私季彩々
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2005年04月18日(月) 炒飯記念日

 生まれてこれまでで、きっと、今までで一番美味なチャーハンができた。

 2日前に頑張って買った刺身セット2280円(但し買ったのはその半額)を食べなければ、と、遅い帰りの道すがら、余していた冷や飯は、刺身とビール(発泡酒)を肴とした後に食そうと画策。ただ、飲み始めたら調理は面倒である。ならば、あとは炒めるだけにしてから飲もうと、ネギとソーセージを切り、飯は暖めておいて、準備万端乾杯とした。洗った中華鍋はストーブに掛けておいた。
 酒と肴はあっさりなくなり、サクッと炒飯作り。しっかり加熱した鍋はソーセージをクツクツと受け止め、じんわりり焼き上げていく。そして火力最大。投入された御飯は綺麗にほぐれて行き、焦げ目を軽く残して油を纏って熱の鉄壁をすべり舞っていく。放り投げた卵は鮮やかに混じり、きらり光る白に溶けて塩コショーを受け止めた。すでに勝利の予感。そして香ばしいネギの香りが駄目押し。どちらかというと主役できた我が人生の炒飯醤油を大きく脇役に追い出すわずかの一振りでフィニッシュ。

 ・・・・・。決めては鍋の加熱である。中途半端はいかん。

 日頃サボりがちなこの記に敢えて残そう。今日は我が人生の炒飯記念日である。 Home&Photo


2005年04月06日(水) 倦怠惰性に反する顔ら

 期待と不安と緊張と。どちらかといえば、いや、基本的に不安を煽り、倦怠と怠惰と惰性を信奉してきた私にとって、まぶしすぎる存在である。
 世の中そんなに素敵なことばかりじゃないよ、期待なんて1割も満たされたら十二分なんだよ、などと冷めながら、冷めるのは自分ひとりでたくさんなわけで、どうせならお裾分けを貰って楽しく生きた方が良い良い。

 結局、帰りは22時を回り、帰宅は23時を回る。それはたいして苦にもならないが、我への甘えでもある。複流となり伏流となり、眩しい湖面へ注ぐ雅な水流は単線ではつまらない。甘えを回避して、さっさと次の世界へ漕ぎ出さなくては。また戻ってくるのだから、住処にしてはならないのだよ。 Home&Photo


2005年04月04日(月) もやしっ子

 期限切れのもやしはあっという間に腐っていく。以前何度も計ったもやしの生菌数は限りなく検出範囲を越えたもので、それを反映して実際持つものではない。が、袋を開けなければ結構持つのである。そんな彼らに課せられた悪言は、体積に比して大きい表面積のなせる技であり、普通に腐敗していく様は正常な自然界の生業である。加えて一袋税込み7円という安さは、庶民の愛おしさを代弁するに余りある。生涯添い遂げたいあなた、というに十分である。

 思えばもやしっ子と罵られてきた私だが、日陰者との相性から見ても抜群である。もやしっこ、結構ではないか。もやしっ子で行こう。われは栄養価抜群である。

 で、トウバンジャンをかけ、ポン酢をかけて、夜の肴に一献。美味美味。うるかしていたつもりの米はそんな存在もなく、幻想の炊飯器の中身は乾いたデンプンの薄膜ばかりであった。今宵の炭水化物は発泡酒と安カクテルに化け、予定の麻婆豆腐の豆腐は、酒を急く我心に急かされて弟のモヤシで代替されつつ、すこぶる美味であり、いとおしさも再認識だった次第。

 もやしっ子万歳。ステレオタイプの底に潜む力強さに敬意を表して、我が師と仰ぎましょうぞ。 Home&Photo


2005年04月02日(土) クリの木の上に

 久々に大学というものへ行き、研究室や出入りする学生達をみて、自分が失った機会というものを、ほろ苦く噛み締めてみた。

 近くにある以前随分通った森は、暖気の中、降り続けるぼた雪に深く埋もれていたが、元気にクロスカントリーを楽しむ高齢者達が陽光に溶けて健康的だった。敬愛する森の師匠は変わらず森の通信誌を綴り続けてらっしゃり、すっかり遠くなった私の脚と目と耳に、1年間のこの森の様を伝えてくださった。

 何となく集中してテレビを見る気力がない昨今だが、たまたまみた再放送の「ETV特集スロー建築のススメ▽家づくりの楽しさを建築家・藤森照信が伝授▽クリの木の上に茶室をつくる!構想から仕上げまで1年間▽自分のペースで」が素晴らしかった。楽しむということ、自ら想像すること、創造すること、共有することの喜びがいい男達女達の飾りない姿で伝わってきた。建築番組だが、素直に生きるとは何かを思い起こさせた。

 テレビにしろ、森にしろ、過去の後悔にしろ、いろんな機会が転がっている。取り返しのつかないことはそうはない。ふと合わせたチャンネルだけで、人生楽しくなれたりする。ああ、単純とは素晴らしい。孤独という愛しい空間と時間にこそ、仲間を惹きつける幹があるのかな、などと思ったりする。
 社会と私は確かに繋がっているが、デジタルのドットのように私は混ざらぬ個でもある。それらが混ざったように見えながら無数の新しい色を織り成すわけで、埋もれている訳ではない。そう思えば、隣近所も愛しき隣人である。デジタル的な考えもまた暖かい。ものは考え様だ。
 私は暖かさを求めている弱き人である。ほろ苦き時も、熟成を経て笑い話になろう。クリの木かどうかはわからないが、手作りの人生であれば、そうでしかありえないわけで。社会はその家に繋がるわけだが、電線や下水道ではなく、ソーラーパネルや沢水のように、心地よい恵みとして手間をかけて味わいたいものである。

 生きてきた年月は平等であり、比較しても首が疲れるだけである。見回せば何かがある。自分の中にも外にも。想いを込めて深呼吸をする、それだけで人は自然であり、社会と繋がっているのだ。だからこそ、孤独は愛しい隣人でありつづける。クリの木の上は、そんな人と愛の共有された空間なのであろう。 Home&Photo


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