「生きていくのに大切なこと」こころの日記
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2004年08月18日(水) 大人の私

 職場では人手不足の中で更に人が辞めていきました。そして今は、何人かの人が辞めた人の分を掛け持ちしたり皆が無理をしている為に、安易に言葉をかけることが出来ない険悪な空気が流れているのです。私は今日、マイナスの空気に巻き込まれないよう意識しながら自分がしている事を忘れないようにすることで精一杯でした。

 今日は利用者さんを連れて他の病院を受診しました。その病院の外来は混雑していて、順番を待つ患者さん達の前を看護婦さんは忙しそうに行き来されていました。私たちは予約をしていたにもかかわらず、自分たちのわずかな情報すら行き交わされないまま30分待ち、その間に同じ場所を3度往復する羽目になりました。 私は時間に追われる事情が把握できてしまうのですが、その対応のまずさと長い待ち時間に怒りを感じました。しばらくすると、そこで働く人々も長いすに座り順番待ちをしている人々も、自分で生きる事を忘れているように見えてきました。病院だけではありません。社会に生きる人は皆過去の国の政策に染まる事を強制され、自分の事よりも他者の世話をする事を当たり前と思わされ、自分を忘れて「本当の自分」を見ずに生きる事を強いられてきたのです。経済主義を求めてそのような人格を強制してきたのは過去の社会ですから、今を生きる私たちはこれから自分を生きられるように声を上げていく必要があるのだと思います。

 ある女性は半身麻痺で車椅子生活をしていて、終日ベッドに横になったまま、お通じが出ない事に心を奪われ下剤依存になっていました。私は約2ヶ月前その方と、お通じの出る身体になるように 「一日にお茶をたくさん飲む」 という約束をしました。次には 「お茶を2杯飲む」 事が決まりました。更にその次には 「お通じを出す為にはお茶を何時飲むのが良いか」 になり、そして一週間前女性は 「自分でお茶を飲みたい時に飲みに行く」 と言いました。私は女性が自分から動く事を始めたのだと感じました。そして今日・・女性は私に 「下剤を下さい」 と言いました。私は振り出しに戻ったような気がしました。そしてよく考えると、私はこの女性の年齢や背景からまだまだ動ける力があると思えたので言葉かけをしてみたのですが、それをどう受け取るかは女性側の問題なのですよね。私の中には 「自分を意識しながら仕事をした」 という事実がある・それだけで良いのですね。私はこれからも自分を大切にしながら他者と関わる事をしていきます。

 私の職場はフロアが4つに分かれていて、利用者の介護度や痴呆度により選択され、私たちはそれぞれのフロアをローテーションで回ります。そして私は、仮にある方が高度痴呆を持っていたとしても、その方が自分でやろうとする事を手伝います。さらに私は常に私の 「より良い人生」 の為に動き、そして 「結果」 ではなく 「私が今をどう生きているか」 を大切にするのです。

 夕方暗くなってから心友と4人で公園に行きました。私は子ども用の小さな遊具の中を笑い転げながら渡り歩き、心の底から無邪気な気持ちになりました。そして木登りをしてみたら、登ることは出来たのですが、下へ降りれなくなってしまったのです。私はしばらく考えてから 「木から降りられない」 事を伝えました。下に見える地面がとても遠くに見え、心の底から不安を感じたのです。私は心友の一人に手を借り、別の二人がじっと見つめる中で、地面に降りることが出来、そこでふと思いました。私は今、出来ない事を 「出来ない」 と伝える時、自分の中にバリアを張らなくても良いのですね。これまでは、出来ない事を責められないように自分に囲いを作っておくか、出来る振りをする私で生きていたのかもしれません。

 そして私は潜ったトンネルの中で・渡り歩いた網の上で自分の身体が今はもう大きくなっている事を実感しました。私はもう子どもではない・・。私は私の感覚を感じながら、大人の身体と大人の心を持ち、プラスに動く生き方をしているのです。20:00


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