私季彩々
DiaryINDEXpastwill


2002年07月30日(火) イカづくし

 日曜日イカ釣りにいってきました。年に一回の恒例行事となるでしょうか。昨年に続き2回目です。
 今年は波も静かで良かった。企画者であるオーナーは大張り切りだったのですが、今宵の月が大きいと知るや意気消沈です。月があるとイカが海面浅くに浮くとのことで、そうすると擬似餌を追わなくなってしまうそうです。だったらこんな日に設定しなければいいのにと思いつつ。
 30分ほど走った沖合いでスタート。ポツリポツリと当たりがあって、だんだんと入れ食いになってきます。イカのいる棚がだんだんと浅くなってくるのがわかります。夜が更けるにつれてそうなってくるそうです。盛期には棚に下ろすと、すぐに当たりがきます。1時間に50は釣ったでしょうか。イカ釣りは棚を探ることだと痛感。
 釣ったイカを氷詰にして再戦しましたが、その後はぱったり。けれど、船頭さんは見事に釣りまくります。素人連中はぽかんとしてしまうほど。プロは全く違うものですなぁ。海の男、かっこいいっす。
 朝帰って、軽く寝て仕事して、その後はイカの押し付け相手を探します。一人身の私には多すぎますし、そもそも船釣りなんてものは大漁になれば家族で収まるものではないですし。数少ない友人に押し付けつつ、月曜日はイカ刺しを飯に乗っけてかっ食らう。自ビールとともに。いやぁ、至福っすねぇ。のほ。

 で、それでも溢れるイカをどうしようかと火曜日。冷凍庫も一杯だし。で、干してみることに。一夜干し位が丁度いいとのことですが、カラカラにして保存できないかと。ひたすら開いて夜更かしです。で、明日は雨の予報。むむむ。網もないし、虫に食われるのが落ちか?
 といいつつ、冷蔵庫を開けるとまだイカがいた。ふにに。

 もう新鮮とはいえなくなったイカですが、どなたかいかがですか?

今日の写真《ヒオウギアヤメ@夕張岳》 Home&Photo


2002年07月27日(土) 地図を開けば

 中学のころ、好きな勉強は地理だった。地理というよりも地図が好きだった。先生の話などそっちのけで、勝手に地図帳や資料集を見ていた。そのおかげか、世界の国と首都名ならほとんど全てを網羅している。かといって海外旅行すらしたことがないから、ほぼ完全な地図オタクといっていいだろう。

 数年前に買ったデータアトラスという6000円の本には、世界各国の経済・軍事・政治等のあらゆるネタが簡潔に網羅してあった。毎日読み漁ってほとんど網羅している。数十万人規模の小国がたくさんあることに驚いて、国っていったいなんなのだろうと考えてみたり、誰も知らない国を見つけて、いつか一緒に行こう、などと囁いてみたこともあった。
 セントルシアという国にあったグロ・ピトンという山に惹かれてネットで検索すると、そこに暮らしている日本人家族のホームページがあったりした。さすがにカボベルテの日本語ページは少なかったが、あるにはあった。ナウルの旅行記なんて最高傑作で、その後その国に関わるニュースを見聞きすると、ほとんどギャグである。

 そういいつつ、海外旅行には全く行ったことはない。東南アジア旅行の機会などもあったけれど、勝手に教室に気兼ねして出かけなかった。いまいちそういう雰囲気には抗しがたい。全然かまわなかったのだけれど。結局のところ、私はただの地図マニアなのだろう。それがたたって、とても出かけられる状態ではなくなった、経済的に。

 そんな中、ふららといってしまう人は結構尊敬しています。お金の問題じゃないのだよね。確かにそうだったのですが、今ではそうもいってられないほど貧しいので。

 で、明日は社長のおごりで(たぶん)イカ釣りに積丹沖に行きます。親愛なるお友達、インドで楽しんでくだされ。お土産話を期待しております。

今日の写真《ヒオウギアヤメ@夕張岳》 Home&Photo


2002年07月25日(木) 遠くの台風

 自作ビールには保泡力が足りない。普通の人なら気の抜けたビールと思うだろう。これはこれでいいのだけれど。

 楽しみにしている(のに結構見落とす)ERが台風中継でどうやら流れたようだ。NHK深夜12時15分。台風9号は鹿児島から朝鮮半島へ向かうようだ。

 台風といえば、沖縄あたりで旋回して日本沿いに北上するようなイメージがあるが、韓国や中国ではどうなのだろう。滅多にやってこないものなのだろうか。揚子江なんてたまに氾濫してる映像を見るような気がするけれど。
 北海道から見て、台風のニュースを見ても実感が湧かない。九州や本州で大雨降らしても、北海道まで来るときにはたいてい熱帯低気圧。洞爺丸台風以来大きな被害あるのかな。あるだろうな。
 うちの田舎も5年に一回くらい大雨で床下浸水が近所であった。最近じゃ聞かないけれど、大雨前線の方が怖いイメージもある。

 とはいいつつ、台風は怖い。東京にちかづくにつれてニュースも大騒ぎ度を増す。そして東京を越えると、一気に冷める、と誰かが言っていた。最近の台風を見ていて、その辺を注意してみているが、まぁそういう面もあるように思える。対岸の火事、危険のない火事。

