「生きていくのに大切なこと」こころの日記
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今日、訪問先で「麻痺の方の足を持っているその力が強いんだよ」と言われてハッとしました。 私もその方の身体に触れる指に力が入っているのがすぐに分かって、 それから、上司から独立して動き出す前までは、いつもやさしく丁寧にを意識できていたのにと残念な気持ちが沸き起こりました。 もしも私の手足が麻痺して、麻痺した手足を粗末に扱われたら、私は私の手足を粗末に扱われたことに怒りや悲しみを感じるでしょう。 自分はいつの間にか違うところを見ていたのだと反省の気持ちも沸きました。
私が心の基準を忘れて利用者さんよりも自分が前に出てしまうのは、出来ている自分にぶら下がる自分がいるから。評価や一般常識に巻き込まれるとすぐに社会の言葉に巻き込まれて、過去の思考に戻ります。
そして私は、看護師をする時、毎回、ここで失敗を繰り返してきました。 今回、「大丈夫だな。出来ることがあるなぁ」と感じ始めた頃、過去の自分を振り返り、同じミスをしてきた自分を変えていこうと意識できていたのに、現実ではあっという間に…でした。ある時から、“つもり”になっていたことも実感します。 それから、今気が付けたこと・気が付くきっかけを語ってくださる人がいたことを嬉しく感じました。 明日から又、何が出来るか探しを楽しめる私を大切にします。 午後、その方と交わした会話を記録を読み返しながら、看護とは何かと自分に問いました。1ヶ月前、そのイメージを沸かしたり表現したりができなかった“看護”は、今私の中で、ほんの少し形になってきたと感じています。 でも、今はまだ、言葉にして伝えると自分にプレッシャーをかけてしまいそうなので、もう少し心の中にしまっておくことにします。 それから、ある看護雑誌の中の投稿記事を読みました。私のように、医療の世界に疑問を持って辞めていかれる方が居ることを改めて知りました。 私は自分を楽しんで仕事をしていれば、今度はこのような場所で自分を伝えていくことができて新しい世界が開けるのかもしれません。 中に「ベッドサイドから政治を変えよう」という言葉がありました。どこの世界でも政治の影響はあるのだなぁと興味深さを覚えました。それと、看護を、「看護とは、自分を呈して患者さんを受け入れるもの」と定義されている方がいらっしゃいました。広い意味で、当たっていると感じる部分もあるのですが、やっぱり最初の地点でずれがあるような気がしています。 この定義の文を読んで吟味しているうちに、“肯定”という言葉が浮かびました。私の中で、肯定するということと看護という言葉はリンクしています。もっとも、肯定するということは、どこにあっても誰といてもそこにあるものだとも感じます。自然に。
私は心を看護する看護師になりたいです。
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