本と編集と文章と
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2001年08月02日(木) 一冊30万円

もう10数年も前だろうか。今はもう亡くなった将棋の芹沢九段の本を書かないかと言われたことがある。いわゆるゴーストライターの仕事である。将棋は好きだし、芹沢九段も挨拶の仕方さえ間違わなければ、気の置けない、話を聞いて楽しい人物のように思われた。
喉から出かけた手が引っ込んだのは、ギャラの条件を聞いたときである。
「一冊買い取り30万円」。
当時のぼくの能力では、一人の人間から面白い話を聞き出して一冊の本にまとめるというのは、約3か月分の仕事だった。それも他の仕事と並行してやるとかではなくて、それだけにかかりきりで、である。
印税であれば、まだ増刷に希望をつなぐこともできるが、それで買い取りとは。
どう考えてもつじつまが合わないのでお断りした。
そのあと、知り合いの新書の編集者に「そんなギャラじゃ商売にならないよな」といったら、「いや、一週間くらいで一冊書いちゃう人いるよ」と言われた。
うわー、それなら月100万くらいになるわ。
最初の一日で取材はすませて、残り6日間1日400字4.50枚書く。ぞっとするスケジュールだが、体力と集中力があって筆が速い人なら不可能ではないのかもしれない。
計算上はなりたつし、すごい能力だと思うが、そんな書きっとばしの人がいい仕事をしているとも思えない。
安いギャラを提示してくる出版社も不愉快だったが、書きっとばしで荒稼ぎするライターの存在も不愉快だった。
第一そんなやり方で著者の芹沢氏が満足するだろうか。
だいたい出版社がそんなにケチだと、話を聞く場所も「会社の会議室で」、とか言いだしかねない。一流棋士がそんなところで気持ちよく話をしてくれるとはとても思えないのだった。料亭で話させろ、銀座で一杯飲ませろ、なんて話になったら、ケチケチ予算は一夜にして壊滅である。そういう話をうまくさばけそうな編集者でもなかった。
じつは、安くても仕事はすごくほしかったが、安いだけでなく、あまりにトラブルの匂いがプンプンしているのであきらめたのだ。

あの編集者は30万円で書くライターをうまく見つけたのだろうか?
その後、気をつけていたが、芹沢氏のそれらしい著書は見かけなかった。


村松 恒平 |MAILHomePage