 イエローモンキーの「JAM」という歌で”乗客に日本人はいませんでした、いませんでした”というのがあった。墜落した飛行機に日本人乗客はいないというニュースが流れて、報道は一段落するわけだが、多くの人が死んだことには変わりない。そのことに関する違和感を捕らえていて、結構話題になったように思える。
 事実、当事者、居住地、同地域、国と、身近なほど関心は強い。もしかしたら自分が当事者になるかもと思えば関心も強いが、そうでないとわかれば一観客になれる。その一瞬の安堵を胸に、改めて同情を秘めたやさしい人間になれる。

 それを批判するわけではない。そういうものだと思う。どこまでも心配していては切りがないから、自分のできる範囲で心配する。みんなが集まれば地球全体をカバーできるわけだ。
 もしできるのなら、あらゆる地域に友人を作ることかなと思う。そうすれば、どこにいっても心配の種が尽きることはないだろう。自分の心配以外に、他人の心配がたくさんできれば、災いを免れた喜びを共有できる。

 台風が日本のどこかを通過するたびに、あいつは、あの人は無事だろうかと思ってみたりしてみる。洪水に巻き込まれないまでも、ずぶぬれになっていないだろうか位の心配なら大はずれでもなかろう。

 沖縄の幼馴染、熊本のネット友、濡れていませんか?


今日の写真《ヒオウギアヤメ@夕張岳》 Home&Photo


2002年07月24日(水) 特記事項なき日

 3回目のビールの出来は思ったより悪くなさげ。コーンスターチをしゃれで入れてみたのですが、これ、固まるんですよね。1kg無理やりとかして熱をかけたら、見事なゼラチンになりました。ビールに入っているスターチはほんの少量なのでしょう。

 今日も雨が降ったりする曇り空で、せっかくの休みをどこにも出かけられない。車も修理中でどうしようもないのだけれど。自転車すらないので。おお、神よ。

 で、閉店間際のスーパーに行くと、豚こま切れ肉が安かった。これでトン汁にしようと思ってごぼうを買いにいくと、目の前で値引きシールを貼ったごぼうが撤去されていく。「それ買います」とも何となく言えず、かといって普通の値段のを買う気もしなくなって、どうし様かと悩んでいると、豆腐がいつもの半額だった。ラッキーと思ったら、すでに全部売れきれ。安かったものがあったのに高いものを買う気にもなれず、今日は取りやめ。細切れの生姜焼きに変更。

 ベランダの作物は大きくならない。スイカは腐った。メロンは全然大きくならないのに花だけつけた。ミニトマトは50cmほどにしかなってないけれど、小さな実をつけている。ピーマン・ナンバンも成長停止。ジャガイモは元気だったけれど、すでに枯れモード。果たして身はあるのか。タイム(ハーブ)とつまみ菜は、雑草のように増えるとあったのだけれど、全然だぁ。

 と、特記事項なき日なれどつらつらと。ミニトマト、われに愛の恵みを。君だけは裏切らないでね。

今日の写真《ヒオウギアヤメ@夕張岳》 Home&Photo


2002年07月22日(月) 著作権談義 

 NHKスペシャルで著作権についての特集がやっていた。知は誰のものか。

 もともと著作権は14年(13年だっけな?)だったらしい。それがドンドン長くなって、今では70年を超えるそうだ。細かい期間は忘れてしまったけれど、そんなもの。
 それは著作権がどんどん巨額の利益を生むようになったためのようだ。発案者だけでなく、それに関わって働く人たちを含めて。既得権になってくれば、それを守らなくては突然収入が絶えてしまう。

 インターネットの普及とデジタル化によって、コピーの劣化性がなくり伝達性が飛躍的に向上した。メディアの形になったものは一瞬にして作者の手を離れる。
 作者の創造性を確保するために著作権は保護されるべきだと漠然に思っていたが、総本山たるアメリカで著作権論議に火がついているのはさすがだと思った。長すぎだというのだ。
 ミッキーマウスは白黒の映像時代から現在にいたるまで、容赦ない著作権で守られている。子供達がプールに絵を描くことも許さない。作者はこの著作権だけでどれだけの収入を得たのだろうか。どれだけの収入が妥当なのだろうか。著作権が増幅されて、どれだけの人の懐に入り込んでいるのだろうか。

 科学論文の世界では、どんな優れた論文でも、新しい発見はほんの数行にしかならない。ほとんどは引用に次ぐ引用で、最後の一行に”suggested(示唆される)”とあるだけのものがほとんどだ。本当のオリジナルなんてほんの一握り。それはキャラクターでも音楽でも同じ。それらが、映像やグッズになって著しく巨大化した。どれもすべて、自分がオリジナルだと主張している。

 しかし、インターネットの出現によって、創作と頒布の垣根が崩れた。仲介者は右往左往だ。彼らは作者の権利を主張しながら、最も痛打をこうむったのも彼らだ。肥大化した既得権に穴があいた。インターネットの自由度と時代との相性からいって、この穴は決して塞がらないだろう。コピー防止の技術は常に崩れる。

 問題は創作に対する正当な対価のあり方だ。現状のあり方は確かに危機的だ。しかしながら、著作権の期間を延長して、厳罰を持って望むのは時代錯誤だろう。自らCDやDVDを焼ける時代に入って、3000円のCDが100円でできることを知ったユーザーに逆戻りはない。間にいるメディア企業はあっという間に肥大化した存在に成り下がってしまったことを自覚しないといけない。

 デジタルネットが生み出した創造の可能性は、大きなボトムアップとなっている。間に入っていた巨額の利益が、双方にうまく共有される方法が生まれるだろう。今は試行錯誤の時代だ。リナックスはどうやって利益をあげているのだろう?

