「生きていくのに大切なこと」こころの日記
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2009年11月28日(土) 未来の為の今

 今日は名古屋へ帰る日ですが、日中は2番目の子どもと高校見学へ行きました。今回の約束の一つでした。
現地に早目に着いたので傍の公園で野球練習の様子を眺めました。子どもはテニスを楽しんでいるのですが「投げてみたい。やらせて〜」と何度か言いました。見たもの聞いたことに興味が湧くのは自然なことなのです。そして私も「高校見学に来るのにグローブが要るとは思いもしなかったねぇ」と言いました。
 見学の時間になって高校へ入りました。授業見学がありました。耳に残ったのは生徒さんを「おまえ」と呼ぶ教師の言葉でした。生徒さん達は笑っていましたし街中では子どもさん同士で「おれ」「お前」と呼びあっているのを見かけることもあるので呼ばれる生徒さんにも違和感はないのかもしれません。けれども…世界共通の英語ではどんな人と語り合う時も「私」と「あなた」だなぁと思うと…私は将来世界に羽ばたくかもしれない日本の子ども達のことを世界共通の言葉で丁寧に呼んでもらえたら…と思いました。
 体育館で説明会がありました。保護者からの質疑応答の時間になり、私も質問してみたいことが浮かびました。けれども、その学校に通うのは子どもなので私が質問をすることは子どもの境界線を越えることかなあ?と思い、質問をしませんでした。
学校長のスピーチでは子どもさんたちに「茶髪の人は居ませんから安心して下さい」と語っていらっしゃいました。私は(こちらの学校では、茶髪はいけないという基準を持っているのだなぁ)と思いました。ちなみに私自身は髪の毛もファッションも、すべてその人・その子どもさんの個人の問題だと捉えています。
 帰りに、子どもと2つの事を語り合いました。1つは茶髪のこと。一般社会に否定されている「茶髪」というものを子ども自身はどう感じているのかなぁ?と興味が湧いたのです。私は子どもに「茶髪をどう思うか聞いてもいい?」と尋ねました。子どもは「(茶髪の人は)居ないほうがいいけど、自分はしてみたい」と言いました。私は「そうなんだね」とだけ言い、心の中で(この子がしてみたいことが出来るように手伝いたい)と思いました。
もう1つは、質問を控えた自分がどうだったのか確認したくて湧いた質問でした。
「私ね、質疑応答の時に質問が浮かんだのだけど、この学校に通うのはあなたなのだから私が質問してはいけないと思って止めたの。もし私が質問していたらどう?嫌な気持がしたかなぁ?」。子どもはうなづきました。「そうだよね。あ〜私そうしなくてよかった…」。私は自分と他者との境界線を大切に出来たことを嬉しく思いました。
それからこう語りました。「親は子どもが可愛くて守りたい気持ちの中でついつい余計なことをしてしまうと思うの。でもそれは子どもにとっては迷惑かも知れない。だから私は、あなた達が伝えてくれた事のみを手伝うように意識しているの」。本当に、このように意識することが、子どもが自分を生きられる大人に育つのを手伝うことにつながっていると思います。
 帰宅すると夕方。高校見学へ行った子どもを含めた2番目と3番目の子どもはこの晩お友達の家へ泊りに行くことになっていました。3番目の子どものは今朝「(外泊から)帰ってきたらお母さんがいないという悲しい現実」と言い、私は本当にそうだと思いました。そして「又会えるから大丈夫だよ」と伝えました。その子どもは既に出かけていました。もう一度話が出来ると思っていたので残念でしたが、又会えるのですからその時まで楽しみを先送りにすることにしようと切り替えました。
そして2番目の子どもも出かける時間になり、用事をしている私に「バイバイ」と言いに来ました。私が玄関まで見送りに行くと、子どもは私に背中を向けたまま「また来てね」と言いました。親から与えられた、受け入れるしかない現実を受け入れようと頑張っているのが私の心に伝わってきました。私は、帰らないでこのまま居るよ。もう頑張らなくてもいいよと言いたい気持ちに駆られましたが、それは対症療法に過ぎないと分かるから言えませんでした。子どもの言葉をその場で受け入れられる状況が出来るように意識して生活しようと思いました。
 家に残っている1番目と4番目の子どもと元パートナーと4人で夕食をとりました。
元パートナーから「いつ戻る予定?」と尋ねられました。私は元パートナーと、最初の頃よりも幅広い話が出来るようになっています。けれども、子ども達の親として一緒に暮らすために大切なことが語れていないのです。そんな自分を説明する事が出来ず「未定」と答えるのに精いっぱいでした。もしも将来、私と子ども達と子ども達の父親とで心を語り合えるようになったとき、私も再びその場所へ遊びに来ることができるのかもしれません。
夕食後、1番目の子どもと大学のパンフレットを見ました。私は「4人のうちの誰かと私の大学生活が一緒になるかもしれないよ」と話をしました。子ども達は4人とも大学へ行きたいと思っているようなので本当にそうなりそうな予感。既に私の中の青写真としてあるのです。
4番目の子どもが「これ縫って」と繕いものを持ってきました。私はそのとき別の用事をしていたので「時間に間にあったらね」と伝えさせてもらいました。そして間に合うように動きました。(どの子どもに対しても同じですが)5歳の時に離れたその子の中にプラスの思い出が増えるように意識して楽しんだ2週間です。そのように意識する事は私にとっても精神史を変えてチャイルドを癒やすことにつながっていると思ったからです。私は最後にもう一度そのきっかけに恵まれたことを嬉しく思いました。縫い上がったものは子どもが気付いた時に持っていくことが出来ればいいことと思い、部屋まで運ばずにリビングに置いておきました。
 夜21時半。家を出る時間になりました。
1番目の子どもには「いろんなことしてね。楽しんでね」と、4番目の子どもには「遊んでくれてありがとう。いつも楽しんでね」と伝えました。子どもは母のすることを受け入れるしかありません。私はまだ子どもにさみしい思いをさせています。十分分かっていて、それでも帰るという事をするのは、その方が先に広がるプラスが大きいと感じるからです。それなのに残ることが出来たらどんなにいいかと何度も思い、バスに乗ってもまだ「帰らずに済んだら、一緒に暮らせたら…」と思いました。元パートナーの言葉が浮かびました。例えばもしも私が今から過去の家庭に戻るとすれば、一般的には私の人生も子ども達の人生もうまく納まったように見えると思います。その後、私を含めた家族の中の誰かに辛いことがあっても、離れていた時の事と元に戻った奇跡を思えば取るに足らない事になると思います。人々は「そのうち慣れるよ」と言うかもしれません。けれども、私にはそれがいい方法とは思えない。心を痛めて会社を休んで元気になった人が会社に戻ると再び疲れて動けなくなるのと同じだと思うのです。そして、私が過去の方法の中で生きるという事は子ども達にも過去と同じ事を要求することになるように感じます。
 夜の新宿は連なる飲み屋さんの電気で昼間のように明るく外国から来ている観光客らしい人々がたくさん歩いていました。その中をスーツケースをゴロゴロ押して歩く。その私の心はまだ2週間の生活の余韻の中に居ましたが、けれど、興味深く思ったのは前回のように疲れているのとは違うということでした。
しばらく歩くうちに、まずは車内でゆっくり寝れるようにしようと自然に切り替わっていました。私は心から安心出来して自分を生きられる時、自分も子ども達も大切にすることが出来ます。


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