、佐渡島の秘法、エトリ。
これは、お互いの手のひらを刃物で切って、滴る血と傷口をぴったり合わせるようにして、握り締めるというものだ。
そうやって、穢れた血を自分の血で清めようという、実に、雰囲気たっぷりな心の手術なのである。
私の母方の、祈祷師だった大叔母が得意としていたやつで、私自身も榊の葉っぱで頭を撫でてもらったり、そんなことをやられたりで、すっかりやり方覚えちゃった。
で。
今回は、最近不運続きの紅蜘蛛お嬢様と、これまたマイナスぎみの紅胡蝶の二人のために、世に言う、「胎内くぐり」をアレンジしたお祓いをすることになった。
「胎内くぐり」を経験したことがおありだろうか?
下に引用した画像をごらんになれば、ああ、これかと思い当たる方がいらっしゃるかもしれない。
そう、母の胎内に見立てた「それ」をくぐり抜けることで、もう一度生まれ変わって、きれいな心身になるという雰囲気作りだ。
私は茅の輪くぐりも体験したし、善光寺の真っ暗な胎内くぐりも経験した。果ては、京都精華大学にて、三好隆子女史の作品も拝見した(ウレタン製のちくわみたいなのがそれ)。
で、私の見聞したものをひっくるめて、編み出した秘法。
名づけて「闇胎道」。「あんたいどう」と読む。
市川には、ここの自宅の他に、去年亡くなった祖母と母が住んでいた実家があるのだが、現在は無人で、寒々とした空き家。これを利用して、真夜中にこの家に入って、続き間に山積みにした布団の山の奥に入っている、仏像を取って来させると。
要は肝試しなのだが、冷え冷えとした、真っ暗な廊下を行って、障子を開けて、山盛りになった分厚い和布団の中に潜り込んで、仏像を取って、戻ってくる。このプロセスがなかなか心に効くはずである。
ただ、二人はやはり、私の性格を熟知していて、私がおとなしく見守っているわけがない、絶対、どこかで仕掛けてくると用心しているのだが、私は今回は悪ふざけは無しだよと申し上げることにしている。

闇の中 ただ我ひとり 光の矢

とにかく、なんでもいい、それなりの雰囲気に身をさらして、心に光の矢を。
合掌。
今日はここまで。








2005年12月06日(火) 犬神博士、火事に遭遇するのこと。

夕方、帰路の途中、いつも通る坂道の右側から、黒煙がこれでもかというくらい、流れていたので、こらぁ、焚き火じゃねぇ、火事だなっと思って、発火元を覗き込んだら、アパートの一階、道路側の端っこの部屋の窓ガラスを突き破って、真っ赤な火が立ち上っていた。
まだ消防車、救急車が来ておらず、近所の人たちがなんだなんだと出てきたところだった様子で、私は誰かがかけたはずだろうと思っても、とりあえず携帯で消防局に電話した。一番近くに立っている電柱の番号を伝えた。実は、この方が現場を素早く、正確に把握する伝達方法なのである。
よく見ると、玄関の側で、小さな子供を二人抱えた若い奥さんが、パニック状態で、周囲の人たちに「すいません、すいません」と連呼していた。奥さんはよほど慌てたらしく、ブラウス姿という格好で、しかも子供たちは二人ともまっぱだかだった。
私は見てられず、「誰か毛布貸してやんな、寒そうで見てられねえよ」と周囲の人たちに声をかけた。そこで、誰かが我にかえって、毛布を出してくれた。
「旦那さんに連絡は?」と誰か。
「今来るって」と誰か。
そこへ、消防車五台とパトカー三台が到着した。
ちょっと大げさな台数だが、私も含めて、誰もが電話した結果だろう。
続いて、救急車。
「はい、どいて!下がって!」と怒鳴り声。
そこで、私はぶるっと震え、おっかねぇ、おっかねぇ、うちも気をつけなきゃあと心底思い、我が家に向かって歩き出した。
それにしても。
一軒家ならともかく、アパートの火事は大変だ。
真上の部屋、隣の部屋の住人は不在だった様子だが、帰ってきたらさぞかしびっくり仰天するだろう。
特に、見た限りでは、真上の部屋。
布団と洗濯物が出してあって、それらが全部黒煙と炎で真っ黒になってしまっていた。
どうすんだ、今夜は。
とにかく、最近の標語をそのまま拝借するが、防火に勝る消火はないのである。
うちは大丈夫なつもりだが、油断のないよう気をつけなければ。
今日はここまで。


2005年12月03日(土) 悪魔と闘うために。

広島の幼女殺害、死体遺棄事件の犯人が捕まったと思いきや、間を置かずに、今度は栃木の事件である。
師走になると、この類いの事件に心を曇らせるのが、まるでクリスマスに次ぐイベントになったかのようだ。
私も少女、幼女を家族に持つ身として、ほんとうに他人事ではない。
会社やお寺、自宅にて、人と顔を合わす度に、広島の事件の犯人の言う、「悪魔」との闘い方について語り合っているのだが、私の意見は一貫して、自分の身は自分で守ること、幼い子供は絶対に一人で行動させないことの二つである。
しかし、誰にも言わない、言えない、悪魔との闘い方がある。
それは、自分自身の悪魔の声にも、時々助言をもらうことなのだ。
極論、暴論ではあるのだが、誰にでも幼女殺害、もしくはそれに匹敵する鬼畜な行為を思い浮かべる瞬間があるはずである。想像力というものがある限り、それは別に非難することではない。ただ、そんな自分自身を、当然認めないはずで、そんな瞬間はなかったことにしてしまうのが常であろう。
気持ちは分かる。
しかし、今の世の中、そんな悠長なことは言ってられない。
自分自身の中の「悪魔」を認めてしまわなければ、「悪魔」との闘いが出来ないのだ。
私は、先人たちを思う。
先人たちはなんと、「悪魔」との闘い方に長けていたことか。
例えば、サド侯爵。彼は一連の暗黒文学を物にすることで、人間性の秘密を追求した。
サドに続く、いわゆる人間の暗黒性やエロスについてこだわり続けた人たちもそうである。
「悪魔」、即ち、人間の衝動性を前にして、脆くも崩れてしまう、一般人たちの中で、果敢として立ち向かい、自己を乗り越えてきた人たち。
私はそういう人たちに親しんできたおかげで、私自身の「悪魔」を自由自在にコントロールして、創作に活かしているのだが、私の「悪魔」は断言する。
ああいう事件を起こす病んだ人間のすべては、きれいなものばかり見て育ったせいもあるかもしれないが、自らの衝動にあっさり負けてしまう点で、最初から闘いを放棄した、文字通り、「悪魔」に魂を売り渡した輩だ。

・・・・・・

人間は最初から強いわけではない。
私もあなたも、誰もが、弱いのだ。
それゆえに、誰もが、「悪魔」の囁きを一度は耳にする。
しかし、その囁きに乗らない自己を鍛え続けることで、人間は強くなれるはずなのだ。
そして、私の闘い方は、自らの「悪魔」をも戦力にしてしまうほど、視野を広くすることである。
そうすれば・・・
少なくとも、自分が幼女を連れ去るには好都合と思う場所に、家族を行かせない。
さらに、他人の中の「悪魔」に敏感になれる。

・・・・・・

全く嫌な世の中になったものだ。

今日はここまで。


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