 ミッキーマウスなんて誰がどんな映画を作ったっていい。本当にいい作品だけが残るだろう。作品を作るための経費をどう回収するかという問題はあるだろうが、著作権料が下がるだけでも大きいだろう。映画にしても、ハリウッド俳優が稼ぐギャラは異常だ。あれだけもらわなきゃいい仕事をしないなんてのは大きな勘違いだ。

 時代の流れは止まらない。本田のスクーターも10万円を切った。著作権というバブルも破裂するだろう。新しい形を残して。 Home&Photo


2002年07月21日(日) 居酒屋兆次

 全英オープン丸ちゃんおしかったぁ。後半の崩れで駄目かと思ったけど、いい巻き返しだったねぇ。

 で、明日返さなけりゃならなかった「居酒屋兆次」を慌ててみる。函館舞台なんだ、と、北海道ロケというだけでうれしい。
 高倉健主演ということで、もう雰囲気はわかるのだけれど、ちょい役で細野晴臣さんがでてたりして笑う。武田鉄也氏とかはまぁわかるけれど、田中邦栄さんなんか、青大将よりもとおさんだからなぁ。いい味。最後の方には小林稔侍さんも出てきて「鉄道員」状態だ。しかし大原麗子、ここまで悲惨な役回りはないのではないかと。
 若かりし頃は洋画ばかり見てたけれど、邦画はいいねぇ。何より言葉がわかる。
 寅さん全部見ちゃおっかな。


今日の写真《ヒオウギアヤメ@夕張岳》 Home&Photo


2002年07月20日(土) またまた夜更かし

 全英オープン見入っちゃった。丸ちゃんがんばってるねぇ。おかげでまた夜更かしだ。

 NHKで夜中やってた油絵アニメ「老人と海」素晴らしい。芸術って感じ。それもかなり身近な技技巧で。アニメーションってもともとパラパラアニメなのだから、一枚の絵からいろんなことができるんだなー。ロシアってそういう深さがあるな。

 おまけに、たった一月で結婚を決めちゃった親愛なる唄姫様。お幸せにねん♪

会釈して過ぎしあなたの髪に落つ花を見送るさくら横ちょう

今日の写真《ヒオウギアヤメ@夕張岳》 Home&Photo


2002年07月19日(金) 花火大会だったのねー

 今夜は花火大会とのこと。打ち上げるところから直線100mも離れていない河川敷そばで働いている私は、8時と同時にドンドンドカンと鳴り響くけたたましさに、残業の手を止めた。窓は反対側を向いている。花火自体が見えなければ、ただの爆竹爆弾野演場である。
 そういえば、中島公園そばの河川敷地区は、水商売のお姉さんとかが多く住んでいて、ペット可の物件も多い。飼主がいない状態で花火がドンドン上がると、部屋でパニックになった動物が暴れて大変らしい。話によると死んでしまうのもいるとか。恐ろしい話だ。

 ちょこっと覗いてみようかと、サンダル履きで堤防まで行ったけれど、あまりの人混みにとっとと退散。会社の2階の窓をあけてしばらく眺めていたが、だんだんと花火が北にずれていって、ビルの陰で見えなくなってしまった。あまり未練も無く退散。
 といいつつ、かえりがてらに見ながらも良いかと堤防沿いの道に行くと、全然流れない。花火を見上げて歓喜する連中を見ながら逆流するというのは、あまり気分のいいものではない。けれど、円状にあがる花火があることを知った。球ばかりではないのですな。平べったい花火もあれば綺麗な円を描いたりもするのですな。

 北海道らしくない蒸し暑い日が続いている。上弦の月が雲越しにおぼろげだが、これだけ多くの人が空を見上げながら、いつもよりも月を意識する人はほとんどいないだろう。私が向かう方向に、月。逆流しながらでは、振り返って花火など見られるものではないようだ。

 会場から遠くなっても、ポツリポツリと道で眺めている人がいる。4分の1しか見えない花火を眺めているホテルのコックさん。明かりの落ちた暗い店先でしゃがむおばあさん。昔は良く見えたんだがねぇ、との話し声が漏れてくる。

 そういえば今日は自転車がなくなっていた。暑くても良いから蒸すのは勘弁して欲しい。

今日の写真《ヒオウギアヤメ@夕張岳》 Home&Photo


2002年07月17日(水) 錆し戸の隙間より見る雑緑に埋もれて在りき小さき靴も

 近寄ってみるとその古びた様がより感じられる無人の家。新しいあっという間に立ってしまう家が増えた中、モルタルの家のくたびれた様が最近目立つように思える。そんな家は必ず誰も住んでいない。

