「生きていくのに大切なこと」こころの日記
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訪問。 ある方は、今日はお会いしたときからぼんやりうつろな表情をされていました。ちょうど新聞を見ていたそうで、大きな見出しは「末期がん治療 余命3週間で延命中止」と書かれていました。 私から語りかけてもうなずかれることもなく視線があいませんので、私は話をやめて麻痺側の手に触れさせていただいたのですが、ふと新聞の見出しに目が留まり、この方はこの文字を読んで何を感じておられるのだろうかという疑問と、視線の合わなさと重なりました。 家族の方は、「本人は言いたい事がたくさんあると思いますが、すぐに言葉に出来ない分歯がゆいだろうと思います」と言われました。 私はご家族の言葉を心に留めました。私自身の昨日の気付きがあり、いのちは、一般の基準や価値とは違うレベルでそこにあるものだと、深く意識して、心の奥にしみこませました。
これまで、病院や施設でまたは今の看護ステーションで、たいてい、ある方の外見や状況を見てその内面を推測してきました。患者さんの問題点を挙げて、その事を解決するための計画を立て実行、評価し、さらなる問題点を探すことを繰り返していくのです。 もしも私が、「この方は、この文字を読んで、言葉を話せず寝たきりになってしまったご自身の人生を嘆き悲しんでいる」と推測すれば、「この方は問題を抱えている」という視点で看護計画が立ちあがります。反対に私が「この方は、この文字を読んで、今の自分に何が出来るかと、自分に出来ることを探しておられる」とすると、問題にはならなくなります。そして私の経験してきたものが変わっていなければ、別の問題点を探す必要が出てくる、ということになります。 今回、こんな方法に改めて疑問がわき、そして今朝の新聞の見出しとその方の表情を重ねた自分はどうかと。検査データーを見て、これはいけないと判断するのとは違っているのです。 私がもし自分の範囲で想像したものを元に動いたら、私は心を看護することからずれていくでしょう。そして、これから変えていけるでしょう。
この頃、移りゆく時の中で、いろいろな思考を見ます。プラスもマイナスもそして好奇心も、いろいろあります。 その中のどれも私の心で感じたものが基準だから、そのものが自分に必要かどうかを知る為にも、丁寧に見つめて紐解いています。それが、自分を知っているということにつながるでしょう。“でしょう”なんて表現…。でも今は人生の途中だから。 紐解くときにそれまでの情報の引き出しを開けることがあります。ちなみに、一昨日開けた扉の中の出来事は私の中では既に、ニュートラルの状態を確認できて新しい能力にもなりました。
傷を癒していて、あの時あんなに痛かったのに、よく、社会に出て仕事ができたなぁとか、よく、別の場所でも笑ったり遊んだり出来たなあと痛感することがあります。どうしてかな。わかるようでわからない。そしてそのうちに、「あら、こうだった」と言う日がやってくるのですから、分かってもわからなくてもどちらもいいです。
アイデンティティーという言葉があって、最初に知った文章では、ある人が自分の知っている自分と、他者から見た自分とが一致して持続していることから来る自信というような内容のことが書かれていて、私には少し難しかった。広辞苑では「自分が自分であること」になっていました。大きな意味のある言葉だなぁと痛感します。 自分を知っていて自分の内面を持ってありのままに生きられることが、“私でいいよ”というやさしさと“私は私だよ”というやわらかな自信に繋がるような気がする。そして、繋がった部分がある自分も感じます。
これからも、社会や周囲に染まらず自分で居たいです。 だから私は、今日ここに、今の自分を書きました。 今日もまた、自分で扉を開けて見つめて、傷ついた心を癒やす作業に繋げられる。 私は今を大切にします。
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