 軋む戸はゆるく開いているが、さび付いて動きそうもないし、動くことを拒否したようにある。夏になって租に密に生える雑草の中には空き缶やバケツが地味に転がっていたりする。そんななかに、ピンク色の小さな靴がひっくり返ってあったりする。
 暮らしの中に子供の姿があったというだけで、家は輝きを持っていたことがわかる。小さな庭には雑多なものが転がっていたことだろう。

 数日後には、瓦礫の山にショベルカーが鎮座していた。ほこりを静める放水が小さな虹を浮かべて。
 街はそうやって時代の一層を刻んでゆく。一足の靴くらい地の中に残して欲しい。

錆し戸の隙間より見る雑緑に埋もれて在りき小さき靴も


今日の写真《なもしらぬ一葉》 Home&Photo


2002年07月16日(火) いけないマニアに誘う私

 家庭教師先の中3の男の子は、「ふきのとう」「井上揚水」「フォーククルセイダーズ」という昔の音楽を好むマニアック野郎で、昔の私を見るようで可愛い。
 マニアというのはメジャーに無条件で背を向けがちなのは私も経験があるもので、けれど、最近の歌もかなりいいぞとはやし立てている。どうやら、松たか子が好きらしいのだが、女性歌手が好きとは言いにくいらしい。宇多田ヒカルは合わないとか。

 そこで私の秘蔵のCDを3枚貸してみた。松たか子のファーストアルバム。これは彼もにやける一品であろう。次は、はっぴぃえんど。古いフォークばかりではいけない。この作品を聴かずして70年代を語るなかれである。多分良さをわかってくれるだろう。最期はZABADACK。これぞマニアの極地。果たして触れたことの無い詞と曲にマニア心を研ぎすませてくれるか、先生は楽しみだ。気に入ってくれれば、YMOやムーンライダーズ、果てはジャズに至る禁断の道を指導してくれようぞ。

 で、車が壊れているので、雨の中をバスと地下鉄で移動。たまにはいいものだ。気軽に立ち読みもできるし、余計な買い物もルンルン(死語)としてしまえるし。
 愛するテレビブロスには「ナンシー関」の追悼企画が。そうか、過去のブロス編集部とは軋轢があったのか。でも、それをおおっぴらに言ってしまってオマージュを捧げるブロスは素晴らしい。

 帰ってくると、ドラマ「天体観測」が終わっていた。いいのだけれど、何故主題歌は天体観測じゃないのだろうか。いや、いいのだけれど。そういえば、「風の谷のナウシカ」の主題歌は安田成美が歌っていたけれど、映画中では一切使われてなかったな。ま、いいのだけれど。
 ジャンクSPORTはおもろいなぁ。画期的番組だなぁ、としみじみ。
 さらにどうでもいいけれど、終わったと思っていた、深津絵里が恋人とカタカナ4文字にいろいろ略して話が進むCM。すっごくいらいらするから止めて下さい。あ、私ってふかっちゃんのファンだったのね、しらなかったわさぁ。


今日の写真《なもしらぬ一葉》 Home&Photo


2002年07月14日(日) 車よりも、お金よりも、問題なのは・・・

 私は友人の下宿先の駐車場(路肩)に車を置かせてもらっている。2キロ以上離れている。私が使わないときは、自由に使ってもらっていいことにしている。
 車を共用に使うときの問題点は保険の問題だけれど、何かあったときには私の保険を使って、掛け金が上がった分を末永く負担してもらうということにしていた。もちろん口約束。
 ボロ車だし、10年超えているので値段はつかないから、車両保険は入っていない。自損の際の事をはっきり決めてはいなかったが、その時は現況回復でと漠然と考えていたし、人身のときの約束に準じていると思っていた。

 昨日メールがあって、嫌な題名だったのだが、案の定ぶつけたとのことだった。ハンドルを大きく切って、停車した状態から発進しようとしたが、クリープでは進まなかったらしく、アクセルを踏んだら思いの外大きく曲がって進み、歩道に乗り上げて、街路樹に衝突したとのことだった。

 私も峠のカーブを曲がりすぎて、ポールにぶつかったことがあった。その時は40km/hくらいでていたが、バンパーとライトの交換で15万円だった。それよりは軽いだろうと思ったが、思いの外ひどいもので、ボンネットやフレームにもひずみがあった。

 問題なのは、私が起こした事故ではないということ。弁済するといっていたが、彼は年に数回しか車を使わないでいた。たまたまだったわけで、私が積極的に使えと言ってすぐだった。しかも彼は定職も無く、月数万円で暮らしている人。車に乗るということに大きなリスクを持っていることを十分意識していたし、実際使うことも少なかったのだ。そんな彼に20万円以上のお金をださせるのは、私自身に納得できない。
 かといって、私もお金に余裕があるわけではない。手元にはとりあえずはあるが、借金であることを考えれば彼よりも経済的には厳しいのである。

 ある友人に数千円のお金を貸したことがある。けれど、彼は突然「返したはずだよね、うん返した」と一人で納得しだした。何度か、そんなことはないと詰め寄ったが、全然駄目である。そう思い込んでいる相手に何を言っても無駄なわけで、私はいらいらした。お金で友情が壊れるって本当だなと思った。私はそのいらいらを飲み込んで、今に至っている。恨みは無いし相手には悪気も無いけれど、いまだに覚えている。
 その時に決めたことだが、友人に金は貸さない、お金を貸してもあげたんだと思うことにした。それ以来、数は少ないが、貸したお金を請求したことは一度も無い。数百円であっても、相手が言わなければ請求しない。いまのところ帰ってこなかったことは無い。

 今回は額が多すぎるし、二人の約束(というか雰囲気)上彼が全額負担するつもりのようだけれど、私的にはそう成りそうにない。良心とか情けとかではなくて、私の信条上納得できない。かといって、折半でいいのかというのも疑問。4:6とか3:7とか適当なところを考えている自分も嫌。
 しかも費用はとりあえず私が全額払うことになる。彼には手持ちのお金は無い。まして収入すらない。となれば、彼は私に定期的にお金を払いつづけることになる。そんなことは虫唾がはしる。絶対に嫌だ。
 もし私が大きなお金を貸すことになった時に、こうしようと考えていたやり方があって、多分そうなるだろうけれど、納得してくれるかなぁ。こんな想定は夢物語で、貧乏人な私には余計だったはずなのだけれど。

 さて、これが本当のお金持ちだったら、さくっと忘れていられるのかもしれないけれど。
 ちょっと悩みを抱えてしまいました。ふに。

今日の写真《なもしらぬ一葉》 Home&Photo


2002年07月11日(木) お豆腐に納豆・もやし・味噌・醤油 豆源郷に暮らしてたのね

 もやしの味噌汁、納豆、冷奴、醤油をかけて、って全部大豆。日常生活って、実は大豆に支えられているのかも。お米も大事だけれど、大豆こそ自給率を維持すべきものなのではないかな、とか思ったり。

 例え仙人のように暮らしたとしても、何かを食べねば生きてはいけぬ。桃とは行かないけれど、豆を植えて豆源郷に暮らした方が私的な楽園かも。ジャックの豆の木のように空に放り投げられるかな。いや、私はこの地上のどこかにある楽園に暮らしたいのだ。桃がどんぶらこと楽園の小川を流れて俗界に注ぐように、豆を炒って豆を煮て豆サヤの船に乗せて恵みを届けてみようかな。桃の甘い香り漂う高貴な楽園もいいけれど、豆腐の匂い漂う園ならば、中国より日本的ではないか。

 そういいつつ、わがベランダの植物達はてんで元気も無く、黒豆は20cm。ビールのつまみ足りうるのか。豆仙人は無理そう。

 そんななか、昨年秋に買ったリンドウの鉢から芽が元気に出ている。多年草だけれど、花が終わったらカサカサに乾いて、雨に当たって全て土に返ってしまったのだけれど、春になって突然芽が出てきた。なんて強いのかしらと感心。他の連中、リンドウの千倍手をかけているのだから、しっかりせんか。

 ままならぬのは世の常なれど、テレビでみたイチゴは実を重たげにプランターから垂れ下げて、メロンは店頭を彩るわけで。卑屈に嫉妬の浅はかな自我を見る機会というのはどうしてこんなに多いのかと、お他力様にお供えして問おうにも収穫するものもありませぬ。

 さすれば、あまたの人の手を流れてきたであろう10円玉にあらん限りの感謝を込めて、仙人もやし「9円」購入。なんて素敵なネーミング。もやしっこ万歳。


お豆腐に納豆・もやし・味噌・醤油 豆源郷に暮らしてたのね

今日の写真《なもしらぬ一葉》 Home&Photo


2002年07月09日(火) 初級宗教観

 私が大学に入った頃、入口の通りにはオウム浅原の写真と本が山積みしてあった。すぐそばには統一教会の支部があって、入学生の何人かが大学に通うより早くつかまって、こっちにはまるというのを良く聞いた。宗教というのはなんとも胡散臭いという固定観念は、考える以前にここで固まった。
 東京に遊びに行ったときは、草加から浅草へ向かう電車が荒川の橋の上で止まった。何の放送も無く数分後に動き出すしたが、北千住の駅で折り返しになった。爆発事件があったとか。ぶらぶら歩き回って、昼にお好み屋に入ると、地下鉄で何か事件があったらしい。地下鉄サリン事件。
 そんな中、2年ほど音沙汰無かった友人が物理から神学に転向した。熱烈なクリスチャンになって、どこか哀しげな風体も吹き飛んだようになった。社会に出てから教会に通うようになった友達もいた。

 教会に行ったのはクリスマスのデートくらいという不信人さだが、彼女の名前が教会のポストの中にあったのには少し驚いた。家族はみんなクリスチャンだが、彼女は洗礼を受けずにいるとのことだった。クリスマスくらいは聖書を読みたいといっていたが、宗教というものになんの知識もない私は、ただ「いいね」と答えただけだった。政治や宗教の話というのは、踏み込むにはためらいもあるし、私自身にとって未知の分野であるし。今思えば、家族全員がクリスチャンなのに、洗礼を拒否するということの意味の深さを知らずに、深く付き合うなど無理な話だったのだと思う。

 そういいつつ興味が無いわけではなかった。特に最近、洗礼を受ける友人が増えたり、自然環境のことを考えると、またローマ史を齧ったり、イスラムの潮流を思うに連れ、宗教観というか自然観というものの背後に何か大事なものがあるのか、果ては無いのか、欧米的なもの、イスラム的なものとは何かとか思いを馳せる事が多い。

 私の場合の入口は、自然観に対する宗教観であり、またローマ・ギリシャ史に対するキリスト教観である。聖典も読んだことが無ければほんの知識も無い奴だから、思いを馳せるのは歴史的俯瞰。
 古代史や塩野七生さんのローマ史を読んでる人間にとって、キリスト教史というのがどこか信じきれないのは、一神教という不寛容さにあるのかなとも思う。自然観として、8百万の神々を祭る方がよっぽどバランスが取れる。
 キリスト教に入信した友人は、全てを聖書に求める。そのことによって解放されたようで、本当に幸せそうで何もいうことは無いのだが、私にはしっくりこない。
 だからといって既存の宗教に答えを求めるのはどうかとも思うのだが、個人的には神道や仏教に惹かれるものがあった。日本において、神社やお寺にクリスマスツリーを飾ってしまう「寛容さ(いいかげんさ)」に魅力を感じるし、これまで世界に平和を達成できなかった無力な宗教達には無い何かがあるように思えたからだ。

 最近になって、ほんの少し本を読んだり、ネットの文を読んだりして興味が深まってきた。どうやら、本来仏教は、天国も地獄も論ずるものではなく、現世をいかに生きるか、いかに関係するかを相対的に問うものであって、絶対神も無ければ、信仰は捨てよ、というものらしい。神道も、天皇制に引っ張られている部分もあるが、絶対神のない「和」を体現する等身大の神話ということで収まるらしい。
 何より、キリスト教徒の内村鑑三にしても、盲目的に信じるというのは危険なことで、何かを信じることによって個人の領域を犠牲にするものではないとのこと。どんな宗教を信じていても、人の魅力は別次元だということも事実だろう。

 ま、私がこんなことを論ずるのは10年早いのだが、歴史と自然を秘めたライフワークにしたいと考える人間にとって、避けられないし魅力的な分野のようだ。何より、「〜教」とつくものに、「信仰を捨てよ」という言葉があることは興味深い。
 この辺のことについては、是非とも教養を深めたいなと思ったりします。


劫初より造りいとなむ殿堂にわれも黄金の釘一つうつ(与謝野晶子)

今日の写真《ある断面》 Home&Photo


2002年07月07日(日) 新暦の七夕

 七夕は織姫と彦星の1年に1度のデートだとか。
 確かに天の川をはさんで一際明るいアルタイルとベガは、夏の夜空に映える。天の川を飛ぶ白鳥と、夏の天頂はなかなか賑やかだ。

 北海道の七夕は、函館を除いて8月7日である。何でそうなのかなと思っていたが、旧暦ということを考えると8月の方が適当のようだ。
 テレビで、7月は梅雨の真っ盛りで、晴天率は20%を切るそうだ。

 地域に応じてそれぞれの暦があったように、そういう面では旧暦もあっていいのではと思ってしまう。年号が一般化しているわけだし。なかなか難しいけれど。

 太陽は顔を変えない。昇る高さと時間を変えるだけ。人はその影を見つめて一日の時間を決めてきた。太陽は直接見るには眩しすぎるのだろうか。
 月は毎日姿を変える。その姿を見て人は月日を決めた。大潮小潮。
 星は季節で形を変える。変わらない北極星を見据えて方角を決める。川は流れを変えて。

 地球のどこにいても、空に月、星、太陽は巡る。そして季節も巡るこの土地に生まれて、これは得なことだなと思う。

 季節を感じる暦とは、どんなものなのか。昔の人に聴きつつ、明日を高みを眺めて生きたいものだ。


今日の写真《上富良野より十勝連峰を望む(6/25)》 Home&Photo


2002年07月06日(土) 27時間テレビの東京物語

 24時間テレビを熱心に見たのは随分昔だが、フジテレビの27時間テレビは訳がわからなくていい。ずっと生でやるのかと思いきや、なぜかドラマ「東京物語」とくれば、見ないわけには行かないではないか。

 東京物語とくれば、笠智衆に原節子。何より小津安二郎。オマージュとはいえ、この作品を取り上げるのは製作者にとって難しい面もあるだろう。話では何作かリメイクがあるようですが。

 今回のは無理なく現代に置き換えて、なかなか好感が持てた。非の打ち所の無い松たか子の未亡人役も申し分なし。今映画やドラマでこのようなキャラクターの出る作品というのは難しいのでしょうが。

 東京に出た子供達を尋ねた老夫婦。けれど子供達はそれぞれの生活に忙しい。そんな中、早死にした息子の嫁だけが親切親身になってくれる。
 尾道に帰宅したあとすぐに倒れた母の死に際し、穏やかに絆がよみがえる。未亡人となった嫁も、徐々に旦那を忘れていく自分を許せなくて、その思いを静かに告白する。

 主役はお母さん役の八千草薫という感じ。宇津井健の父役も良かった。妻の死に際して静かに言葉を発する場面は、笠さんのシーンを想像してみたりしたけれど、原作のイメージを損なうこともなく、今回の作品として綺麗にまとまっていたと思う。

 目をつぶると、浴衣を着た笠さんが、ぽつりぽつりと言葉を発する様が見える。少し見上げるようなアングルで、開け放った縁側が見えるようだ。

 私は映画やドラマが好きで、古いのを中心にかなり見ているほうだが、見た作品の詳細はほとんど覚えていない。シーンとして覚えている作品は、やっぱり心に残っているのだと思う。

 また、小津さんの作品、観てみないとな。

 で、ついでに27時間テレビ深夜の、さんまと仲居君のトークは毎度最高におもろい。ロケで笑いを取るのは難しいと言っていたけれど、そんな中最強の笑いを取った鶴瓶師匠最高です。確かに、中継でやってる爆笑問題や雨上がり決死隊とか全然面白くないもんなー。


今日の写真《上富良野より十勝連峰を望む(6/25)》 Home&Photo


2002年07月04日(木) 後悔先に立たず

 この2,3ヶ月、テレビCMで倉木マイの曲がパワープレー状態だと感じている方、連絡ください。

 私の趣味の一つは、私と同様に何かを書いている人々の文を読むことだったりします。私が利用している「エンピツ」は、自由度が高いのと、読ませてもらっている文をコンパクトに登録できる点が気に入っていて、もっぱらエンピツ日記でかかれている人を中心に拝見しているわけです。
 その中に、4月から更新が止まっている日記があります。ちょっとニヒルな感じが私の趣味にはぴったりで、影ながら楽しみにしていたのですが。メールアドレスも公開していないので、でしゃばることも出来ません。やっぱり寂しいなぁ。
 こう書くと、誰にでも気軽にメールを送るようにとられるかもしれませんが、今までに自分からファンレターを書いたことは一度しかありません。掲示板を設置されていなかったので、仕方なく照れながら。1年以上拝読させていただきながら、最近幸せ者になられたらしく、かなり妬いています。ほほ。
 掲示板があれば、ふらっと寄れそうな話題があれば書き込んじゃいますが、つかず離れずで1年以上なんてのがほとんどかも。

 気がつけばかなり長い間、つらつらと書いている期間が長くなっていることに、われながら驚いています。読み返せば、誤字脱字の多さや、「です」「ます」調の乱雑さに頭を抱えてしまいますが、綴るというのは面白いものだといい年をして気がつきました。
 ここに書いている私は、実際に付き合っている人々にとっての私とは大きく異なっているでしょう。もしかしたらそう想っているのは私だけかもしれませんが、他の人はどうなのだろうと思うことがあります。友達に公開している日記なんかを見ると、素直に感嘆しちゃいます。

 私はいろんな人に迷惑をかけたり、礼を失して逃げたりしたことが多々あります。一生二度と会わないだろうと思っていた人と、私の知人達が今度会合を持つことになって、私のできれば知られたくない素行が友人達にばれてしまう事になり、まさに自業自得です。仕方ないなと思いつつ、運命というのは狭い世界を密に行き渡るもので。

 少し暗い日記を書いている人のほうが、日常はうまくやっているような気もします。私はここの方がましなことを思っているようなので、日常で失敗が多いのもうなずけるのかもしれません。

 今日、突然日記を閉じた方がいました。HPも止めたようです。ネットの世界でもいろんな中傷や揉め事があるらしく、1年を通じて同じところに同じ姿でページがあることは意外に少ないように思えます。特にコミュニケーションを活発にしているところは。あまりにきっぱりな去り際に恐れ入ってしまいました。
 私は、基本的には素っ気無いのでトラブルも無く、ネットでは恵まれています。けれどこれが、知人に見つかったらやっぱ困るなぁ。

 そんな事を思いつつ、やっぱり礼は尽くさないと駄目なのね。ああ、後悔先に立たずだなぁ。仕方ないかぁ。
 そういうことで、繰り返しになりますが、この2,3ヶ月、テレビCMで倉木マイの曲がパワープレー状態だと感じている方、連絡ください。


今日の写真《上富良野より十勝連峰を望む(6/25)》 Home&Photo


2002年07月03日(水) ひも付きの猫を飼って

 気がつけば盛夏の7月となっているわけで、締め切った部屋は蒸し暑い。

去年は6月下旬にこの部屋に引っ越してきて、窓は常に開けっ放しにしていた。風鈴なんかもつけて、何にもない白い雰囲気の部屋を楽しんでいたのだが、今年は脱走癖のある猫がいるので開けられない。で、猫に紐をつけて出られないようにしてから窓を開けて夜涼み。ひんやりした風が入ってきます。最低気温は14度。やっぱ、札幌の初夏は過ごしやすいねぇ。
 遠くで救急車のサイレンの音がかすかに消えていった。いつもはうるさい猫も外に興味しんしん。我が足にくくりつけた紐が盛んに引っ張られる。魅惑的な世界への脱出を押しとどめる吾を許せよ、猫。

 ベランダの作物たちは、やはり成長が思わしくない。まともなのは、じゃがいもとかぼちゃくらい。イチゴは2つまともな実がなった程度。つまみ菜は全然成長しない。タイムもまだまだ小さい。ミニトマトが青い実をようやく一つつけている。

 先日富良野の畑を少し歩いた。メロンは我が家の3倍くらいに成長していたし。ジャガイモも元気。やっぱプロは違うのかなぁ、とおもいつつ。土の失敗は大きかったのだろうな。あの市販の黒土って何に使うのだろう?

 富良野の畑はまだ青い作物ばかりで、畝とのコントラストが美しかった。ラベンダーの便りも聴こえてきた。青麦が小麦色に変わる頃はもっともっと美しいだろうなと思う。
 写真を撮りつつ歩いていると、ろくに看板もない砂利道の奥にひっそりと喫茶店があったりして。立派なログハウスにブランコまで手作り。お客が来るとは思えないのだけれど、こんなので暮らせるのかいな、とかいうのは下衆のかんぐりだろな。
 富良野の小道には喫茶店やらペンションが結構ある。田舎の丘の上でペンション経営というのは田舎暮らしの憧れとしては王道的だ。そんななか、工房やら写真館やらがとんでもないところにあったりして、立ち寄ってみたいと思いつつ過ぎてしまう。きっとかなり風変わりな人々がここには随分と住み着いているのだろう。

 キャンプ場で出会った長期滞在者の話だと、富良野には夏季の旅行者や長期滞在者を当てにした仕事がかなり昔からあったらしい。そこに「北の国から」のブームが重なって、土着的な夢追い人が集まる土壌が出来たのだと思う。しがらみから離れれば、少ない収入でも結構暮らせるものだ。一夏で100万稼げば後は何とかなるというのも、頷けない話ではない。そんな中から、自分流の暮らしを見つけて住み着いた人も多いのだろう。

 きっと、小さな鉢植えにトマトを育てて、次の年に富良野にやってきた向こう見ずで純粋な輩も多いことだろう。飼っていた猫を自由に外で遊ばせたいとか。十分な理由だ。

 自由にベランダに出られない猫がうるさくなってきた。で、窓を閉めた。

 そうして朝はやってくる。うん、でも私はこの街も好きなのよね。

今日の写真《上富良野にて(6/25)》 Home&Photo


2002年07月02日(火) 天体観測でみるもの

 どっかのグループ(バンプ オブ チキン?)で「天体観測」というヒット曲があったけれど、同じタイトルでドラマにまでなった。「白線流し」といい、いつから星を眺める趣味を持つ連中を主人公にするほど市民権を得たのだろうか。天文というと、アニメおたくと紙一重という連中というイメージが割りと強かったと思う。少なくとも、長瀬とか伊藤とかといういい男はいませんな。間違いありません。

 けれど、たとえば大学の天文サークルだと、もろ文科系という連中と、山系に分かれたりする。出かけていくところが山奥だったりする関係で、山登りやキャンプにはまる人も多い。星や山に興味を持つなどというのは元々ロマンチストで照れ屋の集団だから、サークル仲間とテニスや海だとかそういう方向にはまずいかない。どこまでもマニアックな集まりだ。青春を送るなら、こういうサークルは薦めません。素直に楽しそうなサークルを選びましょう。

 そういう私は完全に色白ガリガリがり勉風体なので、かなり見かけにコンプレックスを持っていながら山好きだ。医者に「君の筋線維は特別に細い」と先天的な理由を示唆されるほどだから、結構苦労もしている。それでも歩くのは好きで、人生もついでにプラプラしていたりする。
 男ばかりの面子で山の上に登って何が楽しいのか、といえば楽しいことはほとんど無い。あるのは無言でいられる空間と、溢れんばかりの星空。人工衛星の速い動きを追いかけながら、揺らぐストーブの音に耳を傾けていれば、孤独と孤独の関係を知ることができるように思える。仲間とはそういうものなのではないだろうか。
 そういいつつ、女性と登ったことも無いわけではないが、山馴れをしていると物を持つのもさほど苦ではないから、いろいろ持ってあげたりするのが頼り甲斐があるように見えるようだ。山登りは筋力よりも軽量さが重要なので、細い人間の方が有利なのだ。

 学生という時代を超えて、初めて「これでいいのか」と思うことは多い。卒業という期限が無い以上、ほっとけばその路線がいつまでも続く。今回のドラマもこのラインな訳だ。学生の間だって「これでいいのか」と思いつつ過ぎてしまうこともまた多い。結局誰でもいつか思うことなのだろう。
 そんな折に見上げる星空に何を見るのか。センチメンタルでも逃避でも、時には啓示でも、結局は何も変わらなくても、そんな瞬間を湛える生き物が人なのだろう。

 夏の空に白鳥をみて、織姫と彦星をつないで三角形を描く。ミルク色の天の川を求めて、意外に多い人工衛星を追いかける頃には、深い森の中に佇んでいることでしょう。
 一人であっても、恋人とでも仲間とでも、空を見上げるのは素敵なことだ。その瞬間は素直でいられるはずですから。時に醜い自分と向き合うこともありますしね。 Home&Photo


とんと |MAILHomePageBBS

My追加